この御称号は奈良時代に撰進された漢風諡号で、和風諱号はカムヤマトイワレヒコノミコト(『古事記』では神倭伊波礼琵古命、『日本書紀』では神日本磐余彦尊)と申し上げる。 生前の御名を若御毛沼命(若々しい食物の主の意)。
生涯
紀元前721年、天照大神の4世子孫である鵜草葺不合命と海神の娘玉依毘売の皇子として、ワカミケヌが日向(現在の宮崎)で生まれた。父君ウガヤフキアエズノミコトは、天孫邇邇芸命の御孫にあたる。
生誕地の九州日向で3人の兄弟と育ち、生まれながらにして賢く気性もしっかりとしていて、15歳で皇太子になったという。
45歳になった甲寅の年、この地よりもっと相応しく豊かな東方の土地へ移住して都をかまえようと考えた。
瀬戸内海の中国地方沿いに東征し、河内(現在の大阪)に上陸し、肝駒山を越えて大和(現在の奈良)の地へ向かおうとしたが、河内を支配していたナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗に遭い、熊野(現在の和歌山南紀)へ向かった。
この間に3人の兄が相次いで薨去し、全軍が倒れてしまうという危機を迎えたが、霊剣「韴霊」により全軍は目を覚まし、また天照大神が遣わした八咫烏の案内で無事に大和南部に入り、在地の人々を従えて、激戦を交えてナガスネヒコを倒し、ここに大和を平定した。
大物主神の娘であるヒメタタライスケヨリヒメ、または事代主神の娘ヒメタタライスズヒメを正妃に迎えて辛酉の年(西洋紀元前660年)2月11日に橿原宮で即位。名をカムヤマトイワレビコと改め、ハツクニシラススメラミコトと称する、神武天皇が誕生した。この時52歳。
この即位を以て日本の紀元元年とし、以前を神々の時代「神代」、即位以後を人間の時代「人代」と分けている。
その後、76年も天皇として統治。正妃との間には2人の皇子をもうけ、古事記によると137歳、日本書紀によると127歳で崩御したという。神武天皇陵は神武帝を祀る奈良県橿原市の橿原神宮のそばの畝傍山にある。
天皇の政治
アメノタネノミコトとアメノトミノミコトは祭祀を司って朝廷の政治に参加して、ミチノオミノミコトとウマシマヂノミコトは兵を率いて守衛を司った。また天皇が宮殿を橿原に営むと、上記の祭政や軍職と共に、正殿の建立・玉工・機織といった工業も世襲となった。
在位の間、神武天皇は心を政治に用い、国民はみな悦んだという。また神武天皇は農事を奨励して、アメノトミノミコトに麻・穀を総国・粟国に植えさせた。
神武天皇の崩御後は、8代にわたって父子で皇位が継承されていき、第10代崇神天皇に至ったが、その間に国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていった。
ハツクニシラス天皇(和風諡号の意味)
神武天皇は従来都のあった西方の日向筑紫を去って、東方の大和に遷った、大和朝廷第一代の天皇である。そのため日本書紀の神武天皇紀に、天皇を「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太しき立て、高天原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇」と称えたとあり、かつこれは古伝承の語をそのままに記載した「古語」であると明記してある。
神武天皇の東遷による新日本の建設は、神話におけるニニギノミコトの降臨に対して「第二の天降」であると古代の日本人は考えたのであろう。
神武(漢風諡号の意味)
東洋の古典『易経』の繋辞伝の上に「神武而不殺」とある。すなわち「古の聰明睿智、神武にして殺さざる者か」(昔の、最もすぐれた知があり、計り知れない勇をそなえていて、人民の生命を尊重する仁を兼備した者であろう)という語が典拠で、つまり「神武天皇」とは「むやみやたらに殺すことが武ではない」という意味の、はじめて天下を治めた初代天皇の偉大さを賛した諡である。
また『書経』舜典にも「都帝德廣運、乃聖乃神、乃武乃文」とある。
