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グループCの編集履歴

2022-02-18 00:49:25 バージョン

グループC

ぐるーぷしー

1982年にFISA(国際自動車スポーツ連盟)が規定したレースカテゴリーの一つ。スポーツプロトタイプカーとも。 または、ジョジョASBリーグで作られたグループの一つ。 本記事では前者を中心に記述する。

概要

8つの数字によって区分分けされていたレースカテゴリを簡略化するために、FISA(国際自動車スポーツ連盟)が1981年に発布し1982年に導入された「グループ・アルファベット」カテゴリの内の一つである。

前身はシルエットフォーミュラの「グループ5」とスポーツプロトタイプの「グループ6」となる。


グループCは「使用可能燃料量」が指定されている1982年~1994(事実上)の「旧規定」と、当時のF1と同じエンジンで燃料使い放題の1991年~1993年の「新規定」の2種類が存在するが、一般に「グループC」と呼ぶと前者のことを指す場合が多く、本記事も基本的にその慣例に倣う。


旧規定のような燃料総量を制限するルールは、脱炭素化が叫ばれる今日においてもF1やフォーミュラEなどのビッグカテゴリも導入しており、まさに時代の先駆けとも呼べる代物であった。

1970年代の「オイルショック」に起因する、石油資源への向き合い方の見直しの結果として定められたこのレギュレーションの下に、レース活動再開の場を求めていた多くのメーカーや打倒ワークスを夢見るプライベーターたちが集い、様々なマシンを開発して争った。

30年以上が経った今でも熱心なファンを持つ、古き良き時代の記憶である。


旧規定の主なレギュレーション

グループCは車格や規則の違いでクラスが分かれており、年にもよるがC1~C4まで存在した。本記事では特に注意書きが無い限り、C1について述べる。

下記の表もC1についてのものである。

全長   4,800mm以下   
全幅   2,000mm以下   
最大高 1,000〜1,100mm
最低重量800kg以上     
ドア数  2枚          
燃料タンク100L以下   

この他、コクピット底面に1,000mm×800mmのフラットボトムを設置する、フロントとリアのオーバーハングの合計がホイールベースの80%、差が15%を超えてはならないなどがある。


燃費とこれらの寸法、ドライバーの安全と快適性などに規定がある以外は「あとは自由」とも言える非常に柔軟なレギュレーションであった。

マツダロータリーエンジンが積極的に活動できたのも、この柔軟さに一端している。

利用可能燃料量

以下の数値はC1カテゴリのものであり、カッコ内は1985年からの数値である。

500km〜323L(275L)
500mile(805km)〜494L(420L)
1,000km〜600L(510L)
24時間レース〜2,550L

最初は1981年ル・マン24時間を制したポルシェ・936/81の燃費1.8km/Lがガイドラインとされた。当時プライベーターに人気のあったV8自然吸気のコスワース・DFLエンジン(DFVの耐久版)ならば難なくクリアできる数値であるが、水平対向6気筒ターボの936を基準としたことはすなわち、FISAが当時最先端レース技術と目されていたターボを主眼に置いたということである。


ターボエンジンは過給圧で実質的な排気量を増減できるため、予選では過給圧を上げて速度重視、決勝では下げて燃費重視という自在な調整が可能であった。

旧規定下において自然吸気エンジンを用いたワークスチームは、ブランドイメージに固執し市販車用エンジンを流用したジャガーだけであったが、予選では過給圧を大幅に上げたライバルのターボ勢には太刀打ちできず、決勝のペースと信頼性で勝負せざるをえなかった。

グループC規定が採用された主なレース

ル・マン24時間耐久レース

・世界耐久選手権(WEC)→世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権(WSPC)

 →スポーツカー世界選手権(SWC)

・全日本耐久選手権→全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)

・IMSA-GTP…北米スポーツカー。GTP規定の大枠はグループCに近いが、燃料量の指定が無い、マシンスペックによって最低重量が異なるなどの相違点がある。本記事では一部を除き割愛。

・ドイツレーシングカー選手権(DRM)

歴史

発足と隆盛

グループC初期は、ポルシェとランチアによる一騎打ちであった。ランチアは移行期間で1年だけ参戦できた旧グループ6の最大のメリット「燃料が使い放題」「重量が200kg軽い」ということを最大限に活かした1.4リッター直列4気筒ターボのLC1で、ポルシェを苦しめた。翌年からは本格的なグループCであるLC2も投入し、予選でポルシェを圧倒した。

しかしいずれも決勝では信頼性不足で結果を残せず、1986年までワークス参戦する中で一度もグループ6から続くポルシェの連覇を止められずに終わった。

ニューマン・ポルシェ956

ポルシェはアルミハニカム製モノコックにグランド・エフェクトカー構造を備えた水平対向6気筒ターボの名機・956、1985年以降はその進化版である962Cで各地のレースを完全に制圧。

