1.室町幕府第3代征夷大将軍。(1358年-1408年、在職1368年-1394年)
2.テレビアニメ『一休さん』の登場人物。
略歴
第2代将軍足利義詮の嫡男。幼名は春王。誕生当時は、三ヶ月前に祖父の足利尊氏が死去しており、まだ南北朝の戦乱の真っただ中である。将軍の義詮は南朝方に寝返った武将たちの討伐に追われていた。康安元年(1361)、3歳の時に南朝に寝返った足利家元執事の細川清氏が楠木正儀らと共に京都を制圧する事件も起こり、義満は一時播磨の赤松則祐に保護されている。
義詮は尊氏の死後に将軍となってから十年弱の治世を通じて、寝返った武将たちを概ね平定する。しかし、山名時氏は南朝方に属して各地を攻略し、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の守護五カ国を安堵されることを条件に幕府に帰参して大大名となる。同じく幕府に降伏した大内弘世も周防・長門・石見の守護となった。山名・大内氏はその後も守護国を増やして強大化していく。貞治六年(1367)の父の没後、10歳で将軍宣下を受けた足利義満の前には、これら強大な外様の守護大名がいずれ決着をつけるべき大敵として立ちふさがることになる。
まだ幼い義満の将軍職は、実際には管領となった細川頼之が代行し、南北朝の混乱を鎮めて幕府の基盤を築いていった。応安五年(1372)に義満は判始(自分の花押=サインで政務処理を行う、の意)の儀式を行うが、なおも実務は頼之が行っていたらしい。そんな中、康暦の政変が起こる。康暦元年(1379年)、大和の土豪らを討伐する陣中で、諸武将たちが頼之の辞任を求め、特に土岐頼康は本拠の美濃に下ってしまった。義満は諸将の要求を退けて頼康追討を命じる。しかし有力守護の斯波義将がこれに従わず、義満は義将を越中守護から解任する。義将は軍勢を率いて入京し、なおも義満は抵抗するが、将軍邸を義将の大軍が包囲して頼之の解任を迫るというかつての観応の擾乱のごとき事態になった。かくして、ついに義満は頼之を解任し、頼之は四国へと隠遁した。これまでの南北朝時代なら細川頼之は南朝に寝返るのだろうが、頼之は義将の四国遠征軍を破った後は隠遁を続けた。義満は頼之の赦免を命じ、二年後には養子の細川頼元が幕府に出仕、後に管領となり、頼之も上京して義満の政治を助けている。この経緯からして、義満は諸将と対立する危険を冒してでも、功臣を重んじていたようにみえる。
この間に、義満は京都北小路室町に豪壮な屋敷を建てる。鴨川の水を引き、四季の花々に彩られた室町御所は、それゆえ別名を花の御所とも呼ぶ。この屋敷にちなんで義満は室町殿と呼ばれ、後の将軍たちも(必ずしも室町に屋敷を構えずとも)室町殿と呼ばれ、ついには後世、この時代が室町時代と呼ばれるにいたった。義満は公家社会でも順調に出世していく。9歳で従五位下、続いて従三位権大納言、従一位内大臣、永徳二年(1382)には左大臣となって実質的に公家のトップに上りつめる。祖父の尊氏や父の義詮は権大納言が限界であったのだから、大変な出世ぶりである。元関白の二条良基が、この青年将軍に色々と公家社会の礼儀や和歌管弦といった教養について指南し、「大樹扶持の人」と呼ばれていたらしい(新田一郎『太平記の時代』)。この出世は何をもたらしたのか。康暦二年(1380)、本来なら天皇や上皇の意を受けて奉書(命令)を発する伝奏という職にあった万里小路嗣房が、義満の意による奉書を書き始める。こうして義満は後円融天皇の了解を得て自ら奉書の発給を代行するようになり、公武の政治が統一されることになった(森茂暁『南北朝の動乱』)。
義満は次に武家の棟梁として、有力守護大名の勢力を押さえる仕事に取り掛かる。まずは御馬廻(おうままわり)と呼ばれる直轄親衛隊を増強し、後に室町将軍家を支えた奉公衆の基盤を築いた。手始めに土岐氏に挑む。嘉慶元年(1387)に美濃・尾張・伊勢の守護であった土岐頼康が死去すると、義満はその息子たちに内紛を起こさせ、これを討伐する。次に山名氏を標的にする。この頃に山名氏の守護国は一族で十一カ国にも及び、日本全国六十六か国に対する「六分の一衆」と恐れられた。これにも義満は一族の内紛を誘発させて対処し、明徳二年(1391)京都内野の戦いに挑んで自ら御馬廻を率いて山名氏清・山名満幸を滅ぼす(明徳の乱)。山名一族の守護国は僅か三カ国に転落した。この明徳の乱で活躍した大内義弘が、最後の敵となった。義弘は周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護となり、瀬戸内海貿易や日朝貿易も押さえる大勢力となっていた。応永六年(1399)、義弘は山名氏や鎌倉公方、旧南朝系の武士にも呼び掛けて、堺に城塞を築いて謀反を起こすも激戦の末に討ち取られた。乱後の大内氏の領国は周防・長門だけになった。
こうして武力で諸武家を圧倒した義満は、1392年には南北朝合一を果たす。1394年に太政大臣に任ぜられる。同年に出家し将軍職は嫡男の足利義持に譲ったが、政治上の実権はなお握っていた。公武の最高位を極め、さらに出家により寺社勢力をも圧倒するに至る。日明貿易(勘合貿易)を推進し明より『日本国王』号を受ける。晩年に息子足利義嗣の官位を急上昇させたり、将軍を譲ったはずの義持との間に不穏な空気が流れたりする中、後述する簒奪計画の謎を残して応永十五年(1408)に世を去った。
簒奪計画?「日本国王」?
