概要
陽電子 (Positron) はフェルミ粒子に分類される素粒子の1つであり、標準模型に登場する荷電レプトンの電子の反粒子である。記号はe+であり、日本語では時に英語をカタカナ転写したポジトロンでも呼ばれる。
名称 | 陽電子 |
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記号 | e+ |
組成 | 素粒子 |
粒子統計 | フェルミ粒子 |
グループ / 世代 | 荷電レプトン / 第1世代 |
電磁相互作用 | 作用する |
弱い相互作用 | 作用する |
強い相互作用 | 作用しない |
重力相互作用 | 作用する |
質量 | 510.9989461(31) keV/c^2 |
平均寿命 | 安定 |
スピン | 1/2 |
フレーバー量子数 | 電子レプトン数: -1 |
電荷 | +1e |
色荷 | 持たない |
弱アイソスピン | LH: 0 / RH: +1/2 |
弱超電荷 | LH: +2 / RH: +1 |
X荷 | LH: +1 / RH: +3 |
B - L | +1 |
反粒子 | 電子 (e-) |
理論化 / 発見 | 1931年 / 1932年 |
歴史
量子力学における基礎方程式にシュレーディンガー方程式が存在するが、これは一般相対性理論を考慮しない古典的な方程式であった。1928年、ポール・ディラックはシュレーディンガー方程式に相対論効果を組み込んだ「ディラック方程式」を発表した。この方程式では、電子の電荷が負電荷である必要は必ずしもなく、正電荷も許容する結果が導出された。ただしこの時点でディラックは、正電荷を持つ電子と言う新粒子の存在を予言した訳ではなく、単なる取り得る電荷の許容範囲を拡張したに過ぎなかった。しかしながら、ヘルマン・ワイルは1929年に、このディラック方程式では、現実には存在しえない負のエネルギーが導出される事を指摘。ディラックはその指摘を受けて方程式を再検討すると、負のエネルギーの存在だけでなく、電子が正負のエネルギーに自発的にジャンプしてしまうという、現実とはあまりに乖離した結果が導き出される事に気づいた。
1929年にディラックは、この矛盾を解消する為、負のエネルギーを持つ電子とは正電荷を持つ事、そして負のエネルギーに電子が勝手に遷移しないように、空間は既に負のエネルギーを持つ仮想的な電子で埋め尽くされているという「ディラックの海」の概念を発表した。ディラックは論文中で、海に存在するのは、正電荷を持つ粒子で当時既知であった陽子である可能性を指摘した。しかしながら、ロバート・オッペンハイマーはこの主張に強く反対、もしそれが正しいならば、陽子で構成された水素原子は急速に消滅してしまうだろうと主張した。またディラック自身が認めていたように、陽子と電子には大きな質量差があった。オッペンハイマーは1931年、負のエネルギーを持つ正電荷の粒子とは "反電子 (Anti-electron)" と呼ぶべき、電子と反対の電荷を持つ粒子であり、電子と出会えば消滅するだろう事を主張した。
ドミトリー・スコベルトサインは、1929年に電子とは同じような動きであるが、磁場における動きは電子とは反対である粒子の兆候を見出した。同じ年に趙忠堯も同様の実験結果を得たが、特に深くそれを追求する事はなかった。電子の反粒子を初めて発見したのはカール・デイヴィッド・アンダーソンであり、1932年8月2日に鉛板を通した霧箱中の宇宙線の観察で、電子と全く同じ電荷質量比 (電荷と質量の比率) を持つ粒子で、しかしながら正の電荷を示す粒子を発見した。新粒子は、アンダーソンが論文をPhysical Reviewに掲載する際、編集者の提案で "Positron" と命名された。こうした命名経緯から、陽電子は反粒子では唯一「反○○」という名称では呼ばれない。陽電子の発見でアンダーソンは1936年にノーベル物理学賞を授与されている。
アンダーソンは、もし実験を重ねていれば、趙忠堯がその発見者になっていただろう事を指摘している。また、同じ年にパトリック・ブラケットとジュセッペ・オキャリーニが陽電子を発見していたが、更に証拠を得るために論文発表を遅らせていたため、アンダーソンに先手を打たれてしまった。更にフレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリーも実験結果に陽電子を示唆する証拠を持っていたが、それを誤って陽子と解釈した為に発見を見逃していた。