世界耐久選手権(WEC)では1982年から1986年、ル・マン24時間レースにおいては1982年から1985年、全日本耐久選手権(後のJSPC)においては1983年から1989年と、チャンピオンシップを連覇し続けた。


ポルシェは他メーカー勢とは異なり、ロスマンズカラーのワークスチームに加えてヨーストやクレマーといった多数の有力プライベーターに供給し運用させることで成功を収めた。対抗できるワークスがほとんどいなかったことも事実ではあるが、この頃のポルシェ勢はいつも10台以上がエントリーし、1-2-3フィニッシュもザラであった。

当時ポルシェはF1でもエンジン供給を行ってチャンピオンを獲得しており、まさにポルシェの時代であった。

Silk Cut Jaguar XJR-14

1985年以降ジャガーザウバー/メルセデスアストンマーチントヨタマツダ日産といった各メーカーが「打倒ポルシェ」を掲げて多数のモンスターマシンを繰り出して鎬を削ることとなる。またマーチ、ロンドー、スパイス、ローラ、クラージュ、童夢などここには書ききれないほど多くの独立系コンストラクターたちも、独自にグループCマシンを開発して投入していった。

市販車ベースのGT用クラスもあったがエントリーは少なく、グリッドのほとんどがスポーツプロトタイプカーで占められた。


1988年にポルシェはCART(現インディカー)にもエンジンサプライヤーとして再参入する一方で、グループCではロスマンズの支援を失って新規定マシンの開発を行わない方針に決まったため、962Cは相対的に戦闘力を失った。なおこれに先んじて1987年途中でWSPCのワークス参戦から撤退している。

そうした情勢の中でもポルシェの開発陣は奮起するが、TWR/ジャガー・XJR-9にデッドヒートの末に敗れ、ポルシェとそのカスタマーチームたちの時代は一つの終わりを迎えた。

ジャガーは前項で述べた通り大排気量自然吸気エンジンゆえの不利があったが、F1ではすでに常識となっていたカーボン製モノコックによる高いボディ剛性と優れた空力性能でカバーしていた。

ザウバー・メルセデスC9

翌年はザウバー/メルセデスのC9が制覇し、ジャガーvsメルセデスの構図に日本メーカー勢が追い縋ろうとするような構図になっていった。


この頃になるとマシンの高性能化がかなり進み、最高速度は400km/h(メルセデスC9)に達するという凄まじいものになっていた。また日産・R90CPは1990年に予選用エンジンで1200馬力(計測できる機器が無かったため、あくまで推測値)のハイパワーを絞り出したといわれ、これにより日本車初のポールポジションを獲得している。


新規定の導入と消滅

燃料流量規制ゆえに熱を帯びていたグループCだが、1988年頃から燃費を気にしながらレースをするのはつまらない、という声も出始めていた。

折しも当時TV放送を通じて大衆人気を獲得していたF1に倣おうと考えたFISAは、F1と同様の燃料使い放題・ターボ禁止・最大排気量は3.5Lに規制・スプリントレースを導入という新規定を1991年に導入することを発表した。これにはグループCのメーカーがF1にもエンジン供給をするようにするという目論見もあった。

最近の落描き(2021/3/22〜

しかしメーカーからすれば長年積み重ねてきた低燃費エンジンへの知見を強制的にリセットさせられてしまうものであったため、開発が遅れて参戦できない、あるいは開発コストが追いつかなくてそもそも参戦を諦めてしまうメーカーが多数発生した。特にプライベーターの味方であったポルシェが、おりからの戦闘力低下に加えて「旧規定だから」という理由で大きなハンデを背負わされることは、エントリー台数に大きな打撃を与えた。

また1990年にユノディエールの6kmのストレートに2つのシケインが設けられたことも、マシンの設計思想を大きく変えてしまったと言われている。

こうしたあらゆる要素が完全リセットされて喜んだのは、新規参戦のプジョーだけであった。


1991年からル・マンへの出場にはスポーツカー世界選手権(SWC)へのフル参戦が義務付けられたが、上記の理由からエントリー台数はわずか18台にしぼんだ。新規定はFISAが主導で作成したものであったため、この体たらくにル・マンを管轄するACO(フランス西部自動車クラブ)は激怒し、運営は紛糾した。

マツダ787B

この混乱の最中、1991年のル・マンを日本車として初めて制覇したオレカ/マツダの孤高のロータリーマシン・787Bの総合優勝は今も語り継がれる快挙となっている。


侃々諤々となった新規定だが、なんだかんだでポルシェ以外の既存メーカーは時期の差異はあれど新規定マシンを開発しており、1991年にはジャガーとメルセデスがSWCにフル参戦。またアルファロメオもF1用エンジンを流用し、新規参入メーカーとして完成間近まで試作車を製作していた。しかし開発やスポンサー獲得の失敗などもあり、いずれのメーカーも同年末に方針転換して撤退してしまった。

