正確には踏切障害事故と呼び、昭和62年に当時の運輸省から発令された鉄道事故等報告規則で定める踏切道において、列車または車両が、道路を通行する人、車両等と衝突、接触した事故のこと。
鉄道事故での死亡者の大半を占める事故で、もっとも頻度の高い事故でもある。近年は立体交差化によって踏切を除却する取り組みも進められているが、多くの踏切が今も残っており踏切事故の根絶は不可能に等しい。
主な踏切事故
大阪駅清水太右衛門殉職事故
1907年5月31日発生。大阪駅駅員の清水太右衛門が駅西側の踏切で踏切番として勤務中、遮断機をくぐって線路に入った幼女を発見。すぐさま救出するも接近してきた西成線の列車と接触して重傷を負い、事故から22時間後に入院先で死亡。
自らの命を抛って幼女の命を救った太右衛門の功績を後世に伝えるべく現場付近に殉職碑が建立された他、1942年には太右衛門の行為を描いた紙芝居『鉄路の華』が作られた。紙芝居は長らく所在不明となっていたが、2011年6月に作者の息子からJR西日本へ寄贈された。
日高線踏切事故
1991年1月8日発生。日高本線苫小牧-勇払間の市道勇払沼ノ端通踏切で、立ち往生していたタンクローリーに鵡川発苫小牧行き普通列車(キハ130形)が衝突。列車は脱線転覆し、列車の乗員・乗客53名のうち45名が重軽傷を負った。
特に列車運転手は一命は取り留めたものの、両脚を切断する重傷を負った。この事故をきっかけにJR北海道は高運転台、衝撃吸収構造を積極採用するようになった。
成田線大菅踏切事故
1992年9月14日発生。成田線久住-滑河間の大菅踏切で、遮断機が下りていた踏切に進入していた過積載の大型ダンプカーに千葉発佐原行き普通列車(113系4両編成)が衝突。先頭車のクハ111-1038は脱線大破し、列車の運転士が殉職、乗客65名が負傷した。
殉職した運転手は衝突を覚悟し、パンタグラフを降下させる電源遮断措置を執っていた。事故直後は生存していた運転手だが、113系の運転室は狭く、衝突で更に狭くなっていた事から救出が難航し、病院への搬送中に命を落とした。
事故後、JR東日本は既存車両の前面に鋼板を追加貼り付けし強度を上げる工事(通称鉄仮面)を施工し、209系量産車やE217系などの乗務員室後部に脱出口を設置、運転室の拡大、衝撃吸収構造の採用に踏み切るきっかけとなった。
現場の大菅踏切は1998年に立体化され廃止された。
東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故
2005年3月15日発生。東武鉄道伊勢崎線竹ノ塚駅南側の伊勢崎線第37号踏切で、女性4名が浅草行き上り準急列車(当時)にはねられ、2名が死亡、2名が負傷した。
当時、この踏切は手動式(第1種乙踏切)であり、東武鉄道の係員が操作していた。事故発生前の列車が通過後に列車の接近を知らせる警報ランプが点灯したが、次の準急列車通過までに余裕があると踏切警手が思い込み、遮断機のロックを解除して2 - 3m上げてしまうという操作が原因だった。
西新井駅 - 竹ノ塚駅間は東京メトロの千住検車区竹ノ塚分室が立地しているなどの理由により高架化が困難なため、踏切をそのまま残して平面交差のままとしていたが、この事故により西新井駅 - 竹ノ塚駅間は足立区が主体となって高架化されることとなり、2012年11月に高架化工事が着手された。踏切事故から7年7か月での事業着手は異例の早さであり、また、区が主体となる連続立体交差事業はこれが初めての事例となる。2021年3月に高架化工事完了予定であったが、鋼矢板約2000枚が、線路内に埋設していたため、完成が2022年3月にずれ込んだ。