概要
イギリスのF1チームであるタイレル(発音によってはティレル)が開発したF1マシン。
最大の特徴は通常13インチのホイールの所、10インチの小径フロントタイヤを採用して前後2軸とした6輪構成のタイヤである。
これは、フロントタイヤを小径化して空気抵抗を減らすことを目的としている。しかし、単純にタイヤを小さくしただけでは接地面積が不足してしまうのでタイヤ自体を増やすことでデメリットの解決を図ったのである。
なぜタイレルが空気抵抗にこだわったかと言うと、この車両の設計が始まった1974年当時のF1ではフェラーリやマトラ、BRMといった一部のチームを除き「フォード・コスワース・DFV」というエンジンを入手してマシンに搭載するという手法を採用しており(※1)、エンジンの面ではイコールコンディションであったからだ。
ストレートスピードを決める基本的な要素はエンジンパワーと、シャシーの重量、そして車両の空気抵抗である(それ以外にもギア比など様々な要素があるのだが、ここでは割愛する)。エンジンが同じならパワーも基本的には同じなので、そこに大きなアドバンテージを求めるのは困難である。重量もレギュレーションで最低重量が決まっているので限りがある。ライバルに大きく差をつけることが出来るとしたら残る空気抵抗の改善のみであり、レギュレーションさえ守れば自分の努力でいくらでも追求できた。そう言った事情でこの前代未聞、空前絶後(※2)の変態F1マシンが誕生した。
※1 このエンジンは1967年のデビューから1991年まで24年もの長きに渡り使用され、最終的には155勝を挙げるほど非常に優秀であった。
デビュー当時のライバルであるフェラーリやホンダのV12エンジンと比較すると軽量、コンパクトでV12勢よりやや劣るものの十分なパワーがあり、乗りこなしやすく、さらに低燃費で整備性も良いなど様々なメリットがあり、初年度こそロータスへの独占供給であったが、翌年以降はマクラーレンやマトラ・インターナショナル(タイレルの前身。前述のマトラとは別部隊のセミワークスチーム)など採用するチームが次々に増えていった。
何より莫大な費用をかけてエンジンを自社設計、製造するよりコスパが良かった。
ちなみに「フェラーリからエンジンを買えばいいじゃないか」と思うかもしれないが、フェラーリエンジンは1991年にミナルディに供給されるまで門外不出のエンジンとして有名であった。
それに当時のF1チームは、どこもぶっちゃけ町工場に毛が生えたようなレベルのチームばかりで、現在のチームのように潤沢な資金で優秀な人材を雇い、最新の設備を誇る巨大な組織という訳ではなかったので、エンジンを作る技術もお金もなかった。逆に言えばDFVエンジンや後述の市販主要部品が誕生したおかげで、そういった小規模チームでもスポンサーを確保して資金が用意できればF1に出走できたのである。
また、このDFVエンジンはお金さえあれば、色々なルートで入手できた。タイレルやマクラーレンのような有力チームから中古を購入することもできたし(マーチやマクラーレンはこのような部品販売をビジネスとしていた)、あるいは資金に余裕があるチームはエンジンチューナーにチューンナップを依頼してさらなる戦闘力向上を図った。
そのチューンナップされたエンジンもまた中古として他チームへ流れ、有力チームはさらなるチューニングを行うというような形で年々進化をとげ、デビュー当時は400馬力程度だったDFVエンジンは末期には500馬力程度にまでパワーアップを果たしていた。
当時の(特にイギリスを拠点とする)F1チームはこのDFVエンジン、ヒューランド社が製造していた市販F1用ギアボックス、スペシャライズド・モールディングズ社のボディワーク、グランプリ・メタルクラフト社製のウイングを購入し、果てはB&Sアプリケーションズ社やTCプロトタイプ社にモノコックの製造すらをも外注して、それらを組み立ててF1マシンに仕立て上げるという手法を採用していた。
こうしたマシンは「キットカー」と呼ばれ、80年代初頭頃にターボエンジンとグラウンドエフェクトカーの時代がやってくるまで主流であった。
チームによってどこまで外注するかは違っていたが、ヘスケス、シャドウなど一部チームは全ての製造を外注してしまい、自らのワークショップでは何も製造していなかったという。自分たちで行うのは、部品の設計とメンテナンスだけというチームも多かったようだ。
