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南宋

なんそう

中国、宋王朝後期。金に華北を奪われて後に再建されてから、滅亡するまで
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概要編集

中国の王朝が、女真族が建国したにより一旦壊滅し、臨安を都に再建(1127年)されてから、モンゴル帝国王朝に攻められて臨安を失い、ついに崖山の戦いで滅ぼされる(1276年)までの期間を指す。


経済的文化的には宋代で最も栄えた時期で後世への影響も大きい。占城稲という品種のベトナムから伝わって米の生産高が急増する。その余波は他産業の発展も促し、陶磁器の産地景徳鎮成立、絹織物、木版印刷などが栄える。文化では儒学者朱熹が出て朱子学という儒学の新体系が成立した。


歴史編集

宋は金朝などの北方遊牧民王朝に対して良く平和を維持してきたが、徽宗の奢侈と暴政から方臘の乱などの農民反乱が続き、ついに金の軍勢が南下して開封の都を奪われて滅亡する(靖康の変)。宋の皇族はほとんどが金軍に囚われたが、難を逃れた康王趙構は杭州の街を拠点として軍勢を立て直す。岳飛らの将軍が奮戦して金軍を食い止め、康王は皇帝に即位(高宗)し、杭州を臨安と改めて都とした。先に滅んだ宋王朝を北宋、再建された宋王朝は南宋と呼ばれる。


金への対処は主戦論の岳飛らと和平論の秦檜が対立する。岳飛は金の軍勢を朱仙鎮の戦いで破って開封奪還間近まで迫ったというが、結局は高宗は秦檜の和平論を採用した。岳飛は政争に敗れて無実の罪で処刑される。秦檜は金と和平を結び、およそ150年にわたる和平をもたらした。南宋は江南の開発を進め、高宗と二代目皇帝の孝宗の二代に渡って北宋を凌ぐ繁栄の全盛期をもたらした。しかし後世には秦檜の低姿勢外交は不評で、現在も岳飛像にひざまづく売国奴として秦檜像がおかれており、現地の中国人に像が足蹴にされたり唾を吐かれたりしている。


南宋の繁栄を崩壊させたのはモンゴル帝国であった。モンゴルの皇帝クビライは南宋が川を巧みに用いて抗戦することを考慮し、あえて騎兵ではなく漢人の歩兵を中心とし、補給路を断つ持久戦で南宋の城市を次々と降した。南宋側では将軍張世傑が活躍して一度はモンゴル軍を撃退する大功を建てるが、戦力が及ばずに臨安は陥落する。南宋側は都を逃れて各地を転戦して抵抗するも衆寡敵せず、ついに崖山の戦いにて最後の宰相陸秀夫が幼帝衛王趙昺と共に海に身を投げて自害する。文天祥は科挙に首席で合格した俊才であったが、この国難に兵を率いて戦い、講和の使者も務めるが決裂に終わる。臨安陥落後も残兵を率いて各地を転戦した。ついにモンゴルに捕縛され、その人物を惜しんだモンゴルからの度重なる帰順の勧めを断って刑死した。文天祥は忠臣の代表格の一人として後世に伝わる。張世傑もモンゴルの登用提案を断り、転戦を続けて死んだ。文天祥張世傑陸秀夫は後世に忠義の模範たる亡宋の三傑として讃えられる。


関連タグ編集

 北宋

岳飛 秦檜 文天祥 張世傑 陸秀夫

南明王朝も清の華北征服に対して同様に南方で生き延びようとしたが、長生きはできなかった。

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