橿原奠都の詔
紀元前660年の皇紀元年2月11日の神武天皇即位の詔。
我れ東を征ちしより、茲に、六年になりぬ。
皇天の威に頼りて凶徒戮に就きぬ。辺土未だ清らず。餘妖尚梗しと雖も、而も中洲の地、復風塵無し。
誠に、宜しく、皇都を恢き廊め、大壮を規り模るべし。
今、運は、此屯蒙に属ひ、民の心朴業なり。
巣に棲み、穴に住み、習俗惟れ常となれり。
それ、大人の制を立つる、義必ず時に随ふ。
苟も、民に利あらば、何ぞ聖造たるを妨げん。
且つ、当に、山林を披き払ひ、宮室を経営りて、而して、恭みて宝位に臨み、以て元々を鎮むべし。
上(かみ)は、則(すなわ)ち、乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし徳(うつくしび)に答へ、下(しも)は、則ち、皇孫(すめみま)、正(ただしき)を養ふ心を弘(ひろ)め、然る後、六合(りくごう)を兼ねて都を開き、八紘(あめがした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為す、亦可(よ)ならずや。
夫の畝傍山の東南、橿原の地を視れば、蓋し、国の墺区ならん、之に治るべし。
(口語訳)
上は天神の国をお授け下さつた御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。
その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩ひて一つの家とすることは、また良いことではないか。
(原文)
上則答乾靈授國之 下則弘皇孫養正之心
然後兼六合以開都 掩八紘而為宇 不亦可乎
觀夫畝傍山東南橿原地者 蓋國之墺區乎 可治之
(神武天皇即位前紀己未三月丁卯条)
史学的論争
戦後イデオロギーの影響
戦後、昭和天皇の人間宣言により天皇家の絶対的権威がなくなったため、その歴史も多くの歴史家によって研究の対象とされるようになり、今まで日本を建国したとされてきた初代神武天皇の実在が疑われるようになった。
しかしながら、いままで戦後の左派学者でも、神武天皇を実在しなかったと言い切る学術論文は出されていない。
ハッキリ言うと実在したかどうか証明するものが残っていないので、学術的には「無視」されている。そのため歴史の素人レベルでも神武天皇の存在を疑問視するようになった。こうした流れの中で神武東征が建国途上の史実を反映して記紀に書かれたとするモデル説や実在説も台頭するようになり、中には邪馬台国論争と結び「九州にあった邪馬台国が畿内に移動(分裂)し、後の皇室になった」とする見解すらある。
実在の再検証
だが、そもそも皇室の祖先をさかのぼれば最初の統治者がいたのは間違いないことであり、皇室の記録上、それが神日本磐余彦尊「カムヤマトイワレヒコ」、すなわち神武天皇である。
神武天皇の史実性は現在のところ、「これを確認することも困難であるが、また、これを否定することも、それに劣らず困難である」とされている。ちなみに日本政府の神武天皇に関する公式見解は、日本神話の登場人物であり、実在云々については言及しない姿勢である。
また、神武天皇が即位された年は辛酉の年の1月1日、西洋紀元前660年とされるが、これは中国の「讖緯説」によって逆算して定められたともいわれている。
神武天皇即位の実年代は、今のところ弥生中期(西暦1世紀前後)と推定する説(田中卓博士)に従っておこう。
そもそも、世界の常識では他国の権利を害さない範囲において、正史や神話に書かれた記述は史実であるかどうかはさておき、「こうだったんだ」と信じること自体に問題はない。
欠史八代について
ただ、日本の皇室において神武天皇の以後八代にわたって名前以外の記録が残っていない天皇がいる(いわゆる欠史八代)ことから、同じくらい歴史あるキリスト教カトリック初期の教皇は一応なにを行った人物かという記録はあることを考えると、実在が疑われるのも仕方が無いという意見もある。