以上、非常に長くなったが、これがP34が生まれるに至った背景となる当時のF1チームの実情である
※2 F1の公式選手権レースに出走した6輪のF1カーは、2023年現在このP34のみである。後述の通り他チームも試作はしたがテスト走行のみでレースには出走させていない。
経歴
この車両のプロジェクトが開始されたのは1974年の8月頃。プロジェクトは秘密裏に企画、実行されており、それは今までタイレルは「00X」という連番の型式番号を歴代マシンに与えていたのに対し、このマシンを「P34(PはProjectのP)」と名付けたことにも表れている。
1年後の1975年8月にデザイナーのデレック・ガードナーによる設計が完了し、当時チームが現役で使用していた「007」をベースとした発表会とテスト走行の為の暫定仕様(※1)であるプロトタイプが生産された。
翌月の9月22日にイギリスはロンドン、ヒースロー空港のホテルで発表会が開催され、その姿が公開された。何が発表されるかは明確にされていなかったので、フランスのエルフ社製油脂を使用していることから同じフランスのルノー製エンジン搭載の発表だ(※2)、いやいやスーパーチャージャー付きのエンジンだ、はたまたオートマチックトランスミッションの採用だ、などと色々な噂があり、記者たちはどんな発表があるのかとソワソワしながら発表会に臨んだ。
発表会ではマシンにベールがかけられており、そのベールがマシンを組み立てた2人のメカニックの手によって剥がされた。ベールは後ろから剥がされ、エンジンが見えると噂に反して普通のDFVエンジンが搭載されていたので、会場は失望した記者の溜息に包まれた。しかし、いよいよ目玉となる2軸のフロントタイヤが現れた瞬間、会場が静まり返り、ある記者が冗談だと勘違いして笑い始めたのをきっかけにして全員どよめき始めたと言う。
その後テストを重ね、本番仕様となる専用設計のシャシーが用意されて実戦デビューしたのは1976年第4戦のスペインGP。このレースではそれまでテスト走行を主に担当していたエースドライバーのパトリック・ドゥパイエ用の1台のみ用意された。予選ではいきなりチームメイトのジョディ・シェクターを1秒以上も離して3位を獲得、決勝でもブレーキトラブルでクラッシュするまで3位を走行するなど高いポテンシャルを見せつけた。
所で肝心の6輪を採用したことによる実際のメリットだが、ぶっちゃけ空気抵抗に関してはノーマルサイズのままのリアタイヤの影響でさほど効果はなかったが、4輪のフロントタイヤがもたらすブレーキ性能と踏ん張りはライバルより抜きんでていたらしい。
翌第5戦ベルギーGP以降はシェクターの車両も用意されると、第7戦スウェーデンGPでのシェクターのポールポジションと1-2フィニッシュ(シェクター1位、ドゥパイエ2位)を含め好成績を収めた(※3)。
当時を知る日本のオールドファンには、初の日本でのF1開催であり、富士スピードウェイにて行われた最終戦「F1世界選手権インジャパン」でドゥパイエが見せた豪雨の中での力走と(一時トップを走り、2位表彰台を獲得した)、このレース限定の平仮名表記のチーム名とドライバー名のロゴ(たいれる、どぱいえ、しぇくたあ)も印象に残っていることだろう。
結果、タイレルはこのシーズンのコンストラクターズランキング3位、合計ポイントは71ポイントを獲得している。
こうした輝かしい戦績の一方、ステアリング周りの構成部品が増えたことや、特殊なサスペンション構造の為に開発は難航し、足回りのセッティングにも手を焼いたという。前代未聞の構成ゆえに熟成不足で信頼性や安定性も低く、成績とは裏腹にドライバーからの評価も低かったとされる。
これは後年インタビューに答えたシェクターの「よく壊れた。フロントサスペンションは剛性不足で、サス全体が曲がったり、しなったりの連続で走行ごとにキャンバー修正を強いられた」「コーナーでターンイン開始と同時に、あの小さな前輪ホイールがバタバタと上下動してしまうのでブレーキングを緩めないとタイヤにすぐフラットスポットが出来てしまう。それがP34最大の問題だった」「P34は絶えずどこかが壊れたり、歪んだりしていた。特にリヤサスペンション周辺が多かったと思う。ティレルのファクトリーに出向いて『怖くてもうこのクルマは乗れない。始終壊れてばかりだ』と首脳陣に伝えたこともあった。フロントのキャンバーが絶えず変わってしまうような剛性不足だったのに、チームは走るたびに調整するだけで、補強などの根本的対策は何もしなかった」という証言にも裏付けされている。なんとも危なっかしいクルマだったのである。
