留意
本施設はソビエト社会主義共和国連邦時代に建設されたものであること、地名として「チョルノービリ」は存在するが、本施設の所在地はソ連によって建設された秘密都市・プリピャチであること、外国地名の日本語表記(漢字・ひらがな・カタカナ)は正確なものとは限らず、時代によっても変化することから、記事名の拙速な変更は不適当なものと思われる。
現在のところ、日本国政府が公文書においてチェルノブイリ原子力発電所の名称を変更した文章は確認されない。表記は「チョルノービリ」「チョルノーヴィリ」「チョルノーブィリ」などが錯綜しており、記事名の変更は日本国政府の公文書において確定されるのを待つべきだと考えられる。
概要
当時ソビエト連邦の構成国の一つだったウクライナに建設された原子力発電所で、正式名称は「V・I・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」。レーニンの名前が含まれているが、実際はレーニン縁の地というわけではなく、「共産主義とはソビエトの権力と全国の電化である」というレーニンの言葉にちなんで名づけられた。
また施設名に「チェルノブイリ」とあるものの、所在地は都市としてのチョルノービリ(チェルノブイリ)からは冷却用の人工湖を挟んだ対岸(北西約18km)と離れた位置に所在している(そのため、発電所職員の居住地として新たにプリピャチという都市が造成されていた)。
1972年に建設開始。1977年、レニングラード原子力発電所、クルスク原子力発電所に次ぐソ連国内の3番目の原子力発電所として、1号機の営業運転が開始された。その後、1978年に2号機、1981年に3号機、1983年に4号機が順次完成して営業運転を開始した。
4基の原子炉はいずれも「黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)」というソ連が独自開発した原子炉に分類されるもので、その中でも電気出力100万kWの「RBMK-1000」型原子炉だった。
4号機までが運転を開始した時点でチェルノブイリ原発は合計でソ連の原子力発電量の15%、ウクライナの電力の10%を生産しているという、ソ連国内でも指折りの規模を持つ原子力発電所となっていた。また、ソ連からハンガリーへのエネルギー輸出の80%を占めていたという。
それらから1kmほど離れた場所に5・6号機が建設されており、5号機は1986年4月時点で約7割が管制していた他、更にプリピャチ川を挟んだ対岸側に6基の原子炉が建設される計画があったという。
もし完成していたら名実とも世界最大の原発になっていただろうチェルノブイリ原発だが、その名声は突如として暗転した。
チェルノブイリ原子力発電所事故
1986年4月25日、4号炉では定期点検に入る準備として運転停止作業が行われており、それを利用していくつかの実験が行われていた。その中には非常時を想定した実験も含まれていた。
チェルノブイリ原発には当然非常用ディーゼル発電機が設置されていたが、それが起動してから冷却水用循環器ポンプに必要な電力を発電できるまでには、起動後数十秒が必要だった。それでそこまでのストップギャップとして、それまで発電を行っていたタービン発電機を冷却水用電源喪失後に慣性で回転させることで引き続き発電させ、所要の電力を確保しようというのがその内容である。
実験は大幅に遅れて深夜から開始されたが、翌26日午前1時23分、4号炉は暴走して水蒸気爆発し、世界最悪規模の爆発事故を起こした。
- 設計上炉が不安定となる低出力状態での運転を長時間続けたこと(キエフの給電指令所の指示で続けざるを得なかった)
- 作業員の連絡の不徹底(実験の大幅な遅れで本来実験を行うはずだった昼勤チームではなく夜勤チームが行うこととなったが、その際の引継ぎが不十分だった)
- 実験に当たった運転員の教育不足や手順ミス(夜勤チームは原子炉停止後の冷却が主な仕事で、そもそも今回の実験についての訓練を十分受けていなかったが実験を強行した)
