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零式艦上戦闘機の編集履歴

2017-04-04 20:20:11 バージョン

零式艦上戦闘機

れいしきかんじょうせんとうき

日本海軍の戦闘機。メイン画像は零式艦上戦闘機二一型。

零式艦上戦闘機を描いたイラストや、当該機を擬人化したイラストなどに付けられるタグ。


零戦21型(修正版)

大東亜戦争序盤まで主力を務めた二一型。


零の閃

こちらは大戦後期に登場した五二型丙。


概要

零式艦上戦闘機(以下、零戦)は、日本海軍が1940年から1945年にかけて運用していた戦闘機。開発は三菱重工業。

第二次世界大戦におけるアジア・太平洋戦線(太平洋戦争)にて、開戦から終戦まで運用されたため、同戦争における日本海軍の軍用機を象徴する戦闘機でもある。

支那事変(日中戦争)の半ばから大東亜戦争の終戦まで、主力戦闘機として前線で運用された。


中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製。 アメリカ陸軍のムスタングP-51、ドイツ空軍のメッサーシュミットBf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。


歴史

栄光と敗北の道


1937年(昭和12年)に海軍の要望で三菱内燃焼製造に戦闘機開発が依頼され、堀越二郎を中心に設計開発がされて、1939年(昭和14年)の試験飛行を経て翌年に正式採用された。堀越にとって零戦は好きではなく、海軍の「ないものねだり」の要求性能による開発だったが、彼は祖国のためにとこの無理難題を引き受けた。


最初の実戦投入は、第二次世界大戦より前の日中戦争。運用は第二次世界大戦の終戦に伴って終了した。生産数は約10000機。

20mm機関砲2門の重武装でありながら、極限まで軽量化されたことによるスピード持ち、それを活かした優れた格闘性能、極めつけは最長2200kmという当時としては驚異の航続距離を誇った。

こうした規格外の性能から、登場当初はほとんど無敵と言っていいほどであり、1機の零戦を撃墜するまでに、連合国軍の戦闘機は12機墜落させられるとまで言われ、連合国の戦闘機を圧倒したことから、そのパイロットから「ゼロファイター」の名は深刻な脅威と見なされ、連合国側では「(ゼロの)姿を見たらすぐに逃げろ」という命令が出されていたほどだった。


しかし、戦争が長引く中で後継機の開発が遅れ、自動操縦装置や充分な航法装置のないなかでの長大な航続距離と、熟練搭乗員の錬度に過剰に頼った(長時間の操縦で疲弊し、注意力を落としたところを敵機に襲われて戦死する搭乗員も多かった)運用で大戦中期以降、熟練パイロットの損失も目立つようになっていく。


相対的な性能低下


零戦の同期である一式戦闘機』、FMワイルドキャット、スピットファイアのいずれも終戦まで生産が続けられている。またBf109は零戦よりも基礎設計は旧い。いずれも重用され、主力機として運用が続いた。そんな中零戦がことさら旧式化を強調されたのは防弾性能の不足によるベテランパイロットの喪失の深刻化、堀越二郎設計機に共通する生産性の悪さ、より強力なエンジンへの換装に手間取ったことなどが挙げられる(詳細は後述)。


連合国軍には、零戦の欠点である急降下性能の低さ、高速域での操縦性能の悪さが見抜かれ、アメリカ軍は高速で後方から接近し一撃を加えて急降下で離脱するという戦法を徹底したため、零戦は大戦中期ごろから劣勢になっていった。

大戦末期には制空権を失い、未熟なパイロットが味方の援護が少ない状態で連合軍の強力な新鋭機と戦わざるを得なくなった。

この頃にはもはや策が尽き、ついには先を見失った軍部により、無謀な特別攻撃(特攻自爆攻撃)に使用されてしまう機体が多かった。



終戦後の零戦とその系譜


日本の降伏による終戦に伴い、残存していた零戦のほとんどは破棄されたが、破壊を免れた機体やレプリカが、日本やアメリカの各地の航空博物館や基地などで見る事ができる。一部には現在も飛行可能なレプリカもある。

