曖昧さ回避
- 世界初の実用的電話を発明した科学者。
- 『ギャグマンガ日和』に登場するキャラクター。
史実のグラハム・ベル
アレクサンダー・グラハム・ベル
Alexander Graham Bell(1847年3月3日~1922年8月2日)
概要
スコットランド生まれの科学者、発明家で実用的な電話機の発明者。聾者教育に尽力し、電話もその副産物である。
グラハム・ベルが興したベル電話会社はAT&Tの前身であり、後援者で義父のガーディナー・グリーン・ハバードはナショナルジオグラフィック協会の設立者で、ベルも第2代会長を務めた。
その一方、両親が先天的に聾者だった場合に聾者の子が生まれる可能性が高いので婚姻は避けるべきと提唱し、「不完全な人種」の断種の法律化を提案するなど優生学運動と関わりを持った。
略歴
1847年3月3日、スコットランドのエディンバラに生まれる。父アレクサンダーは大学教授であった。
1859年、製粉所を営む友人の家族のため脱穀機を開発し、発明人生がスタートした。
また、当時母イライザの聴覚障害が進行していたため音響学に興味をもち、読唇術を身につけた。
1868年、ロンドン大学に入学。家族はロンドンに引っ越した。
1870年、兄弟が次々と病死し残ったグラハムも病弱だったため、療養のため家族でカナダに移住する。
1872年、聾者を娘に持つ弁護士ガーディナー・グリーン・ハバードの支援によりボストンに視話法を教える学校を開校。三重苦の少女ヘレン・ケラーと知り合う。
1873年、ボストン大学で発声生理学と弁論術の教授になるが健康状態が悪化し、音響に関する実験に専念することにした。トーマス・サンダースが提供したセイラムの屋敷に実験室を設置し、聾者であるトーマスの息子ジョージとハバートの娘メイベル、ジョージの祖母、看護婦と共に暮らしながら実験を行った。
1875年、電気や機械に熟達したトーマス・アウグストス・ワトソンを助手に雇う。アコースティック・テレグラフを開発し特許申請書を書いた。
1876年2月14日、ベルとイライシャ・グレイが同日に電話の特許申請をするがベルの方が2時間早かった。グレイが出願に向かったのを知ったハバードがベルに無断で出願したため。
3日後、電話の実験に成功する。最初の通話は「ワトソン君、ちょっと来てくれたまえ。用事がある」(実験で硫酸をこぼし、ワトソンに助けを求める声)。
6月にフィラデルフィアで開かれたアメリカ建国100周年記念万国博覧会に電磁石式電話機を出展。
1877年、ハバードの協力で任意組合ベル電話会社を設立。代理店に賃貸権を付与しロイヤリティを徴収するビジネスモデルで大成功を収める。ワトソンは技術責任者として活躍し、会社の株10%を持つ大株主でもあった。
ベルはハバードの娘メイベルと結婚。
ウエスタンユニオン社がトーマス・エジソンの炭素式マイクに関する特許を買い取りAST社を設立、電話ビジネスに参入する。
1878年、ベル社はAST社を特許侵害で提訴。その後も特許の切れる1894年まで無数の特許裁判が続いた。頻繁に出廷しなければならず、ベルは1880年にワシントンD.C.に引っ越した。仕事に支障をきたすため会社は辞めた。
1882年、アメリカ合衆国の市民権を取得。
1885年、ベル電話会社は長距離事業用にAmrican Telephone and Telegraph(AT&T)社を設立。天才的経営者セオドア・ニュートン・ヴェイルを社長に迎える。
1887年、ケラー家にアン・サリヴァンを紹介した。
1888年、ナショナルジオグラフィック協会創設に関わった。
1922年8月2日、糖尿病に起因する合併症により、ベイン・バリー(カナダ)の自宅で死去。
関連タグ
『ギャグマンガ日和』のグラハム・ベル
概要
電話機を発明する才能の持ち主だが、かなりネガティブかつ卑屈。
そのため自分の発明にも自信がもてない。
助手であるワトソンにも「失敗したら死のう!」とまで言っていた。
卑屈さは本人曰く「小学生の時好きな女の子に腐った味ごはんのにおいがするって言われ」たから。
「サンダー」が付けば格好いいと考えているらしく、電話で最初に話す一言も「サンダーファイヤー」にしようとしていた(ただし実際には紆余曲折あり「ワトソン君こちらへ来てくれないか」になった)。
電話を発明した男の哀れな末路
史実のベルは、自分が発明した電話に四六時中呼び出される事にウンザリして、電話を発明した事を後悔している。