曖昧さ回避
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プロフィール
生涯におよそ1300もの発明を行ったアメリカ合衆国の発明家であり、起業家。
その発明の数から「発明王」「メンロパークの魔術師」「映画の父」など様々な異名がある。
「ドロップアウトから独自の努力で返り咲いた」という、非常に日本人受けする来歴から、子供向けの伝記等でもよく知られている人物である。
経歴
伝記などでよく知られているとおり、子供の頃の彼は小学校を中退した劣等生とされている。
エジソンは貪欲な好奇心の持ち主で、典型的な「なぜなぜ?」連呼少年であり、「1+1=2」という式に対して「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」といった具合に先生の揚げ足を取るような質問を連発して先生をほとほと困らせていた。なんでもかんでも自分で確かめなければ納得できない性分であり、「なぜ物は燃えるのか」とわらを燃やして自宅の納屋を全焼させたり、ガチョウの卵を自分で孵化させようとして、卵を抱き抱えてガチョウ小屋の中に何時間も座り込んだりしたという。そんな彼に愛想を尽かした教師に「君の頭は腐ってる」とまで言わしめ、エジソンは3ヶ月で小学校を退学。(当時のアメリカには義務教育の制度がなかったため、学校に通わない子供はさほど珍しくない)
小学校をやめた彼は母親に勉強を教わることになる。(「母親は元教師であった」と言われているが、これは創作だと言われている)「なぜ?」を連呼する彼を母親は否定することなく理解を示していたが、さすがに「友達を宙に浮かばせようとしてヘリウムガス入りの薬を飲ませて苦しませた」ことには大激怒した。相変わらず懲りないエジソンであったがそんな彼が特に興味を持ったのが、自分で現象の過程を思う存分確かめることができる化学の実験だった。
14歳のころは自身の好奇心が高じて汽車の中で自作の新聞を販売し、その稼ぎで研究に没頭した。電信士をしていた17歳のころに「居眠りしている事を誤魔化す」目的で「全自動電信送信機」なる手の込んだ手抜きというべき機械を発明。これが人生初の発明品となる。・・・が、後に上司にバレて「居眠りしていないことを証明するために定期的に電信を送ってるのだから、この機械を使ったら意味ないだろ!現にお前眠ってるじゃん!!」と当たり前すぎるお叱りを受けてしまった。
初めて特許を取得したのは21歳の時。それは電気投票記録機に関するもので、議会での賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計し、投票時間の大幅短縮を実現する画期的な発明であった。しかし、実際の議会では、野党の議員による投票外戦略(いわゆる牛歩戦術や与党議員との盤外交渉等々)ができなくなるという理由により、全くと言っていいほど採用されなかった。エジソンはこの苦い経験を通して、「いくら立派な発明でも人々が喜んでくれなければ何の意味もない」という教訓を得た。その後は周囲の人々の意見や要望をよく聞いてから発明に取り組むようになる。エジソンの発明品が我々の生活に身近で実用的のものが多いのはこの教訓によるところが大きい。
発明家としての初めての成功は22歳の時、株式相場表示機の特許で4万ドル(現在の日本円で言えば約2億円)の大金を得たことである。この成功で本格的に発明家としての道を歩み始める。1877年、蓄音機の実用化(商品化)でさらなる名声を獲得。ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、各国から技術者・研究者を迎えて様々な発明群を世に送り出した。この「研究所」というシステムこそ、エジソン最大の発明とする見方もある。
1878年に改良された白熱電球を発明し、同時に世界初の電力会社としてエジソン電気照明会社を設立。同社は直流110Vの電気を供給する送電システムを採用したが、電力供給の広域化に伴い変圧が難しいという直流の欠点が目立つようになり、ジョージ・ウェスティングハウスの交流送電システムに敗北した。
1887年にニュージャージー州のウェストオレンジ研究所に移る。ここでは動画撮影機キネトグラフを発明し、同研究所敷地内に世界初の映画スタジオを設けて映画産業の立ち上げにも関わった。
晩年は会社経営から身を引き、研究所にこもって死者との交信の実験(霊界との通信機の研究)といったオカルト研究を続けていたという。