零戦の設計開発を担当していた技術者達は、終戦に伴い航空機や鉄道の業界などに散らばって行き、日本初の国産旅客機の設計に携わったり、新幹線の部品の開発に携わったりなどして、戦後復興を支えたとされる。


名称

ゼロ戦」「零戦」の通称が有名。連合軍からの制式コードネームは「Zeke(ジーク)」。ただしアメリカでは当時の将兵から現在まで「Zero」の方が通りがいいという。

英語では「Mitsubishi Navy Type 0 Carrier Fighter」、「Mitsubishi A6M」などと表記される。

「艦上戦闘機」という名称の通り、艦上(航空母艦)から発進できる戦闘機。

正式採用された年号が皇紀2600年で、下二桁が「00」であったことから「零式」という名称が付けられた(なお、同年制式採用の陸軍機は「一〇〇式」)。

「零戦」は、「れいせん」もしくは「ぜろせん」と読まれる。

「ぜろせん」という読み方について、”当時の日本は英語廃止に向かっていたので「ぜろせん」という呼称は考えにくい”とする意見もあるものの、当時の海軍兵学校ではむしろ英語教育に力を入れていた上、当時の新聞にも「ゼロセン」という読み仮名が振られており、わりと自然に「ぜろせん」という呼称が定着した模様。


英語での呼称「Zero」は零戦の「零式(Type Zero)」から来ている。「Zeke」という呼称も、「Zero」の綴りに掛けたものであるという説がある。

なお、主翼の構造が異なる三二型(後述)のみは当初別機種と考えられたことから、連合軍呼称は「Hamp(ハンプ)」になっている。

「A6M」という英字記号は日本海軍がつけたものであり、「機種を表す英字(艦上戦闘機を表すA)」+「機種ごとの計画番号(6番目の艦上戦闘機計画であるため6)」+「設計会社に振られた英字(三菱を表すM)」から成り立っている。この後ろに、何番目の改修型かを示す数字と、小改造された型であればさらに英小文字を付けて、各型を区分けしていた。


主要各型

零戦は長らく運用された為、何度も改良が行われた。そのため、多くのモデファイが存在する。また、1942年に型式命名規則が変更されたため、この年度以前に開発された型式には旧称が存在する。



一一型(A6M2a)

極初期の生産型。旧称:零式一号艦上戦闘機一型。エンジンは中島『栄』一二型940hp。主翼端が空母のエレベーターに干渉する危険があり、少数の生産機が中国戦線で陸上機として運用されたに留まる。

元々は空母艦載機としてはまだ不十分だった試作機を新型機を求める前線部隊に答えるために急いでs制式採用したもので、量産型というよりは先行量産型というほうがしっくり来る。

二一型(A6M2b)

初期の量産型。旧称:零式一号艦上戦闘機二型。翼端に折りたたみ機構をつけ、空母での運用の適正を向上させた。また、着艦フックや無線帰投方位測定器といった艦載機用の艤装が追加されたのもこの型からである。零戦の中でもっとも評価の高い機体だが、実際には初期の神がかった戦績によるもので、艤装などの洗練度や急降下速度制限など問題も多かった。

三二型(A6M3)

エンジンを『栄』二一型1240hpに強化し、同時に翼端を切り詰め速度向上と折りたたみ機構の廃止などを狙った型。加速性能や降下制限速度、高速域での運動性低下などが改善され、エンジンの二速過給器装備で高高度における性能も二一型より上昇した。また、非常に低かったエルロンロールにおけるロールレート(横転率)はこの改変で向上。米軍機のお株を奪うものであったとも言われる。20mm機銃の携行弾数も100発に増加した。しかし、航続距離は低下し、ラバウル基地の位置の関係もあり配備と同時期に発生したガダルカナル方面の作戦に参加できないという所謂『二号零戦問題』が発生した。

なお、この時期堀越二郎技師が過労で入院していた為、一式陸攻『飛龍』など多発機を主に手がけていた本庄李郎技師が開発を担当した。生産性重視の角ばった翼端は本庄が好んで使ったものである。また、この為開戦前に予定されていた『金星』への換装は見送られた。