翌1977年、まず6輪化しても大して効果のなかったストレートスピード向上の為、1976年仕様ではカウルが被せられていなかったエンジンを覆うフルカウルを採用した。これはちゃんと狙った効果が得られたらしい。
さらに新たなメインスポンサーであるアメリカの銀行の「Citibank」がついたことで、1976年は青一色に黄色のカーナンバーとストライプに白字のスポンサーロゴだったカラーリング(メイン画像参照)が下半分は青、上半分は白というカラーリングに変更された。
またドライバーも変更があった。ジョディ・シェクターがウルフへ移籍、代わりにマーチからマシンをドリフトさせることで有名な「サイドウェイ・ロニー」のあだ名を持つロニー・ピーターソンが移籍してきた。
前半戦は新型カウルや後述の改良のおかげでドゥパイエは予選ではまずまずの好成績を収めたが、ピーターソンはマシンに馴染むことが出来ず、中団に沈んでしまった。肝心の決勝の結果もリタイアが多かったこともあり、第3戦の南アフリカGPでドゥパイエが3位表彰台を獲得してからは第7戦のベルギーでピーターソンが同じく3位になるまで優勝はおろか表彰台にも登れないという期待外れの結果に終わった。
しかしチームも対策はしていた。前述の南アフリカGPでは新シャシーを導入したり、あえてカウルを旧型に戻してみたり、試行錯誤はしていたが所詮1年落ちのクルマなので改良の余地も少なく、タイヤの問題もあって次第に低迷してしまう。
このシーズン途中からミシュランがF1に参戦し、タイレルにタイヤを供給していたグッドイヤーはミシュランに負けないようにタイヤの開発に注力していた。しかしP34の10インチのフロントタイヤは専用設計であり、グッドイヤーが通常サイズのタイヤの開発に必死で、開発が進まなかった。その結果、開発が進んでグリップが高いリアタイヤと、開発されていないので相対的にグリップが低いままのフロントタイヤというアンバランスな状況が生まれてしまった。
これを打破する為、第9戦フランスGP以降、フロントをワイドトレッド化する改良が行われ、さらにはフロント荷重の増加を狙ってオイルクーラーをフロントへ移設する改造も行われた(オイルクーラー移設はドゥパイエ車のみ。ピーターソン車は第12戦オーストリアGPから)。
これらによってファステストラップや表彰台を獲得するなど、上位に入る程の戦闘力を取り戻したが、前年に果たした優勝は出来ず、コンストラクターズランキングは4位、ポイントも前年比で-44ポイントの27ポイントに留まった。
また、車両とは直接関係のない話ではあるが、最終戦日本GPではフェラーリのジル・ヴィルヌーヴにピーターソンが追突され、ヴィルヌーヴが宙を舞い、落ちた先にいた観客と警備員(※4)を死傷させる事故が起きている。
そしてこのシーズンを以てP34は引退し、稀代の珍車として歴史に名を残すこととなった。
P34が当時のF1界に与えた衝撃は大きく、フェラーリやマーチ、ウィリアムズといった他チームも類似のマシンを試作したが、テスト走行のみで実戦デビューはしていない。しかし、どれもリア2軸(ウィリアムズ・FW08B、マーチ・2-4-0)またはリアがダブルタイヤ(フェラーリ・312T2)というタイレルとはまた異なる6輪車であった。
空気抵抗を削減するには、本来なら大きな外径のリアタイヤの方が問題であり(※5)、これらのチームはリアタイヤを小さくする判断を下した。
ただウィリアムズは本気で6輪車をデビューさせるつもりだったらしいが、デビュー前の1983年に「タイヤは4輪まで」とレギュレーションが変更されてしまった為、2例目となる6輪車のデビューは叶わなかった。そのことで当時ウィリアムズのテクニカルディレクター(技術責任者)であったパトリック・ヘッドはブチ切れたとかブチ切れなかったとか。テストではかなりの好感触だったらしい。それ故に現在では6輪車はF1の公式レースに出走できない。
