解説
特に秦国で強大な武力を持つ6人以下の大将軍を対象に六大将軍制度に基づき任命される。
六大将軍に任命された大将軍は「戦争の自由」という特権が与えられたため、これにより戦争を広範囲かつ迅速に展開したことで、戦国六国にその名を轟かせていた。
新旧ともに六大将軍は、首都・咸陽で軍総司令の指揮下において作戦の概略を構築(必要な人や食料はこの時に考える)し、現場ではさらに六大将軍の判断により必要な人や食料を調達する形式をとる。
咸陽での作戦構築は六大将軍ではない大将軍以下の戦争においても同じだが、「戦争の自由」における最大の違いは現場で必要な人や食料について、咸陽での判断を仰ぐことなく侵攻を行う六大将軍の命令により現地調達が行えることにある。
特に咸陽からの判断を仰ぐ必要が無いことで、現場の迅速な対応により相手に隙を与えることなく侵攻が行える利点が大きい(一応記載するが、作中で咸陽から現場まで命令したり状況報告を受けたりするのに騎乗した伝令兵を走らせ数日から数か月かかる時代であるため、これを解消するには判断を現場に丸投げせざるを得ない)。
作中では影丘で桓騎が強制徴兵により多くの周辺住民を巻き込んだ上、それだけでは足りないために玉鳳軍や飛信隊も加勢させている。
食料問題については作中で描かれていないものの、史実の長平の戦いを仮定した場合、兵糧攻めにおいて現地住民から強制的に食料を奪取することで秦軍側は優位に立ち回れた可能性もある。
なお、韓攻略では半年ほど秦軍が南陽城周辺に居座っているが、騰としては南陽城から食料を奪取する意図はないため、秦軍側の食料は秦国から仕送りがあると推測される一方、南陽城の韓民から譲り受けた食料も多少は見られるが、こちらは六大将軍制度とは無関係である。
さらに、新六大将軍の時期には新しく、戦後に派遣され現地を統治する文官よりも現地に駐留する六大将軍の地位の方が高いという判断が下されることとなった(詳細は剛京を参照)。
ただし、メリットばかりではなくデメリットもある。
まず、咸陽の判断を仰ぐ必要が無いということは、その戦争の内容を咸陽が知るのはほぼ事後報告となってしまう。
『キングダム』作中では伝令兵から送られる指示に従い現場判断を変える描写も一応あるが、六大将軍に限らず大将軍クラスともなると咸陽でも真意を読み取れないことがしばしばある他、そもそも報告が無いなら咸陽も対応しようにも対応できず静観せざるを得ない。
影丘では桓騎軍が投降した趙兵を虐殺したが、桓騎軍の総数が少ないことが露呈したら各地で反撃される恐れがあったのは事実であるため、現場判断で捕虜の対処を決めざるを得なかったために起きた悲劇という見方もできる(どの程度を斬るかについても嬴政の言うように判断することも可能だっただろうが、桓騎にその考えは無く、止める手段も皆無だった)。
また、肥下の場合、李牧の情報封鎖もあるものの、狼孟城の敗戦・閼与城で動けない王翦軍・状況的に侵攻する他なかった桓騎軍の3つの状況において、その全てを把握した上で対応する必要があるが、伝令兵が戦中で把握できたのは恐らく桓騎軍の前進以外であり、同じ六大将軍である王翦としても閼与城から援軍を送る判断は難しく、より深みに嵌った桓騎軍を救う手立ては現場の時間的にも皆無だったため、タイムラグのある咸陽も当然対応できないことになる。
また、示唆の程度に留まっているが謀反の恐れも存在する。
ただでさえ10万人の軍を抱える上、周辺住民などを傘下に強引に引き込めることを鑑みると、同じ秦の国民に対して刃を向ける(謀反を起こす)リスクが生じてしまうとされる。
このため六大将軍制度は昭王との鉄の忠誠心によって成り立っていたと言われており、作中開始時点で廃止されているのは昭王の崩御により次期大王に対する六大将軍の暴走を危惧したため、昭王が予め廃止したのかもしれない。
六大将軍制度の歴史
六大将軍制度制定の背景は、当時の秦国は常に戦国六国に対して侵攻し、常に複数の国と戦っていたことにある。
上記のタイムラグや食料・人の事情から、咸陽から遠く離れて戦う大将軍らと連携を図るのが枷になると考えた昭王は、6人の大将軍に対して「戦争の自由」という特別な権限を与えた。
これが六大将軍制度である。
詳しい時期は不明だが、遅くとも摎が王騎軍傘下将軍になった時点で六大将軍制度は施行されていた模様。
それより前に遡るなら、史実の長平の戦いのような長期間に及ぶ戦いは、特に六大将軍制度の特徴である「兵や食糧を多大に要求する」状況とも合致するため、総大将が白起だったこともあり、長平の戦いの時期には既に六大将軍制度が施行されていたとも考えられる。
作中開始時点で六大将軍制度自体は廃止されているような描かれ方をしているが、公式ガイドブックも加味しても、いつ廃止されたかの言及は一切ない。
このため実は昭王崩御の時点で、六大将軍が(摎が討たれたことで戦いに出なくなった)王騎しか居なかったために形骸化したのか、あるいは昭王の時代に正式に廃止したのかも明かされていない。