生産数も少なく、早期に二二型や五二型が出ているためあまりいい評価をされない機体だがそれでも諸外国の機体より長い航続距離を持ち二一型の欠点の多くを改善できた機体であり、米軍側も「南太平洋において最も重要な戦闘機」と評価している。

二二型(A6M3)

三二型の航続距離低下を改善するために、主翼を二一型をベースのものに変更した機体。よく「二一型に回帰」とされているが、実際には二一型より短縮された胴体、エンジンは三二型と同一であり、機首周りの設計は二一型とはかなり異なる。航続距離は改善したが主翼を二一型のものにしたため急降下制限速度は二一型と同等となった。

後に登場する派生型「二二型甲(A6M3a)」では機銃を弾道性能のよくない九九式一号銃(エリコンFF20)から長銃身でMG151/20と肩を並べる傑作とされる九九式二号銃(FFL20)に変更し、その火力は二一型以来のパイロットに絶賛された。

五二型(A6M5)

速度の向上および防弾装備の実用化の為、三二型と同じ翼幅の翼を丸く整える、排気管を集合排気管から排気を後方に放ちロケット効果を狙う推力式単排気管への変更等のマイナーチェンジを図った型。最多生産機。本機登場時、すでにベテランパイロットの喪失により零戦の脅威度は低下していたが、それでも低高度での格闘戦は連合軍戦闘機にとって危険なものであったとされる。また、自動消火装置や操縦員頭部保護用の防弾ガラスといった防弾装備が、零戦で初めて装備された型でもある。

機銃については、20mm機銃には二二型甲と同じく長銃身の九九式二号銃を用いている。

また後に、九九式二号銃を改良型の九九式二号四型銃に換装し、装弾数を増やした「零戦五二型甲(A6M5a)」機首の7.7mm機銃のうち右舷の片方を三式13.2mmに変更しコックピット周辺の防弾装備も導入した「零戦五二型乙(A6M5b)」、残った左舷の7.7mm機銃も撤去したうえで同じ三式13.2mmを主翼内にも2丁追加し計3丁とした「零戦五二型丙(A6M5c)」が登場している。

戦後の坂井三郎氏の書籍で「二一型以降は改悪」と評されてしまったり、五二型丙は重量増加により最大の持ち味である旋回性能が多少低下したことから悪い評価を受けることもある機体だが、坂井氏は中国戦線で経験を十二分に積み、戦況の悪化、激化に伴い多くの歴戦のパイロットが戦死した戦争中期は負傷で後方にいたということも考慮する必要がある。また、五二型丙は降下制限速度が連合軍の戦闘機と同等になり、火力も強化されていたため一撃離脱戦法に適した機体であった。

五三型(A6M6)

五二型丙をベースにエンジンを水メタノール噴射装置付きの栄三一型に換装し、自動防漏式防弾燃料タンクを装備した型。雷電紫電の生産遅延を埋める性能向上型として本命視されていたが、量産に移る前に終戦を迎えている。

六二型/六三型(A6M7)

五二型丙の胴体下に250kg爆弾を特別な改造無しに装備ができるようにした戦闘爆撃機型。特攻機として用いられた機体には500kg爆弾を搭載したものもある。

大型爆弾を搭載しての急降下に耐えられるよう、機体構造の強化も図られている。実際に量産が行われた最後のモデル。

六二型と六三型の差異は、搭載するエンジン。六三型は水メタノール噴射装置を備えた栄三一型、六二型は栄三一型から水メタノール噴射装置を省略した栄三一型甲/乙が搭載されている。

五四型/六四型(A6M8)

六二型のエンジンを栄より径と馬力の大きい三菱『金星』六二型1500hpに換装した型。エンジンの大型化に伴い機首の設計も変更され、同じエンジンの彗星三三型のプロペラが流用された他、機首の機銃も完全に撤去された。燃料噴射のインジェクター化など三菱製エンジンの完成度の高さ、一回り大きいシリンダーブロックから来る余裕などから、計測上数字上以上に余裕があり、零戦で初めて本格的に防弾装備を取り入れた。戦後、長らく「間に合わなかった」とされていたが、実際には完成することこそなかったものの終戦間際に生産ラインが稼動していた事が近年になって判明した。