※1 燃料タンクがレースを走り切るだけの容量がないなどそのままレースに出走することが出来ない仕様だった。尚このプロトタイプP34とも呼ぶべき個体は現存しており、ドイツのジンスハイム・テヒニッヒ・ミュージアム(ジンスハイム技術博物館)に展示されている。
※2 実は本当にルノーのターボエンジンを1977年から搭載する計画があった。残念ながら実現はしなかった。
※3 このスウェーデンGPのプラクティス(練習走行)では、フロントタイヤのひとつが脱落したものの、ドライバーのシェクターは気づかなかったという珍事が発生している。以下、その事に触れたインタビューを引用する(三栄書房刊 「GP Car Story Vol.26 Tyrrell P34」より)。
「プラクティス中にホイールがひとつ外れたんだ。デレックが私のそばに腰を下ろして、『どんな感じ?』と聞いたので、私は『えっと、ほんの少しアンダーステア気味かな』と答えた。すると、みんなが一斉に笑い始め、その部分に毛布を被せてクルマをガレージに引っ込めた」
※4 本来その場所は立入禁止区域だったが、1コーナーの先で絶好の観戦、撮影スポットであった為、何人かの観客が侵入してしまっていた。警備員がこれらを退出させようとしている最中の悲劇であった。
※5 P34に限らず、当時のF1マシンを見て頂ければ分かるが、本当に大きい。まるで樽のような印象を受けるタイヤサイズを採用していた。また、その当時はバイアスタイヤと呼ばれる構造のタイヤを採用しており、走行中は高速回転に伴う遠心力でさらにタイヤが膨れ上がり、より一層大きくなっていた。現行のラジアルタイヤと呼ばれるタイヤ(これがF1に初めて採用されたのは前述のミシュラン初参戦時のタイヤである。後にルノーにオールフレンチ体制でのフランス万歳!な優勝をもたらすが、それはまた別のお話)より構造上遠心力に弱いので、そのような現象が起きていた。
現状
海外に走行可能な保存車を含む複数台現存する他、日本では田宮模型(以下「タミヤ」とする)が静岡市の本社に実車(P34/3-2)(※1)を保存しており、平日限定の要予約ではあるが、タミヤ本社へ見学に行けば実際に見ることが出来る。しかし、イベントに貸し出されることもあるので、行けば必ず見られる訳ではない。
海外にある走行可能な個体(P34/5)はみんな大好き弱小F1チームの代名詞、ミナルディに長く所属していたことで有名な元F1ドライバーのピエルルイジ・マルティニが所有しており、自らドライバーを務めて時折イベントで走行させている。彼は少年時代に1976年のモナコGPでこの車両を見て衝撃を受け、ずっと憧れていた。また、1977年にこの車両に乗っていたロニー・ピーターソンもお気に入りのドライバーだった。ちなみにその個体はフロントはナロートレッドでフルカウルという1977年の序盤戦仕様となっている。P34を設計したデレック・ガードナーの助言を元に現在入手可能なエイボン社製タイヤに合わせたセッティングを施してあるそうで、走行の際は結構本気で攻めている。尚、メンテナンスに関わっているエンジニアやメカニックは元ミナルディのスタッフである。
2019年には鈴鹿サーキットで開催されたイベント「Suzuka Sound of Engine 2019」に登場、土日両日走行予定の所、燃料漏れのトラブルで土曜日しか走行できなかったが、中々な力走を見せてくれた。
その際はタミヤ所有の個体も鈴鹿に持ち込まれ、2台のP34が揃うという貴重な機会となった。マルティニは自分が所有するもう1台のP34(P34/2、長らくイギリスのサーキットであるドニントン・パークに併設されていた博物館「ドニントン・グランプリ・コレクション」に展示されていたが、そこが閉館するに伴い購入した。ちなみに前述の1976年のモナコGPでマルティニ少年が目にしたドゥパイエが乗っていた車両そのものである)をタミヤの個体と同じ1976年仕様にしてレストアする為にこれをつぶさに観察して写真に収め、寸法を測っていた。そう、驚くべきことにマルティニは2台もP34を所有しており、間違いなく世界一のP34オタクである。この時来日した目的の1つがタミヤの個体を見ることだったとか。
また同イベントにてF3000やポルシェ・962Cなどでデモランとは思えない程の爆走っぷりを披露した元F1ドライバーのティエリー・ブーツェンと共にトークショーにも登場し、通訳の人が追いつかない程に熱くそのP34愛を語っていたこともここに記録しておく。
