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島野修

しまのおさむ

日本の元プロ野球選手であり、元球団マスコットのスーツアクター。日本のプロ野球界に球団マスコットが定着する礎を築いた功労者として知られている。

概要編集

1950年6月2日生まれ。神奈川県横浜市出身。選手時代のポジションは投手

1968年、武相高校からドラフト1位で読売ジャイアンツ(以下巨人)に入団するが、高校時代の投げ過ぎが原因で肩の故障に悩まされ、一軍での登板は僅か24試合、勝利投手になったのはたった1回だけという何とも寂しい結果に終わる。

1976年に阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)に移籍するが、一軍での登板はなく、1978年にひっそりと現役を引退した。


転機が訪れたのは1981年。飲食店を経営していた島野のもとに、ブレーブスから球団マスコットの仕事が舞い込んでくる。

元プロ野球選手のプライドから最初は断った島野だったが、球団からメジャーリーグの試合で活躍するマスコットたちの映像を見せられたことで考えを改め、同年4月からブレーブスのマスコット・ブレービーのスーツアクターとして球界に“復帰”する。

島野の努力もあり、ブレービーはたちまち人気者となった。だが、しばらくして東京新聞が島野を辱めるような見出しの記事を掲載し、やがて巨人の親会社である読売新聞も島野に対して批判的な記事を載せるようになり、島野は心無いファンから野次や罵声を浴びるようになる。

島野はマスコットの仕事を続ける自信を失い、辞めようとも考えたが、ある日球場近くの食堂で「ブレービー面白かった。またブレービー見に連れてってよ」と親にねだる子供の声を聞いて思い止まり、マスコットの仕事を続けた。


それから時は流れ、親会社や球団名が変わり、マスコットがブレービーからネッピーへと変わった後も、島野はマスコットとして“出場”を続け、1996年には通算1000試合出場を達成し、ファンや選手から祝福された。この時、島野はイチローから祝辞を受けた。


1998年のシーズンをもってマスコットの仕事を引退し、その後はオリックスの球団職員を務めていたが、2004年に体調不良を訴え、病気療養のために退職。

2010年5月8日、脳出血で死去。享年59。島野の逝去に伴い、ネッピーもマスコットを勇退することになった。

余談編集

島野が指名された1968年のドラフト会議は、星野仙一山本浩二田淵幸一山田久志東尾修福本豊有藤通世など、後のプロ野球史にその名を刻んだ名選手たちがこぞってプロ入りした、正に「大豊作」と言える年だった。

巨人は当初、本命の田淵が獲得できなかった時は星野を指名する予定だったが、当時巨人の監督だった川上哲治が将来性のある選手を希望したため、島野を指名することになった。そして、巨人の1位指名が島野だとを知った星野は「星と島を間違えたんじゃないか?」と漏らしたと言われている。

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