五四型は試作型、六四型は量産型に、それぞれ与えられた形式番号である。

二式水上戦闘機(A6M2-N)

一一型をベースに、フロートの取り付けなどの改修を行った水上戦闘機。

詳細は個別記事を参照されたし。


外観上の機体識別箇所は以下の通り。

三二型は角張った翼端

二一型以前は機首の下部にある昇流式気化器空気取入口位置

二二型以降は発動機変更に伴って気化器が降流式に変化したことによる、機首上部に位置変更された気化器空気取入口と、機首の銃弾の通り道が溝から穴に変更されたカウリング

二二型甲以降は主翼から飛び出ている長銃身化した20mm機銃

五二型以降はエンジン後方から胴体側面に伸びる推力式単排気管と、それに伴い変更されたカウルフラップの形状

…あたりが見分ける目安となる。


なお、零戦は上記に書かれているように

一一型→二一型→三二型→五二型→六二型と生産されている他五三型、六三型、五四型、六四型などは戦争後期に混じって登場・試作されていたりと数字の並びが一致しない。

これは海軍では十の位が機体の変更数。一の位がエンジンの変更数を表しているため。

また、六○型は五○型とは用途が異なる機体の為順番どうりとはならない。

また、甲や乙というのは武装のみを変更した場合につけられる。


問題点

防弾性について

同時期の同クラス機がいずれも防弾性を重視し始めていたのに対し、零戦は極端な軽量化設計のため防弾性はほとんどなかった。

ただし、これはよく言われがちな「日本軍の人命軽視」によるものではない。

零戦の装備する九九式二〇粍航空機銃(エリコンFF20シリーズ)は破壊力が高かったが、これを採用した日本海軍自身が「いずれ世界的にも20ミリ機銃より大破壊力の航空機銃が主流になる」と想定した。この想定は誤りではなかったし、その場合単発機で充分な防弾性能を確保することは難しかった。それよりは軽快な運動性をもたせた方が生存性は高くなる、という考え方に基づいたものである。

しかしアメリカ軍の物量攻勢により多対一が強いられる状況になると、ある程度の技量を持った搭乗員を徒に喪失してしまう結果になった。米軍機の主要装備はブローニングM2 .50cal(12.7mm)であり、これは単発機のレベルでも充分防弾可能だった。

従来混同視されてきた一式戦闘機『隼』だが、実際には陸軍は1938年ごろから航空機の防弾性能の強化に努めており、隼は搭乗員を守るのに充分な防弾装備を施していた(その代わり相対的に武装が貧弱だが、これは三桁翼を採用した中島側の勇み足と、陸軍の二式二〇粍固定航空機関砲(ホ-5。ブローニングM2のデッドコピーであるホ-103の拡大型)が大型大重量だった事が主たる要因である)。隼II型、III型ともなるとブローニングM2では威力不足(実際には米軍のテストで隼や鍾馗の13mm防弾板はM2相手には無意味と判定されている……が、これは実際の空戦での着弾状況を無視して防弾板面にM2を垂直にぶっ放した場合の話で、現実には13mm防弾鋼鈑を1発で確実に破壊するには日本陸軍が採用した“マ弾”のような高威力炸裂弾を使わない限り、20mmより高威力の砲でないと無理である。つうかそもそもこの条件では米軍機でも耐えられない)であり、P-51DやスピットファイアMk.IXでもしばしば返り討ちにあった。


零戦も『金星』への換装が早期に行われていれば、(詳細は後述)その出力余裕から早期に防弾装備を施すことが可能だったかもしれないが、それが実現しなかったために後手後手に回る羽目になってしまった。

