注意
歴史の上では1985~1998年まで開催されていた全日本ツーリングカー選手権だが、英名は1993年まではJTC(Japan Touringcar Championship)、1994年はJTCC(Japan Touring Car Championship)として区別されている。
ここでは、JTCC(1994年~1998年開催)について記述する。1985年から1993年に開催されていたものはコチラを参照のこと。
概要
JTC時代はFIA(国際自動車連盟)の定めるグループA規定により排気量別3クラス制で開催されていた全日本ツーリングカー選手権であったが、ベースとなる市販車の戦闘力の高さが求められるため自動車メーカーの負担が大きく、最後の数年はどのクラスもほぼ1~2車種の寡占状態になってしまっていた。
そこで1994年から1998年まではFIAの定めるスーパーツーリング規定のクラス2規定(排気量2.0L・4ドアセダンをベース)の1クラスのみに変更された。こちらはベース車両に戦闘力が無くとも広い改造範囲を利用することでカバーできたため、初年度から多数のメーカー(トヨタ・ホンダ・日産・マツダ・BMW・ボクスホール→オペル)が参戦した。
しかしすぐに開発が先鋭化し、参戦コストは高騰。開催2年目にしてJTC時代のように勝ち頭が固定されるようになった。加えて規則の解釈を巡る政治的な問題も頻発してメーカーの撤退が相次ぎ、最終年度はトヨタ1社のみという寂しい幕引きとなった。
JTC時代に人気を博した『インターTEC』も引き続き開催されていたが、数あるレースのうちの一戦という感じで特別感は無くなっていた。
当時は同時期に開催されていたJGTC(全日本GT選手権、今のSUPER GT)に比べて、一部を除くとベース車両がスポーツとは関係のない、それも前輪駆動のいわゆる「おっさんセダン」ばかりであったため(カローラ、コロナ、サニー、シビック、アコード等)、少々マニアックなレースとなってしまっていた面もある。
とはいえ多種多様な名車や名シーン・名ドライバーが揃っており、またセダンが不遇の今から見れば羨ましい時代でもあるため、未だに熱いファンも多おり、復活を望むファンの姿も少なくない。
よもやま話
ドイツからの遠征チーム
BMWは94年からドイツの有力プライベーターであるシュニッツァーを送り込んでおり、95年にタイトルを獲得している(目的を達成したとして、この年限りで撤退)。
なお同チームから参戦したプリンツ・レオポルド-フォン・バイエルンは、BMWの本拠地で社名にもあるバイエルン王国の君主の一族、「ヴィッテルスバッハ」家の出身である。
グループAとの違い
ホンダは参戦当初はシビックフェリオを投入していた。軽量・コンパクトなボディでグループAのディヴィジョン3で無敵を誇ったホンダらしい選択であったが、改造範囲の広いクラス2規定では小さいボディが改造の妨げになったり、コーナリングでの踏ん張りが効かないなど、むしろ逆効果となってしまっていた。
この反省から1996年にベース車両を一回り大きいアコードに切り替えるとすぐに競争力を取り戻し、96・97年とドライバーズタイトルを連覇している。
同じことはトヨタ陣営でも起こっており、小さいカローラ系の車両よりも、コロナエクシヴやチェイサーのような大きめの車両のほうが好成績を残していた。
ステーションワゴンの参戦
セダンが圧倒的な競争力を示す中、プライベーターの矢島工業がステーションワゴンのスバル・インプレッサワゴンを投入した。1996年と1998年に数戦のみスポット参戦したが、熟成に至る前にシリーズが終焉を迎えてしまった。
1997年富士インターTEC第16戦
JTCCは知らないけどこれは知っている、というレースファンもいるほど有名な事件である。
証拠映像(niconico)(視聴にはniconicoアカウントが必要です)
チャンピオンの権利を持つ中子修(ホンダ・アコード)と本山哲(日産・プリメーラ)がバトルとなり、中子が本山に当てて押し出してしまう。チャンピオンの権利を事実上失って逆上した本山は「報復」として中子にわざとぶつけ返してリタイアに追い込んだ。
この危険行為は関係者やファンから厳しく糾弾され、本山はキャリア最大の危機に陥った。彼の才能を認める関係者たちの努力もあって現役を続行できたものの、今でもこの件を持ち出して非難する者もいる。後に本山はフォーミュラ・ニッポンで4度、JGTC~SSUPER GTでも3度チャンピオンを獲得するという偉業を成しているが、もしこの時日本のレース界から永久追放になっていたら…と思うとゾッとしない話である。
本山は元々、血の気の多さが指摘されており、これ以前にも1995年のJTCC第5戦十勝では影山正美とレース中の接触を巡って大喧嘩になっている。
なお2020年にこの当事者2人の対談がオートスポーツ誌で実現しているが、意外にもその場で和解しており遺恨は残らなかったという。