ちなみに91年の新規定車クラスの最上位は、日本人ドライバー3人がドライブしたプライベーターのSE90C/コスワース(英国スパイス社製)であった。


結局、新規定に本腰を入れて参戦できたのはプジョートヨタトムス)の2社だけであった。

そんなわけで新GT1規定までの繋ぎとして、1994年まで旧規定車両の適用(1993年までは「C2クラス」、1994年は「LMP1/90Cクラス」として)がダラダラと続くことになる。新規定は1993年までで打ち切られているので、旧規定の方が長生きしたことになる。


なお1994年優勝車のダウアー/ポルシェ・962LMは公道マシンを製作する必要のあるLM-GT1規定であるが、実は962Cを公道仕様に改造しただけの旧グループCマシンというオチがついた。

まさにグループCはポルシェに始まり、ポルシェに終わったのである。


日本のグループC

1982年WEC(世界耐久選手権)日本ラウンドでロスマンズ・ポルシェの956は衝撃をもたらした。この年「正式な国産グループCカー」は童夢トムスが共同開発したセリカターボのみであったが、販促目当てのシルエットフォーミュラのような感覚で作られたこのマシンが956にブッちぎられた衝撃は、瞬く間に国内メーカーを奮い立たせることになる。

翌1983年に全日本耐久選手権(1986年にJSPC=全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権へ改称)が誕生するが、プライベーターの「ノバ・エンジニアリング」が956をいち早く購入し、ワークス・ポルシェが来日したレース以外は全勝という圧倒的な強さを見せつけた。

当時の956の価格は6,500万円ほどとされるが、ポルシェ側の手厚いサポートもあり、マシン開発に四苦八苦するワークスをよそ目に、強力な戦闘力を持ってプライベーターが活躍していた。

なおこの年マツダと童夢がル・マンにグループCマシンで参戦しており、マツダは717で日本車初のクラス優勝(Cジュニア)を果たしている。


トヨタ・日産・マツダは「打倒ポルシェ」と「ル・マン優勝」を目標に、マシン開発をすすめ猛烈な進化を見せていき、1984年になると(全日本選手権ではないが)富士1000kmレースで、ムーンクラフトのMCS・グッピーが国産マシンとして初勝利。

翌1985年には童夢84C・トヨタが初めて全日本耐久選手権で優勝し、同年9月にはWEC富士で星野一義率いるマーチ85G・日産が国際ラウンドで日本勢として初優勝を上げている。

しかしシーズンを通してではやはり956が優勢で、結局1989年まで国内で行われたグループCのレースにおいて、国内メーカーが年間チャンピオンとなることはなかった。

センシティブな作品

1990年に入るとかつてのポルシェの面影はなく、トヨタ・90C-Vを破った日産・R90CPがようやくタイトルを掴んだ。ここに至ると各メーカーは(すでに衰退したことを差し引いても)「打倒ポルシェ」を達成したといえるレベルにあり、前項の通りル・マンでもポールポジション・優勝を達成するなど、国産グループCも熟成して最盛期を迎えていた。


しかしここで件の「新規定」が到来。JSPCも新旧の両規定車両を参戦可能とした。

大排気量レシプロエンジンでのレース経験の無いマツダは旧規定の787Bやジャッド製V10エンジンと旧グループCのジャガー製シャシーをTWRから購入しただけの「MX-R01」を投入するが、日産・トヨタの旧規定車両によるガチンコ対決に割って入ることはできなかった。

TOYOTA TS010

プライベーターたちもメーカーの型落ちマシンを用いながら参戦するが、1992年末にはバブル崩壊も直撃して参戦台数が10台前後に低迷し、SWCも1992年で終了したことで、JSPCもこの年限りで幕を下さざるをえなくなった。

最終年の終盤にトヨタは、SWCにも参戦させたTS010で日産を圧倒するが時すでに遅く、1990年代は日産が全ての年で総合チャンピオンを獲得する結果となった。


また1992年の北米で日産は、旧規定車両をIMSA-GTPに適合させたR92CPによってデイトナ24時間を実質日本人トリオで制覇するという快挙も達成している。

トヨタの94C-Vはシグマ・オートモーティブが運用して1994年に総合2位(LMP1/90Cクラス1位)となるが、このマシンは終盤の鬼気迫る追い上げが現地で強い印象を与えたとして、今もル・マンの博物館に787BとTS050 HYBRIDとともに展示されている。


その後

1993年にグループCのターボ車両(=旧規定車両)で参戦できる、プライベーター向けのICL(インターサーキットリーグ)が開催されたが、エントリー不足によりほぼ全戦がキャンセルされた。唯一開催された鈴鹿1000kmでも、実際に参戦したのは日産のCカー2台のみで、それ以外はほぼGT車両のみであった。