また後学ではあるが、米軍・英軍の20ミリ機銃はイスパノスイザHS.404で、これはエリコンFFL20より重量が過大で、対航空機戦闘を意識した場合単発戦闘機への搭載は困難であった。つまり日本軍の防弾装備はブローニングM2に耐えられれば充分だったのである。(とはいえHS.404が43kgに対し、零戦99式は初期型の一号で23kgと約半分だが銃身を長くした後期型で38kgと極端な差があるとはいえず、HS.404はスピットファイア等のイギリス戦闘機も搭載しておりF4FやF6Fにも搭載された型があるほかF8Fでは標準装備となっており、「単発戦闘機への搭載は困難」はいささか言い過ぎのきらいがある。「ブローニングM2に耐えられれば充分」と防弾装備を積めば飛行性能は低下する上早期に米軍機の主力がHS.404になり、結局史実と大差ない結末をたどる事は想像に難くない。ただしF8Fが20mm4丁で量産開始したのは下からさんざ突き上げられた結果の終戦数週間前の話であることは認識しておこう。初期型ではM2 4丁だったのだ。要するに「タイガー1台にシャーマン5台」を戦闘機の機銃でもやっていたのである)

なお、ジェット戦闘機時代に入って機銃より遥かに大威力のAAM戦闘が主体になると、燃料タンクやエンジンなどの防弾は意味がなくなり採用されなくなった。この為零戦の考え方を「先進的過ぎた」と評価する向きもあるが、この背景にはジェット燃料がガソリンほど引火しやすくないという事実もあるし、コクピットの防御を完全に放棄した機体はないので、若干見当違いと言えるだろう。


 そしてなによりも零戦が兵器に必要な“その時点の戦況に必要なスペック”を満たし得なかったことは事実であり、また、防弾能力だけでなく、あらゆるスペックが後に出現した同世代の戦闘機の改良型に対して抵抗が不可能になってしまったという点では、“兵器としての戦闘機”として当機の評価を分ける重要なポイントであることは忘れることはできない。

 結局のところ、零戦の初期の活躍は拡張性の乏しい軽戦闘機をベテランの搭乗員の技量でカバーしたことによる“神通力”であり、そのパイロットがいなくなったとき、ただ燃えやすいだけの軽戦闘機が制空権など確保できないのは必然であった。


生産隘路

液冷の『彗星』『飛燕』に代表されるように、大戦中盤以降の日本軍新型機の生産性の悪さがよく挙げられるが、実は日本軍最多生産を誇る零戦でも生産隘路があった事はあまり知られていない。

まず第一に、零戦は決して生産しやすい構造ではなかった。もともと日本海軍は対米戦を短期決戦で考えていたため、2~3回の大決戦に参加する数+アルファが生産できれば十分という考えがあったからである。

堀越二郎技師はそれに従った結果、同社の本庄李郎技師、また中島の小山悌技師や川崎の土井武夫技師の設計に比べて生産性を度外視する事が多かった。

第二に、先述したとおり1942年頃には零戦のエンジンを『金星』に変更する方針があり、この為1942年の生産計画では『栄』の製造数は絞られる事になっていた。しかし堀越技師が倒れたため実現できず、零戦はエンジンの確保が一時期充分にできなくなってしまっていた。


エンジン

前述したスピットファイアやBf109が、より強力なエンジンへの換装を重ねて性能を向上させていったのに対し、零戦は三二型以降ほとんどエンジンをパワーアップさせる事ができなかった。

理由としては、小型の栄エンジンに機体設計を合わせた結果、栄エンジンにあまりにもマッチしすぎた設計になってしまい、より強力で大型のエンジンへの換装を難しくしてしまったためである。

そもそも日本は欧米に比べると大馬力エンジンの開発で遅れを取っており、それを機体設計で補おうとする傾向があった故に起きたものであった。

この点が、終戦まで第一線級の性能を保っていたスピットファイアやBf109との大きな差になったと言える。


ただし、欧米では零戦が登場した時点で2000hp級エンジンが登場し始めていたが、これらは重量・容積共に上がっており、ドイツではやはりDB601にぴったり合わせて設計されていたBf109への搭載は断念されている。付け加えるなら絶望的に遅れていたのかと言うとそうでもなく、三菱『火星』などほぼ同クラスである(1500馬力級としてスタートしたが、1942年には早くも1800馬力級のラインアップに一新されている)。