ジョディ・シェクターもP34/4を所有している。前述の通りあれだけボロクソに言っておきながら、なんだかんだ愛着はあるようだ。とんだツンデレである。もっとも彼は「とてもコントローラブルだった。ストレートでも意図的に4輪ドリフトできるほどで、完全にコントロールすることができる楽しいクルマだった」というコメントも残しており、P34にはマイナスイメージしかないという訳でもないようだ。
※1 1976年のオーストリアGPでクラッシュした後改修された為、3-2と変則的なシャシーナンバーになっている。尚、この個体に搭載されているエンジンはモックアップ(外見のみの動かないエンジン)の為走らせることは出来ない。
商品化
前述のタミヤから本車両のプラモデルが1/12と1/20の2種類のスケールで発売されており、1/10のラジコンも発売されている。「シックスホイーラー」という愛称が付けられており、実車がデビューした当時に設計された古い製品(※1)であるが、度々再販され、タミヤの看板商品の一つとも言えるほどの人気を博している。
プラモデルは前述の通りご長寿キットだが、両スケールとも本車両を余すことなく緻密に再現しており、特徴的なサスペンションの構造などをプラモデルを組み立てながら学ぶことが出来る。古いだけにヒケが酷かったり、パーツの合いが悪く、パチピタで組むのは困難など少なからず難点はあるが、完成した時の感動はひとしおだ。
ラジコンも普通のダイレクトドライブ車とはまた異なるフィーリングを味わうことが出来るので、機会があれば是非体感してほしい。近年再販されたモノは未だに強い人気を誇るF103ベースなので改造パーツも豊富にあり、腕を磨いてセッティングを煮詰めれば今尚それなりの戦闘力を発揮するはずだ(実車同様フロントホイールとタイヤの確保及び前後のグリップバランス調整(※2)に苦しむことにはなるかもしれないが)。
またタミヤがF1マシンの商品化に際してロイヤルティを支払うようになったのもこの車両からだと言う。
タミヤが商品化したのは1976年仕様だったが、フジミは1977年仕様で1/20のプラモデルを発売しており(こちらは2010年代前半の発売と比較的新しい)、何を血迷ったのかナロートレッドorワイドトレッド、あるいはフルカウルorハーフカウル、さらに雨のレースだった所はウェットタイヤを付属させるなど各グランプリの仕様違いをほぼ全て商品化している。フジミの方は大人の事情か再販されておらず、店頭で見かけたら即購入することをおすすめする。
それら以外でもスーパーカー消しゴムにもなっていたり、大小様々なスケールのミニカーがあったりと商品化は枚挙に暇がなく、今尚新しい商品が発売され続けている。いかにP34が人気であるかがお分かりいただけるだろう。
あるいはこの車両単一のページがpixiv百科事典に立つほどの知名度と人気があるのは、奇抜で印象的な外見だけが理由ではなく、色々な形で商品化されたこともその一端を担っているのかもしれない。
※1 ラジコンはボディがプラスチックから破損しにくいポリカーボネートになる、シャシーがF103ベースになるなど時代に合わせた変更はされている(F103の設計もそこそこ古いのだが…)。またプラモデルも1/20は当初モーターが搭載して自走させることができたのがオミットされる、大人の事情でグッドイヤーのデカールがない、エッチングパーツが追加されるなど再販された時期によって仕様違いが存在する。
※2 リアはハブを交換するなどの改造をすればF103用の汎用ホイールとタイヤが使用できるが、少なくともフロントはタミヤ純正タイヤとホイールを確保する必要がある(もしかしたらサードパーティ製があるのかもしれないが、編集者は寡聞にして存じ上げない)。しかし残念ながら現在はタイヤもホイールもスペアパーツとしては通常販売されていない。アフターサービスとしては取り扱いがあるようなので、自分で注文するか、アフターサービスの部品を取り扱っているショップを探そう。フロントタイヤは1/12用スポンジタイヤを切った貼ったして使う強者がいるとかいないとか…。そうなると実車がそうであったように前後のグリップバランスがあうタイヤ、セッティングを探す必要がある。
関連項目
ティレルビートル…本機をモデルにしたと思われるメダロット。こちらも青色かつレクリスモードが6輪の車のようなスタイルになる。