なお、ディラック方程式で生ずる負のエネルギーを持つ電子は、実際には負のエネルギーではなく、時間反転として再解釈すべきであるという事が後の研究によってなされた。1942年にリチャード・ファインマンとエルンスト・シュテュッケルベルクは、時間について反対向きにした電子は正電荷を持つ事を提案した。ジョン・ホイーラーはこの解釈を、宇宙の全ての電子が同一の性質を持つのは、全ての電子が辿る世界線は1個の電子に集約される為であるという「一電子宇宙仮説」を発表した。1950年に南部陽一郎はこの考えを発展させ、電子と陽電子の対生成や対消滅は、本当に電子と陽電子が生成したり消滅している訳ではなく、単に電子の時間の方向が変化したに過ぎないという考えを発表した。なお、この話の中での時間反転とはタイムトラベルという意味ではない。巨視的なスケールで生ずる因果関係は、微視的なスケールでは適用されない概念である。
性質
陽電子は電子の反粒子であり、初めて発見された反物質である。CPT対称性により、その性質は符号が異なる以外は電子と同じである事が期待される。現時点では、電子と陽電子の質量比は8×10^-9以下、電荷比は4×10^-8以下である。
陽電子は電子と出会うと対消滅し、同等のエネルギーを有する光子を少なくとも2個放出する。エネルギー領域はγ線となる。逆に電子の質量エネルギーの2倍以上の高エネルギーのγ線からは、電子と陽電子のペアが対生成する。これは、真空中では常に仮想粒子の電子と陽電子が対生成と対消滅を繰り返しており、γ線のエネルギーを受け取る事で実在粒子へと昇格すると見なす事が出来る。
陽電子と電子が対消滅するまでの短い間、異種原子であるポジトロニウムが形成される。これは陽子を陽電子で置き換えた水素の変種と見なす事が出来る。また、反陽子の周りを陽電子が周回する反水素は、反原子として唯一合成されている反物質である。反ヘリウムは今のところ原子核のみであれば合成されているが、反ヘリウム原子の証拠は人類より高エネルギー状態を容易に生成できる宇宙空間でも見つかっていない。
陽電子はβ崩壊の一種であるβ+崩壊、別名を陽電子放出で生成される。通常のβ崩壊はβ-崩壊の省略であり、符号の違いは放出されるのが電子か陽電子の違いを反映している為である。β-崩壊では中性子が陽子へと崩壊するのに対し、β+崩壊では陽子が中性子へと崩壊する。代表的なのはカリウム40であり、0.001%がβ+崩壊をする。体重70kgの人は1秒間に4000個程の陽電子が体内で生成し、すぐさま電子と対消滅している計算になる。
陽電子は高エネルギー現象でも生成する。主にこれは宇宙線やヴァン・アレン帯、ブラックホールや中性子星のような特別な環境が想定されていたが、2011年には地球の大気圏内でも雷から発生する事が確認された。雷の高電圧で電子が加速され、電場を通る際に発生するγ線から生成すると考えられている。
用途
PETと呼ばれるポジトロン断層法は、医学において身近な存在である。β+崩壊をする、非常に半減期の短い放射性同位体を体内へと取り込み、崩壊によって放出される陽電子が電子と対消滅した際に放出されるγ線を観測する事によって、脳活動の観察やがんの診断に使用される。
陽電子消滅法は、固体の密度や結晶構造の欠陥などを探るのに使用される。固体に陽電子を打ち込むとポジトロニウムが生成されるが、その寿命は周りの物質密度に依存し、高密度になる程寿命が短くなる。もしポジトロニウムの寿命が長い部位があれば、そこは何かしらの物質がない空白地帯が存在する事を意味する。
非常に高エネルギーの陽電子は粒子加速器に使用される。LHCを超える次世代の加速器は電子と陽電子の衝突型が想定されているが、これは電子と陽電子が共に内部構造の無い素粒子な為、複合粒子である陽子を衝突させるのに比べて反応結果が簡単になる事が期待される為である。また、天文学における高エネルギー現象であるγ線バーストの研究に使用される。
その他
アイザック・アシモフの小説では、高度なロボットの頭脳として陽電子頭脳という用語がしばしば登場する。これは、1932年に発見されたばかりの陽電子は、アシモフが小説を書いた1940年代にはまだ新しい存在な為、未来感の演出にふさわしかった為である。