ついでに言うと燃料事情が日本より酷かったドイツはレブアップによる出力向上や過給機周りに関して日本以上に苦戦している(DB601の国産化改良型であるアツタ三二型がかるーく1300馬力出しちゃってるのは日本海軍の燃料が原型より良い92オクタンであったことも一因)。

日本の場合、どちらかと言うと運用側の無理解がこうした大型エンジンの戦闘機への転用を阻んだ(開戦前は陸軍の方が酷かったが開戦後は海軍の方が酷くなった)。

そして『隼』の事は考えちゃだめだもともと海軍にとっては米英以上の敵だし


かねてからより大馬力を期待できる『金星』エンジンへの換装は何度か検討されていたが諸事情で実現せず、戦争終盤になって栄エンジンの生産中止が決定されたことでやっと五四型への搭載が実現したが、時既に遅く試作のみに終わってしまった。


五三型や六二型/六三型へ搭載された栄三一型でさえ、1944年秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の対策に審査担当者が追われてしまったため審査ができず、終戦間際に審査が終わった影響で大量配備ができなかった。


操縦性

「歴史」の項目でも触れているが、副次的な要因として操縦性も一枚噛んでいる。

何分、高速機動化・軽量化・長時間飛行に特化したために、そのピーキーで玄人向けな性能を使いこなせるだけの訓練と技量の確保が課題でもあった。

要は「機体も操縦士もプロ仕様」でなければ、真価を発揮できなかった部分があるのだ。


戦時前半は十分な訓練期間を経た百戦錬磨のエースたちが犇めいていたため、問題点は薄まっており軽視できたものの、アリューシャン沖海戦で鹵獲された「アクタン・ゼロ」の解析をはじめ、米軍による対ゼロ戦ドクトリンの発見により明確な弱点を発見されたことから、多くの熟練パイロットを喪い、戦場に慣れない若手ばかりが取り残されてしまう。

そうなると今まで卓越した操縦テクニックに依存していた零銭の戦闘力も相対的に低下し、遅蒔きながら帝国海軍は安定した操縦性を持つ戦闘機の開発を急速に進めざるを得なくなったわけである。


だが局地戦闘機「雷電」の例もある通り、あまりに零戦依存が長かったためか、新型機体の多くは「操縦しにくい」「(零戦と同じ感覚じゃないから)安定しない」等々で現場の評価は上がらず、物資不足も手伝って零戦依存を拗らせることにつながった。



戦後の評価

日本のみならず、相対したアメリカでも零戦の名は知られている。

特に日本では、悲惨な太平洋戦線を物語る兵器のひとつとして、敬意・追悼の意を持って接されている。

知名度の高さもあり、日本の航空機を代表する機体のひとつとして高い人気を集めている。飛行機のプラモデルでは定番の商品のひとつとなっているほか、F-1F-2、果ては実験機のATD-Xや旅客機であるMRJに至るまで、三菱が開発に関与した航空機が語られる際にはしばしば関連付けて語られるほど。

零戦のデザインについて、そのスマートな体型に魅力を感じるファンは多い。

相対した連合軍(特にアメリカ軍)の戦闘機が全体的に分厚いデザインである事とは対比的である。

機体の名称も、「零式」というキリの良いものである事に加え、「ゼロ」という呼称の響きを好むファンも多い。


本機に関連する創作物

大戦中の日本を代表する戦闘機だけあって、数多くの作品に登場している。


ストライクウィッチーズに登場する宮藤芳佳坂本美緒竹井醇子管野直枝迫水ハルカ各キャラのストライカーユニット零式艦上戦闘脚の元ネタでもある。ちなみに彼女らが使用している銃火器も本機に装備されていた機銃が元になっている。

(元ネタの形式や各キャラの使用時期はまちまちであるが、迫水のみ試作機である十二試艦上戦闘機が元ネタとなっている)


関連動画




関連タグ

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堀越二郎 坂井三郎(リアルチート)

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