当然それに対する反論も多々あるが、古すぎて記録がほとんど残ってないどころか、そもそも当時の日本は文書を残すどころか、文字という概念自体希薄であったため、現存している史跡から推測に推測を重ねていくことしか調べる方法がないため、完全に否定することもその逆も不可能であるとも言われる。実際、欠史八代以降もろくに記録が残ってない天皇が複数いる。あまりに歴史が長すぎるので確認が困難なのである。
ただ記紀には八代の天皇の系譜が詳細に記載されており、そこに記された婚姻は政治的意図を持った同盟政策そのもので、大王が周辺の豪族と婚戚関係を結びながら、徐々に連合政権としての基盤を整えていったことが解り、これらが全て創作とは考えにくいため、八代の存在を証明する事績とされる。
更に、稲荷山古墳が出土した際に発見された鉄剣に、八代の1人である孝元天皇の皇子であり、後に崇神天皇が派遣した四道将軍1人として北陸道へ派遣された大彦命(おおひこのみこと)について書かれた記述があり、その実在が確認された。これにより彼の父である孝元天皇と、兄弟である開化天皇の実在がほぼ確実とされるようになった。
神武天皇にまつわる伝説
- 記紀で兄との別離に差がある。古事記では次兄と三男は天皇が登場する前に海の国や常世へと旅立つが、日本書紀では海難で苦しんだ時に海へと飛び込んで「さひもちの神(ワニザメ)」になったと言われる。
- 「海彦山彦」の悪役で有名な海幸彦(火照尊ないし火酢芹尊。天皇の祖父の兄であり、大伯父に当たる)と親交があり、海幸彦を祀った潮嶽神社には御東征前の天皇が行幸したことや、別れを惜しんだ現地の娘による神楽奉納の起源が語られている。
- 日向市にある美々津には、天皇御一行をもてなした神話が現存する。旧暦8月1日の明け方に船出をすることになったため、見送りの人々は「起きよ、起きよ」と皆を起こして回った。小豆ともち米を急遽混ぜ合わせた「搗き入れ団子」を天皇の下に届けたという。それに起因するお祭りと郷土料理は今も残っている。
- 戦前~戦中に手柄を立てた将兵に賜与された金鵄勲章は、神武天皇が護身用に用いた弓の先に金の光を放つトビが止まったことで敵軍を壊滅させた故事による。タバコのゴールデンバットも敵性語禁止の時に金鵄になった。
神武天皇が登場する作品
どの作品でも「偉大な英雄」「古代の英傑」としての風格があり、神ならぬ身でありながら懸命に乱世を駆け抜ける姿が描かれる。
- 小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」「天皇論」など。如何にも武人と言った風格の英雄神で描かれ、迫力満点の御姿である。一方で小林氏が嫌う人物(マッカーサー元帥や自民党関係者など)を攻撃するための絵に描かれる場面も多い。
- 石ノ森章太郎氏の「マンガ日本の古典・古事記」。山幸彦の孫としてラストシーンに登場することで神話が神々から人間に主役交代する様を演出。昔の教科書や事典の挿絵に描かれた神武天皇を石ノ森流のイラストで描いている。
- 手塚治虫氏の「火の鳥」。ニニギと言う名前で登場し、まさかの悪役。苛烈に主人公を追い込む非情さを見せるが、自分なりの正義を貫くアンチヒーローでもある。乗馬して戦うなど、かつて支持された騎馬民族渡来説を採用されている。
- 久松文雄氏の「まんがで読む古事記」。青林堂のオピニオン情報誌『ジャパニズム』にて連載され、単行本では第三巻に掲載されている。本シリーズは作者である久松氏のこだわりから、古事記の原文に忠実に描くことを心懸けられている。
- 池上永一氏の「シャングリ・ラ」。アニメ化もされたSF小説。主人公の北条國子は神武天皇の木乃伊(ミイラ)から作られたクローンという設定である。名前からわかる通り主人公の性別は女性であり、従って神武天皇の性別も女性である。霊体として國子の前に立ちはだかり、彼女の肉体を乗っ取ることで復活をもくろむ。アニメ化の際はさすがに自主規制があったのか卑弥呼に置き換えられた。