1994年のJGTC(現在のSUPER_GT)では、チーム・タイサンの962Cがアンソニー・レイド/近藤真彦組がGT1クラスで優勝を挙げている。しかし事実上特例参戦で、規則で多くのハンデを背負っていたため、この年限りの参戦となった。


NISMOTRD、マツダスピード、トムス、SARD(シグマ)、チームルマン、トラスト、タイサンと言った有名チューナー・プライベーターはこのグループCの渦の中で産声を上げ、実戦を戦いぬき、その後のレース活動の地盤を作り上げた。


グループCマシンの特徴

本記事で何度も登場している旧規定の代表格、ポルシェ・956/962Cはプライベーターに大量供給されただけあって、極めて運転しやすい特性であった。どれくらい運転しやすいかというと、1982年ル・マン総合優勝者のルドウィックとペスカロロが「ほとんど疲れていない」と口を揃えて言うほどであった。

特にハンドリングは極めて優秀で、956/962Cで4度ル・マンを制したデレック・ベルによるとパワーステアリングとエアコンが無いゆえの苦労はあったが、そんな苦労を吹き飛ばすほど運転していて気持ちの良いマシンだったと述懐している。


また荒聖治は2015年に箱根ターンパイクで962Cをドライブしているが、「俺は初めて体感したけど…この車は超いいな!」「このしなやかなサスペンションとダウンフォースはハンパないぞ」とただ感心しきりであった。

荒は2004年ル・マンで総合優勝を果たしたのみならず、フォーミュラやGTでも経験豊富なドライバーであり、彼をしてこの言わしめようには説得力しかないだろう。


(走行は4:02~、荒のコメントは6:17~)


日本レース界のパイオニアである鮒子田寛に言わせると、956/962Cはメカニズム的には特段優れていたというわけではない(古いアルミ製モノコックと空力で不利な水平対向エンジン)が、ポルシェの長年の耐久マシン開発のノウハウの蓄積が築いた優秀なパッケージングと信頼性、燃費性能が際立っていたとのことであった。


その圧倒的な戦果とは裏腹に長距離耐久レースを戦うための快適性を兼ね備えた、ドライバーフレンドリーな956/962Cはまさに「スポーツカーの究極体」であったといえる。


なお旧規定後期のモンスターマシン達はさすがにそうもいかなかったようで、ザウバー/メルセデスのC9はドライバーたちがマシンから降りるたびにマッサージを受けていたとか、日産のR92CPは星野一義・長谷見昌弘が「マシンから降りるたび死ななくて良かったとお互い顔を合わせた」「もう二度と乗りたくない」とまで言ったというエピソードも残っている。


技術的な部分では、モノコックがアルミ製からカーボン製に切り替わり始めたり、ピットからマシンの状態をリアルタイムに把握するテレメトリ技術が徐々に導入されるようになっていったのもこの時代である。

また今では見られなくなったが、最高速を追求するためにリアタイアをフェンダーで覆う形状もよく採用された。


多様なメーカーが参入してさぞかし楽しい時代であったろうと我々ファンは想像するが、前項で述べた通りピットの指示で燃費走行ばかりを強いられるため、ドライバーからすれば面白くなかったそうである。これは同様の規則を持つ現代のF1やフォーミュラEでもしばし言われていることであり、そういう負の部分でも先駆けであったといえる。

その点新規定マシンはV10自然吸気サウンドと、旧規定より50kgも軽量なカーボン製シャシーで「カウルを被ったF1マシン」と形容できるような特性を持っていた上、燃費を気にしないでアクセルを踏み込めたため、ドライバーたちからは概ね好評であった。


参考・出展

・WikipediaグループC

・三栄書房 Racing on Archives Vol.8「ニッポンのグループC」(2014/2/12発行)

・三栄書房 Racing on Archives Vol.5「JSPC 【1990-1992】+IMSA-GTP」(2018/12/01発行)

webモーターマガジン 「グループCの時代」

ジョジョの奇妙な冒険オールスターバトルにおいて

2013年6月19日、ジョジョの奇妙な冒険オールスターバトル(以下ASB)公式サイトにおける企画、

オールスターバトルリーグ」内にて3番目に誕生したグループである。

しかし、その後誕生した通称アイドルグループグループDと通称死のグループグループFのインパクトの影に隠れてしまった。


構成メンバー


岸辺露伴

4部ダイヤモンドは砕けないの人気漫画家


ウィル・A・ツェペリ

1部ファントムブラッドで主人公のジョナサンに波紋法を教えた。


ワムウ

2部戦闘潮流で主人公のジョセフを苦しめた柱の男の一人


吉良吉影

4部ダイヤモンドは砕けないのラスボス。唯一のダウンロードキャラクター。


吉良吉影は静かに暮らす気がない

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