就寝している者全員を一斉に起床させるための号令で、起床ラッパと共に発せられる。
一応、この号令が掛かる15分前に「総員起こし15分前」、5分前には「総員起こし5分前」という号令が発せられたが、「総員起こし5分前」の時点では必ず吊り床(ハンモック)か寝台(ベッド)に居なければならず、「総員起こし」の号令と共に一斉に飛び起きて行動を始めるという習わしであった。
これは、兵士らに厳格な規律を叩き込むと共に、攻撃時など集団全体の能力が重要視される場面において最大限の効果を発揮させる事が出来るよう訓練することが目的であったとされる。
主に新兵の教育を担っていた海兵団や、吊り床の艦では「総員起こし。総員吊り床おさめ」の号令と共に飛び起きて、一斉に吊り床を縛り上げて指定された場所に片付けなければならなかった。
吊り床ではなく寝台の艦でも同様に、使用していた寝台を号令と共に速やかに片付ける必要があった。
大日本帝国海軍が解体されてからも、その伝統を受け継いだ海上自衛隊や、かつて海軍が担っていた海上の治安保全や救難活動の任を受け継いだ海上保安庁でも同様の号令が使われている。
伊33号と「総員起シ」
1942年に竣工し、幾度となく「3」に纏わる数字が関わる事故を起こした末に、1944年6月13日に沈没した伊号第三十三潜水艦は、多くの犠牲者を艦内に残して1953年まで伊予灘の海底に横たわり続けた。
1953年(昭和28年)7月23日に浮揚作業が行われ、浮揚作業を行った作業員と同艦で勤務していた元兵曹がおよそ9年ぶりに艦内に入ると、犠牲者の多くは凄惨な姿であったものの魚雷発射管区画だけは酸素濃度が極端に低かったためか、この区画で発見された犠牲者の遺体は9年の歳月を経ているとは思えない様子であったという。
当時の報道では「彼らはまるで眠っているかのようだった」とも報じられているが、実際の状況はどうであれかつての戦友らに「おい、総員起こしだ。総員起こしだ。」と声を掛けた岡田兵曹の胸中はいかに想像できようか。
この発言は有名となり、この事故と浮揚作業を描いた吉村昭氏の小説のタイトル『総員起シ』にもなっている。