- RBMK-1000そのものの設計上欠陥(異常に気づいた運転員によって緊急停止ボタンが押されたが、RBMK-1000では制御棒の構造上、緊急停止のための制御棒引き下げ手順の中で中性子を吸収していた軽水柱からほとんど中性子を吸収しない黒鉛製の部分に一時的に置き換わる(その後に中性子を吸収するホウ素部分が挿入される)ため、条件次第では逆に核分裂を促進して臨界状態になる危険性を孕んでいた)
などが重なったと見られており、結果として破壊された炉心から燃料が漏れ出して大量の放射線が放出された。
ソ連当局は当初事態を隠蔽しようとしていたが、2日後にスウェーデン国内で高線量の放射性物質が発見されたことで事態が発覚。
周辺住民が避難させてもらえたのは事故発生から3日目のことだった。
死亡者は現場で33人と言われているが地元民の被害の詳細はわかっていない。16万人が避難を余儀なくされたと言われており、未だ半径30km以内の居住は禁止されている。
近隣の森は木々が枯れ果て「赤い森」と呼ばれいまだに高い放射線が残留している。
ちなみに当時のソ連指導者ゴルバチョフがこの事態を知ったのは、西側のニュースを見てからである。このことから彼は組織改革の必要性を痛感し、ペレストロイカやグラスノスチといった改革へと至る。
1991年のソ連崩壊後は名称がチェルノブイリ原子力発電所へと改称されたが、発電所入口の看板は交換されていない。
事故後も1号機から3号機までは発電を続け、運転が停止したのは事故から10年以上が経過した2000年のことである。
チョルノービリとベラルーシ
原発がウクライナとベラルーシの国境にほど近い位置にあった事、更に当日の風向きの関係で放射性物質はチョルノービリのあるウクライナよりもむしろその北のベラルーシの方に集中した。汚染物質の7割以上はベラルーシに降着し、国土の1/4近くが汚染される羽目になったのである。
そのためベラルーシ国民の間には原子力発電所に対する忌避感が少なくなく、エネルギーのロシア依存から脱却すべく北西部のオストロベツに原子力発電所を建設した際にはの国民の少なくとも1/4以上、調査によっては半数近くが反対したという。中には採算が取れない事を危惧しての反対意見もあったが、それ以上に安全性への不安による反対意見が多く、原発事故がベラルーシ人のトラウマになっているであろう事は想像に難くない。
ウクライナ侵攻によるロシア軍兵士被曝事件
2022年2月25日ウクライナに侵攻したロシア軍によって完全に占拠されたが、主攻のキーウ(キエフ)都心部やアントノフ国際空港での戦いに敗れたため、同年3月末にはロシア軍はここからも撤退している。
欧米系メディアの報道によると、ロシア軍兵士が「赤い森」に塹壕を掘って滞在したため放射線障害の症状を呈してベラルーシの病院に搬送されたとされている。ウクライナ側の資料と照らし合わせると、ロシア兵が塹壕を掘っていた場所はCs137だけで1~5kBq/m^2という高汚染土壌の地帯であるとされている。そのほとんどは4号基から見通し距離で、飛散した燃料集合体の放射性ウランやプルトニウムが降下していてもおかしくない場所である。
ロシア軍撤退後ウクライナ側の管理会社「エネルゴアトム」が調査を行い、ロシア軍赤い森の地面に塹壕を掘って一ヶ月滞在するだけでなく敷地内の廃棄物貯蔵庫からコバルト60などの放射性物質を盗んでいたことを公表。
「数秒でガイガーカウンターが振り切れるレベルの線量」であるものを素手で掴むと言うとんでもないことをやらかしていたことが発覚、ロシア軍の兵士への教育が全くできていなかったことが改めて世界に知られた。
現地の混乱もありロシア兵が持ち去った放射性物質の行方はわからず、被曝事故の拡大や被害は掴めない状態にある。
関連タグ
大韓航空機撃墜事件:ソ連時代のやらかしの一つ。
ゴイアニア被曝事故:放射性物質への知識がない窃盗犯が泥棒により起こした被曝事故。