概要
1956年4月12日東京都武蔵野市生まれ。幼少時代に父親が信州大学の教授に赴任したため長野県へ転居し、高校まで暮らしていた。大学は東京大学を目指すも不合格(但し試験前の模試では80番目と合格圏にいた)し、一浪を経て一橋大学で入社。大学在学中に小説『なんとなく、クリスタル』を執筆し、文藝賞を受賞。大学卒業後は流行作家として「笑っていいとも!」のレギュラーにもなっている。
2000年に長野県知事選挙に出馬。1995年の阪神淡路大震災でのボランティアを強調した選挙戦を行ない、人気作家であることや長野オリンピックをはじめとする公共事業の負担に疲弊した長野県民から支持を得て当選した。就任後は「知事室をガラス張りにする」「議会で知事から提案はしない」「ダムはいかなる理由でも建てない」などこれまでの長野県の慣例を破る施策を行なった。しかしこの慣例破りに関して議会や県庁職員から反発を受け、特に名刺折り事件は田中と県庁職員の対立を象徴する出来事となった(後述)。
議会から不信任を受け出直し選挙を行なって再選するも、国政政党「新党日本」の結成や県庁人事の失敗、信州改称騒動、さらに水害が多発したことで脱ダムの有用性が疑問視されるなど支持率を落とし、2006年の県知事選挙で落選し退任した。なお、代わりに就任した村井仁は田中と真逆のことをやり始めたが、田中が調査していた長野オリンピックの賄賂疑惑まで握り潰したため県民の不興を買い、田中より短い4年で退任している。
退任後の2009年に行われた衆議院選挙で兵庫8区(尼崎市)から出馬。元国土交通大臣の冬柴鐵三を破り当選する。しかし2012年の第46回衆議院議員総選挙では落選。以降参議院選挙や横浜市長選挙に出馬はしているが落選を繰り返している。
出来事
名刺折り事件
2000年の就任時に田中は県庁職員の反発を感じていたことから各部署を回り、名刺を配って対立を和らげようとしたが、この時応対した企業局長が「知事が名刺を配るなんて言語道断」と食いつき、田中が「メールアドレスも書かれていますので」と釈明したところ「ではそれ以外は不要ですので」とテレビカメラの前で折り曲げてしまった。この様子が長野の各テレビ局で放送されると長野県庁に1万件もの抗議電話が殺到。県庁職員が休日返上で対応する事態となった。この反発に企業局長は辞表を提出したが、田中は「解釈の違いによるよるもの」として慰留した。
対談捏造事件
2005年に「新党日本」結成にあたり「田中が亀井静香と長野県で対談した」と朝日新聞が報じたが、その後田中が「亀井さんとは東京でしかお会いしていない」と発言したことで捏造が発覚し、朝日新聞は捏造した記者を解雇するなど処分を行なった。ちなみに事後処理の不味さもあり田中は朝日新聞を批判している。