公武寺社の全権を極めた義満晩年の行動について、義嗣の天皇即位を狙っていたという説(今谷明『室町の王権』)がある。今谷は義満が百王説を利用しようとしていたとする。『愚管抄』にあるように、百代にして日本の王胤は絶えて天皇を頂点とする秩序は崩壊するという終末論的歴史観があったらしい。数え方によっては、臣下からの不人気ぶりに定評があった当時の後円融天皇を百代目に数えることも可能らしく、そういった正統性の立て方もあったのかもしれない。また義満が御台所の日野康子を後小松天皇の准母にし、義嗣の元服が親王に準じて行われたことを簒奪計画の具体的な一端であったという見方もある(村井章介『分裂する王権と社会』)。しかし、義持を廃して愛息子の義嗣を将軍にするための行動に過ぎなかったという懐疑論もある(桜井英治『室町人の精神』)。義満の公家社会における権力は後小松天皇に依拠するものであって、血統を離れて義嗣を天皇に擁立し、しかもそれを仲の悪い将軍義持に護持させるなど現実的ではないという。また、義嗣の元服が親王に準じて大臣クラスの加冠役によって行われたのは、彼を親王に準ずる立場に押し上げてはいるが、それと天皇即位とは全く別だという見方もある(森茂暁、同書)。確かに准后という皇族相当の身分が高位貴族に与えられるのは、摂政藤原良房以来珍しくもなかったりする。
また明帝より得た「日本国王」称号であるが、実はこの称号については両説とも一般に簒奪計画の根拠とはしていない。何故か。義満に先立って、九州を掌握していた南朝の皇子・懐良親王が洪武帝から「日本国王良懐」の称号を得ているのは知られている。明との貿易で巨利を得て、北朝と戦う軍資金にしようとしたわけだ。しかし、実はこの良懐という名は大宰府が陥落して懐良親王が没落し、さらには死去した後も独り歩きしている。明との貿易を望む諸勢力がこぞって「日本国王良懐」の使者を自称し、その中には北朝の後円融天皇の使者すら含まれていた(村井章介『分裂する王権と社会』)。またずっと後に足利義教が日明貿易を行った際に、政治顧問であった醍醐寺の僧三宝院満済はこのように述べたという。「天皇が日本国王(つまり明に従う国の王)として明の国書を受け取るのは(天皇は古来中国皇帝と対等であるべきという観念からして)神慮に反し良くないが、大臣が受け取るのは古くから行われており問題ない。明側が将軍を日本国王だと思い込んでいるにすぎないのだ(桜井英治、同書)。」幕府は「義満様が日本国王を称して明を謀って国交を開始したのであるから、これを取り下げるのは義満様の虚偽を外国に示すことになり良くない」と結論して明との貿易を再開している(桜井英治、同書)。少なくとも当時の人々は、南北朝の朝廷も幕府も「日本国王」の称号を実利の為にむしろ積極的に偽称として使っていたようだ。当初はバカ正直に「征夷将軍源義満」と称して外交交渉をし、洪武帝に「幼君が位にあるからといって臣下が外交の国権を奪うとは許せぬ、礼節に従って大政奉還しなさい」との返書を喰らった義満には、むしろ祖父足利尊氏に通じるお人よs・・・いや誠実さがあったと考えるべきかもしれない。
北山文化への影響
義満の政策は、文化面でも武家風と公家風が交わり、そこに禅宗の要素も加わった新しい文化をもたらした。これが北山文化である。建築では禅宗様が成立し、義満は公家の寝殿造と禅宗様とを取り入れた北山山荘を建てた。義満の没後に寺となって金閣寺(鹿苑寺)と呼ばれる。演劇では観阿弥、世阿弥親子が鎌倉時代以来の田楽の要素を取り入れながら猿楽を発展させ、今日でいう能を成立させた。義満はこの親子を庇護し、また義満を通じて公家の二条良基も世阿弥を後援している。
創作作品における足利義満
だいたいこの御方のこと。
概要
和尚さま「義満公にも困ったものじゃ」
一休さん「将軍さま~?なんで狼狽えているんですか?」
新右衛門さん「だーから、上様いわんこっちゃな」将軍様「何か申したか新右衛門」
解説
テレビアニメ『一休さん』の登場人物。
史実では一休宗純の少年期には将軍職を譲って出家しているが、まあ固いことは言わない。
全盛期幕府の将軍は余程ヒマであったようで、日夜ひたすら一休をトンチで負かすことに夢中である。
関連タグ
9月25日(西暦での誕生日)