生年没年 1917年5月29日~1963年11月22日
大統領任期(第35代) 1961年1月20日~1963年11月22日
概要
フルネームはジョン・フィッツジェラルド・ケネディ。
アイルランド系実業家の家の次男として生まれたが、幼少時より虚弱体質で様々な病気に悩まされた。
ハーバード大学卒業後の1941年にアメリカ海軍に入隊。情報局の後に中尉となり、ソロモン諸島に配属され魚雷艇艇長となったが、そこで日本海軍の駆逐艦・天霧に遭遇し、衝突され魚雷艇は沈没。漂流したが、友軍に救出された。
大戦後に政界入りし、1960年に民主党所属として大統領に立候補し、1961年にニクソンを抑えて第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。
ニューフロンティア政策の名の下に、教育や医療保険、失業者対策、人種差別撤廃、宇宙開発事業・アポロ計画などを進めた。人種問題では公民権運動をするキング牧師をホワイトハウスに招いた。
実は彼は、歴代のアメリカ大統領の中で唯一、キリスト教のローマ・カトリックの信者であり、2019年現在、彼以外にはカトリック信仰者の大統領は一人もいない。
アメリカ社会は伝統的にWASP(White・Anglo-Saxon・Protestant。アングロサクソン系の白人でプロテスタント信者)が優位にあり、歴代大統領も全員WASPか、あるいはプロテスタント信者であったが、ケネディはプロテスタントがなるという慣例を打ち破った初の大統領である。
当時のアメリカ社会ではカトリックの大統領候補の誕生は衝撃的であった。カトリックには聖職者に服従するという教えがあるためである。ケネディもこれをよく理解しており、しばしば「いかなる高位の聖職者も大統領に命令はできない」「私はアメリカが堅持してきた政教分離の原則を支持する」と釈明をしていた。
[ソ連]]との対立が続く中、革命で共産化したキューバへの侵攻計画を練り、ベルリンの壁建設を巡ってソ連書記長のニキータ・フルシチョフと対立。南北対立が続くベトナムでは南ベトナムへの支援を続けたが、南ベトナムの独裁政権に頭を痛め、ベトナム戦争からの撤退を準備した。
1962年、キューバにソ連の核ミサイル配備が判明。キューバ危機が発生した。核戦争=第三次世界大戦の危機に晒されたが、ケネディは先制攻撃を主張する軍部を抑えながらソ連と交渉を続け、ソ連にミサイルを撤去させ、全面戦争の危機を回避した。その後、米ソ間でホットラインをつなげ、核軍縮条約を提唱した。
1963年11月22日、テキサス州ダラスで遊説中に銃撃により暗殺された。犯人はリー・ハーヴェイ・オズワルドとされたが、逮捕直後に暴漢に銃殺され真相は闇に消えた。死亡が確認された後に副大統領ジョンソンが次期大統領に就任した。
この暗殺事件は後にアメリカ政府の調査委員会により作成された事件の調査報告書に不可解な点がいくつもあり、オズワルド死亡もあって、政府やマフィアの陰謀説など様々な考察がなされるばかりか、その後ケネディの一族に暗殺や不可解な事故で死亡した者が続出したため、オカルトチックな噂も続出し、謎の多い事件として現在も語り継がれている。
彼はその功績や悲劇的でミステリアスな暗殺事件により多くのアメリカ国民の記憶に焼き付き、現在も人気の高い大統領として空港や空母の名前などに名を残している。
ただ、人気がある一方で愛人や不倫問題が付いており、マリリン・モンローとも関係を持っていた。この浮気癖は当時腎機能のために服用していた薬の副作用であり、本人も妻も大いに悩まされたという。
また、マフィアとの付き合いも盛んで、本人は当初消極的だったが弟のロバートの説得で関係の解除と一掃に取り組んだ。
ダラス遊説中に衛星回線で日本に向けてメッセージを送るはずだったが、その衛星回線で日本にいち早くケネディ暗殺の速報が伝わった。
ケネディの長女・キャロラインは後にオバマ政権で2013年に駐日米国大使に就任している。
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