ただし蒙武が上奏した内容より、呂氏派も大王派も六大将軍制度の「復活」という表現については共通認識であったことから、作中開始時点では正式に廃止されているという見方が適切と考えられる。
また、呂不韋の傀儡政治下にあった荘襄王政権で廃止した可能性については、呂氏派である蒙武が復活を申し出る時点で矛盾している上、呂不韋も復活自体は肯定的に考えていることから、有り得ないことが分かる。
とはいえ蒙武が上奏した時点(始皇2年)で嬴政は即位から間もないため、話は長いまま保留となっていた。
作中で再び六大将軍の話題があがったのは紀元前238年(始皇9年)、秦国を統一し中華統一のために秦国がこれから一丸となろうとしている頃、信が嬴政から聞いた話である。
軍総司令・昌平君は、六国を滅ぼし中華統一するまでの過程で高い士気と集中力を持続できる限界の年数が15年と計算した。
その期間に間に合わせるには咸陽との連携という膨大なタイムラグは排除しなければならないのは明らかであるため、六大将軍制度の復活は時間の問題となっていた。
とはいえ、昌平君の計算と六大将軍制度の復活に一貫した論理は無く、嬴政の説明のニュアンスは秦軍の規模の増大に伴った措置としての制度復活という解釈が正しいように思われる。
紀元前237年(始皇10年)、趙宰相・李牧と斉国王・王建の来秦後、趙国は奪取された黒羊周辺の趙西部の築城を進めたため、紀元前236年(始皇11年)に鄴侵攻を敢行することとなった。
重要なのは出陣前の総大将・王翦に対し昌平君は「(軍部が)授けた鄴攻めの戦略は戦局の流れによっては捨てていい」と語ったが、この発言はまさに六大将軍制度の「戦争の自由」に匹敵する権限を与えたことに他ならない。
また、王翦も昌平君に斉国に対し水路による食料の用意を要請したが、鄴攻略の結果から王翦に暗に与えた「戦争の自由」の権限によって秦軍は勝利を掴むことができたと評価したと考えられる。
このため紀元前234年(始皇13年)に六大将軍制度が復活した訳だが、下記の新六将を見る通り、復活当初に選出されたのは5人だけだった。
旧六将の選定条件は作中で明かされていないが、新六将の選定の上で嬴政は戦の強さが絶対に必要とのこと。
実際、新六将は作中でも描写される通り実力を備えた大将軍であることは間違いない。
ただし、第五将・桓騎については後に六大将軍の対象として李斯が忠告したことが明かされたが、それでも桓騎を推したのはやはり戦の強さで他に比肩する大将軍が居ないことが嬴政の中では大きかった模様。
旧六将
六大将軍筆頭。名実共に最強とも言える武将で、長平にて趙軍40万人を生き埋めにした。その後自害する。
作中開始時点で生き残っていた最後の六将。『秦の怪鳥』と呼ばれ恐れられて来た。信に矛を託し馬陽にて戦死。
六大将軍の紅一点。苛烈な攻めを得意とする将で、かつては王騎の城の召使いだった。かつて馬陽で龐煖に討たれ戦死。
軍略の才のみで六大将軍になった。昌平君の軍略の師。死因は不明。
六大将軍随一の剛将。ある人物に負けたと語られる。死因は不明。
現状言及なし。
新六将
第一将。白老・蒙驁の息子であり、蒙恬蒙毅の父。秦国一の剛将で、天下最強を自負する。
上記のように作中の六大将軍の言及自体は蒙武が最初だが、この時は呂不韋によって保留にされ、仮に毐国の決着で呂不韋政権になった場合、呂不韋の思想から六大将軍制度の復活は無かった可能性もある。
第二将。王騎軍の副官であり、王騎の死後王騎軍を任された。呉鳳明曰く、秦国で唯一地に足のついた将軍。
かねてから昭王に仕えてきた王騎の後継だけあって嬴政の中では特に信頼できる将軍でもあり、桓騎が影丘で起こした大量虐殺や肥下・番吾の敗戦を経て、人や食料が枯渇していく中で韓攻略を託せる相手として納得の選出と言える。
第三将。王賁の父。蒙驁の副官であり、その時既に六将級の実力だったが危険思想のせいで日陰に追いやられていた。
桓騎とは同じ蒙驁軍副将だったため、鄴や肥下(閼与城まで)のように桓騎のストッパーとしての役割もあったと考えられる。
第四将。秦の西に広がる山界に生きる山の民を統べる『死王』。新六将の紅一点。
蕞防衛の時点で「大上造」の爵位を与えられており、黒羊編の直前から事実上の秦国大将軍として頭角を現している。
一応山の民が棲む山界は秦国内ではあるが王都奪還編以前は国交が断絶されており、ある意味では嬴政の「国内国外・身分を問わず未だ野にうもれた才能を拾いあげる」思想を体現した選出と言えるか。
第五将。蒙驁の副官。元野盗団の頭目であり、独自の戦術により勝ちを重ねてきた。肥下で戦死。
なお、桓騎の選出は李斯ように問題視されていたが、同じ蒙驁軍副将の王翦の存在や、桓騎を除いたとしても戦の強さで比肩する人物が見当たらないために選出せざるを得なかった模様。
なお、現時点で第六将は不在。嬴政曰く「五人に比肩する者が見当たらなかった」とのこと。