電流戦争
エジソンのライバルとして有名なのがジョージ・ウェスティングハウス、そして一度は彼のもとで働いていたニコラ・テスラである。ウェスティングハウスは交流による送電インフラを作り上げた人物であり、エジソンと袂を分かったニコラ・テスラを支援して交流モーターを完成させた。
ニコラ・テスラがエジソンのもとを離れたのは、直流に異を唱えるテスラにエジソンが「直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させる」という難題をふっかけたものの、彼は成功させてしまい、認めたくなかったエジソンは「冗談だった」と約束を反故にしたことがきっかけである。
アメリカで死刑に使われている電気椅子はエジソンが発明したものであるが、エジソンは自らの推す直流による送電システムを普及させるため、「交流は危険」というイメージを流布しようと、交流を使った処刑道具を発明し、採用させたのである。他にも野良犬等の生き物に交流電流を流して殺処分するという悪趣味なショーを行う等、交流のプロパガンダとネガティブキャンペーンを繰り広げたものの、最終的に「変圧が容易である」という交流の利点が認められ直流システムは衰退していった。
この電流戦争は児童向けの伝記ではばっさりカットされていることがほとんどで、この戦争で垣間見えたエジソンの「闇」の面を知らないという諸氏も多い。しかし(日本では数少ない)ニコラ・テスラの伝記では「倒すべき悪役」としてのエジソンが描写されており、ニコラ・テスラからの視点を知ることで彼への見方が変わったという人間も多いだろう。
業績
天才的な発明家として知られるが、そのほとんどは既存の技術の改良である。『電球の発明者』とされることもあるが、エジソンの功績は“電球の性能の安定化と商品化”であり、電球そのもの(最初に作って特許を取得したのはイギリスのジョセフ・スワンと言う人物)はエジソン以前に既に存在していたのがその例の一つである。ちなみにエジソンとスワンは名前が似ていたので、後に二人で「エジスワン」なる会社を建てた。実に抜かりない。
エジソンの本当の顔は不屈の実業家であり、その一番の才能は革新的商品によって、今まで存在しなかった市場を作り出す能力であると言えるだろう。アメリカの食事を“一日三食”に定着させた立役者ともいわれ、その理由が「自分の作ったトースターを売り出したかった」からであり、そのために「私の頭脳は朝昼晩の規則正しい三回の食事に支えられている」とマスコミに発表したという逸話がある。
「映画の父」と言われるが、エジソン自身は自分の開発した「キネマスコープ」(筺体内を覗いて視聴する個人用の映写機)を愛し、のちに映写機による劇場型映画が登場した際には散々にこきおろしている。しかし結果はキネマスコープが廃れ、映写機が普及していった。またハリウッド(アメリカ西部)が「映画の都」と呼ばれるようになったのも、エジソンと対立した映画関係者がニューヨーク(アメリカ東部)在住のエジソンから逃げてきた地だからである。
後年におけるエジソンの経営者としての評価は肯定寄りの賛否両論である。もっとも親友のヘンリー・フォードは「発明家としてはともかく、経営者としては三流」とその手腕をはっきりと酷評していた。
彼個人の成功例として蓄音機があるが、これは「自分の声を自分で録っていつでも聞けるから」という、常人からするとナルシズムとも取れる理由で発明したもの。
ちなみにこれだけの功績がある彼がノーベル賞を受賞していないのは、ニコラ・テスラとの同時受賞を打診されたが、お互いに「あいつが受けるなら俺は受けない」と拒否したからという噂がある。
格言
「天才とは1%の閃きと99%の努力である」という有名な格言。エジソンの熱心なファンである浜田和幸によると「1%の閃きが無ければ99%の努力をしても無駄である」が正解だという。
そもそもこの発言自体は彼の死後の1932年に発表されたもので、全く同じ発言をしたかは定かではない。
だが、エジソンは生前における多くのインタビューにおいて、努力こそが閃きに必要なものであり、努力が最も重要であるという趣旨の発言をしているのは確かである。
他には「何かが君の考えたとおりに運ばなかったからといって、それが役立たずだという意味にはならない」がある。
事実、エジソンは発明のための研究に関しては昼も夜も関係なく時間を忘れて没頭していた。普段の睡眠時間の合計3時間ほどしか取らず、ほぼ24時間体制と言ってよいスケジュールで仕事を続けており、「私が仕事を1日8時間に限っていたら、成功はおぼつかなかったはずだ」とも語っている。
科学者として
目的達成のために労力を惜しまないエジソンだったが、「その労力を削減できるような、数学等の理論的な知識を軽視していた」点が見受けられる。高等教育どころかまともな初等教育すら受けていない彼の研究手法は、莫大な時間を費やして地道なトライ・アンド・エラーを繰り返す「実験科学」であった。
子供の頃の彼のエピソードが裏付けている通り、エジソンはなんでもかんでも自分で立証しなければ気が済まない性分で、「本や教科書に書かれた知識など、所詮他人が勝手に定義したものだし、実践では何の役にも立たない」と捉えていた節もあったようだ。この「理屈ばっかりで現実的でない学問への拒否反応(学がないことへのコンプレックスも多分にある)」に加えて「学がなくとも、労力を重ねれば成功する」という自身の経歴から来る自信もエジソンの理論的な知識の軽視に拍車をかけていた。
彼の助手が電球の容積を算出するために複雑な計算に取り組んでいたとき、エジソンが「私なら電球に水を入れて容積を量る」と言ったエピソードがあるが、これは「柔軟で実践的な思考の持ち主」だと捉えられる反面、高等教育を受けた人からすれば「計算すれば求められるのに、なぜわざわざ水を用意する労力をかけるんだ?」とエジソンが学問を重視していないと捉えることができるエピソードでもある。
そんなエジソンに付き従っているエジソンの助手(ちゃんとした数学者もいたが)に囲まれている彼に、はっきり異を唱えて離反したのがニコラ・テスラである。大学を卒業し、数学と物理学を修めた「理論科学者」である彼にはこのエジソンの姿がとても非効率に見えたようで、後に「ちょっと計算すれば削減できる90%の労力をエジソンがわざわざ費やしている姿が非常に残念でならなかった。彼は本の学習や数学的な知識を軽視し、発明家としてのカンやアメリカ人的感覚のみを信じていた。」と彼の名言になぞらえて批判している。
そもそもここまでエジソンが直流にこだわったのは、すでに彼が直流に莫大な投資をしていたのもそうだが、エジソンが交流に必要な「微分・積分」の概念を理解できなかった点が電流戦争敗北の原因と言える。
もっとも、彼の「実験科学」の手法が全否定されるべきものではないことは留意するべきであろう。彼の最大の功績である「白熱電球の耐久性向上」に必要なフィラメント素材の模索は、「炭化した京都府八幡産の竹が適している(1000時間光り続けたという)」という結果が出るまで、数千種類の素材の試みによって得られた積み重ねであり、決して計算で求められるものではない。
成功に必要な「努力」には、「時間をかけて試行錯誤」することも「理論的な知識を駆使する」ことも重要だと示すエピソードといえよう。
余談
あまり知られていないがエジソンは聴力が悪かった。これは汽車の実験室でボヤ騒ぎを起こして車掌に引っ叩かれたとも、車掌が汽車から落ちそうだったエジソンを引っ張り上げるために耳を摘んで引っ張りあげたからとも言われている。
エジソンの関連人物
生前
岡部芳郎:日本人の電気技師でエジソンの助手。誠実な人柄から彼に強く信頼され、それ故にエジソンは親日家だった。
ニコラ・テスラ:かつてエジソンの会社で働いていた電気工学者で前述の電流戦争で袂を別かち、そして敗北した相手。「エジソンを唯一負かした発明家」とも言われている。
ジョン・フレミング:エジソンの会社の元社員。フレミングの法則を発見し、真空管を発明した。
グラハム・ベル:同時期の著名な発明家。電話の発明者として知られ、エジソンと電話の特許権をめぐって訴訟を展開。エジソンはベルが電話機の発明者とされるのは最後まで納得がいかなかったという。
ヘンリー・フォード:エジソンの経営する会社の元社員。エジソンはフォードの自動車への夢を激励し試作車に助言を与えた。フォード社創業後も生涯に渡り親交を続けた。
没後
スティーブ・ジョブズ:米Apple設立者のひとり。パソコン、DTP、音楽のデジタル配信、スマートフォン市場をそれぞれ立ち上げた人物であり、「不屈の実業家」「革新的製品による新しい市場の創造」という業績からエジソンとよく比較される。
関連タグ
恋するエジソン:週刊少年ジャンプで連載されていた漫画作品。作者は渡邉築。
外部リンク
アニヲタWiki(仮) - 実は言ってない台詞 - 「▼言ったことは言ったが、意味が違う系」を参照