ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

イディ・アミン

くろいひとらー

イディ・アミンとは、ウガンダの軍人・政治家。同国の第3代大統領であり、その独裁・恐怖政治から「黒いヒトラー」などの異名でも知られる。(1925年?-2003年)
目次 [非表示]

概要

ウガンダ共和国の政治家・軍人。同国の第3代大統領として知られる。


生涯

正確な出生地・誕生日については不詳であるが、ウガンダがイギリスの統治下にあった1925年頃に首都のカンパラ、もしくは北西部のコボコで生まれたとする説が有力視されている。

イギリス植民地軍に入隊していた時期には、ボクシングのヘビー級チャンピオンになったこともあり、後述の異色のタイトルマッチが企画されたのもこれによるものである。


ウガンダが独立国家となった後、軍の参謀総長を務めていた1971年にクーデターで政権を掌握。当初はアフリカにおける右派政権として、西側諸国からの支援を受けていたアミンであるが、その後の彼の政策は独裁色の濃いものへと変化、当時国内の経済を握っていたインド系の住民を中心としたアジア人の国外追放や、政策に反発する国民の大量虐殺(推計で10万から50万人に登るとされる)などといった恐怖政治により、社会混乱と国家経済の破綻を引き起こした。

こうした独裁政治への批判から、アミンはそれまでの西側諸国寄りの姿勢から、一転して反欧米的な姿勢を見せるようになるが、一方では武器供与を受けていたソ連などの東側諸国とも微妙な関係にあり、隣国ザイール(現・コンゴ民主共和国)での内戦に際しては体制派への支援を表明し、東側諸国からの支援を受けていたコンゴ解放民族戦線と敵対したこともある。


この間、アフリカ統一機構の議長を務めながらも、エールフランス機ハイジャック事件での失策により国際的な評価をさらに低下させていたアミンは、1978年のタンザニア侵攻の失敗(ウガンダ・タンザニア戦争)により逆にタンザニア軍による首都侵攻という事態をも招き、翌1979年に失脚。

その後はリビアを経てサウジアラビアへと亡命し、幾度か帰国を試みようとするも叶わず、亡命から四半世紀近くを経た2003年8月16日に同国西部のジッダにて死去した。


人物

前述した恐怖政治ゆえに、黒いヒトラーの悪名で知られており、「部下に上司を撃たせた」「妻を切り刻んだ」「住人の死体をペットのワニに食わせた」など、真偽が定かでないものも含めて様々な血腥い逸話が残されている。最初の夫人も、かつては家事を手伝うような慈悲深い夫が、大統領になってから人が変わってしまったと後に証言している。

一方で、ユーモア精神の持ち主であったとも伝わっており、アフリカ統一機構の首脳会議においても数々のジョークを繰り出し、対立関係にあったジュリウス・ニエレレ(タンザニアの初代大統領)もこの時、握手を求めてきたアミンの手を思わず握り返してしまったという。


1979年1月には、「アントニオ猪木VS食人大統領イディ・アミン」という異色なレスリングも企画されたことがある。アミンの側もこの企画を承諾し、さらにモハメド・アリが特別レフェリーとして招かれるなど具体的に話も進んでいたものの、折しもこの当時は前述のタンザニアによる反攻の真っ最中であり、結局反体制派のクーデターによってアミンが失脚・亡命したために実現には至らなかった。


関連タグ

ウガンダ 独裁者 大統領 黒いヒトラー


あみん ウガンダ・トラ:いずれもアミンに由来したネーミングの持ち主。前者については厳密にはさだまさしが自らの曲に出てくる喫茶店の名前に用い、そこからさだのファンであった岡村孝子がユニット名の由来とした、という経緯を持つ

ゴルゴ13さいとう・たかを作の劇画。1977年発表の一篇「独裁者の晩餐」において依頼者の側で登場している

ポル・ポトカンボジアの政治家の一人。こちらも独裁的な政治体制を敷き、国内における反対勢力の大量虐殺を行った末に、隣国との戦争に敗れ国を追われるなど、その生涯にはアミンと近似した部分も多々見られる

アドルフ・ヒトラー:同じく独裁者であり黒いヒトラーの名前の由来

関連記事

親記事

ウガンダ うがんだ

子記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 468

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました