注意 |
---|
この記事は偏見に満ちた特定ユーザーが悪意をもって、特定人種を強引に結びつけ、偏見を助長する様な悪文に満ちた乱文記事と化した経緯があります。編集する際は常に原義を意識し、一般的とは言い難い事例や説明、関連性をこじつけるような単語を付け加えない様にお願い致します。 |
「不思議なことに、美は善であるという完全な幻想が、往々にして存在するものです」
(レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ)
解説
英語のLookismのカタカナ表記。「外見至上主義」とも訳される。
主に身体的、端的に言えば「見た目」が魅力的ではないことを理由とした差別や偏見を指す(匂いや声等も判断基準に含まれる例もある)。
この場合の「見た目」とは、多くの場合顔立ちや体型を指すが、場合によっては髪型や化粧、服装等も含まれる。
「魅力的」かどうか、つまり美醜の判断は、その時代や地域における一般的な価値観に加え、判断する人の育った環境やそこで培われた個人的な価値観によるものである。その為、すべての場において一律に用いられるような基準ではない。
近年叫ばれているダイバーシティの真逆を行く差別行為で、世界中で問題となっている。ルッキズムがいじめ、パワハラ、セクハラ、DV等の社会問題と結びついているケースも多い。また、「見た目の悪さを理由に、容姿を磨くのを阻止する」苛めも存在しているとか。
一部では、特定の人種や障害などについて差別的な価値観を持つ人が、その理由として「自分にとってその特徴は醜いと思うから」とする、身体的特徴を攻撃するような場合(逆に、差別行為の一つとして「○○な人はそのような特徴を持っていて醜い」と攻撃する場合)も見られる。これらは到底許される行為ではない。
原因
例えば、就職活動の場において、同じ程度の能力を持っている「(世間一般の基準において)美しいとされる人」と、「そうではない人」が試験を受けた時、2人のどちらかが選ばれるかは必ずしも平等ではない。実際にアメリカで「容姿の優れている人は雇用機会にも恵まれる」研究結果が発表されている。→リンク先は英語ページ
本来なら、見た目の美醜が能力の優劣の根拠とならない事実は理解していても、どうしても見た目で評価を行い偏見を抱いたり決めつけを行ってしまうのが、ルッキズムの厄介なところである。
こうしたルッキズムは視覚的情報に強く依存する、人間の視覚システムの働き方の産物であり、行動選択の際に美醜を判断基準としない判断を行えるものの、内心から根絶するのはほぼ不可能と思われる。
その理由は美醜に関わる嗜好が、生物の本能に由来する部分を多分に含む為である(赤子や人間以外の生物にすらルッキズム的行動が見られる)。
また、自身にとって「違和感のあるもの」はどうやっても受け入れ難い。例えば、初めて見た異国の人やその風習に基づく外見的特徴などを、全ての人がすぐに受け入れられるとは限らず、戸惑いが差別や攻撃につながる可能性がある事態も留意が必要である。
注意しなければならないのは、美しいもの・可愛いものを好む、醜いもの汚物を嫌悪する等の考え自体は悪では無く、その様な個人の嗜好まで批判の範囲を広げる行いは権利・自由・多様性を否定する危険思想であり、行ってはならない。
また、ルッキズム的な感覚を安易に否定するのは、モデルや俳優のような芸能人をはじめ、各種施設などの受付、営業職、接客業も含めた「人と接するときの見た目」を仕事にしているような人の能力も否定することにつながるといえる。更には、ファッションやメイク等の「身だしなみ」に近いところまで、美醜の基準として持ち込んだ時も同様である。
問題点の根源は、個人の嗜好自体にある訳では無く、「美しい=有能」「醜い=無能」と個人的に決めつけての差別にあり、批判が許されるのはその点のみであるのを肝に銘じる必要がある。
創作物で主役(主人公側)を 「清潔感」が漂う美男美女に描き、悪役を化け物のように醜く描くキャラクター設定は、古来より定番となっている。もちろん美形悪役もいる。
近年の動向など
SNSの発展、反トランプ運動などの影響でネオリベラル派がネットを通じて結集し、2010年代後半ごろから各地で炎上を誘発させるようになった。
彼らは「美しくないものを不当に貶める」典型的ルッキズム以上に、「美しいものを讃える」こともルッキズムとしている。このため、「綺麗だね」と褒めることも(容姿のみを重視した)ルッキズムなのではないか、と糾弾をするようになった。
このため、一部の大学などで、容姿の美しさを競うミスコン/ミスターコンについて、ルッキズムを助長する、性別やジェンダーを決めつけている、として糾弾%廃止が進んでいる。
例えば上智大学では「ミスソフィア」というミスコンが長年開催され、女子アナの登竜門とも言われるほどの歴史があったが、学生たちで構成される実行委員会が、学内外でのミスコンに対する否定的な意見を受けて、大学との協議の上2020年に廃止。「ソフィアンズコンテスト」と新たにコンテストを設立し、社会課題などへのSNSでの発信力やスピーチ技術、課題解決への取り組みなどを評価する形に変更した。
ただし実行委員会側は「投票による順位づけ」がある以上、全く容姿の評価の影響を受けないわけではないと運営上の課題を認めており、2021年度コンテストでは顔出しなしでの出場も可としている。
またもう一つ地味に大きな理由が吉村洋文大阪府知事の存在。彼は「イソジン吉村」などと呼ばれてはいるがイケメンであり、「大阪府民は顔で知事を選ぶ」などと揶揄され、また立憲民主党支持者もその批判に乗じる傾向があった。
現状、日本ではこうした運動は議席に結びついていない。しかしインテリやマスコミにおいては着実に浸透しており、政治的に正しい文化に統制する動きが日に日に強まっている。
その矛先は当然、ルッキズムの本拠地である芸能・文化業界へも着々と向けられている。非実在青少年騒動以来久しく潜んでいたメディア影響論(フィクションの悪影響を重視)も、2010年代後半の動きをうけて再び台頭した。イケメンや美女共ざまあwwwこれからはワイらオタクの時代やで!」「三次元興味ないし…」と思っていると大間違い。
今後作品でも美男美女を描くことが困難になることは間違いなく、各地でネオリベラル派によりご当地萌えキャラ等の糾弾運動が始められているほか、海外では美術館ですら美男美女の像が撤去されるようになっている。もちろんpixivなんかもかなり危うい。
ルネッサンス以来の文芸復興は、ここに来て大きな試練に直面している。
人間以外に対するルッキズム
- スーパーで果物や野菜を買う時などに選別の決め手になるのはもちろん「見た目」である。店先に並ぶのは均整な見た目の品を並べる傾向が強い。しかし実際には見た目の均整さと味等の品質は比例関係にあるとは限らない。ちなみに均整さを欠くが高品質な品はその価値を理解している者達が取引・消費している。
- 乗り物では顕著で、性能は普通でもデザインの成功/失敗で栄えた車種、滅んでいった車種は数え切れない。鉄道車両でも平面顔の車両は流線型や楔型の車両より性能が低い、安いと思われがちである(特にこれとか)。500系新幹線はあまりパッとしなかったが成功作の700系新幹線よりも圧倒的に人気である。
- 建築の分野では、イケメンな建築物は保存され街のシンボルになるが、戦後初期モダニズム建築のような地味なものは再開発の対象になりやすい。また景観が美しくないところはそれだけで駄目都市扱いされがち。