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概要編集

ウガンダ共和国の政治家・軍人。

同国の第3代大統領であり、その独裁・恐怖政治から「黒いヒトラー」などの異名でも知られる。

正確な出生地・誕生日については不詳であるが、ウガンダがイギリスの統治下にあった1925年頃に首都のカンパラ、もしくは北西部のコボコで生まれたとする説が有力視されている。


人物編集

「部下に上司を撃たせた」「妻を切り刻んだ」「住人の死体をペットのワニに食わせた」など、真偽が定かでないものも含めて様々な血生臭い逸話が残されている

一方で、ユーモア精神の持ち主であったとも伝わっており、アフリカ統一機構の首脳会議においても数々のジョークを繰り出し、対立関係にあったジュリウス・ニエレレ(タンザニアの初代大統領)もこの時、握手を求めてきたアミンの手を思わず握り返してしまったという。

最初の夫人も、「かつては家事を手伝うような慈悲深い夫が、大統領になってから人が変わってしまった」と後に証言している。


アスリート編集

イギリス植民地軍に入隊していた時期には、ボクシングのヘビー級チャンピオンになったこともあり、

1979年1月には、「アントニオ猪木VS食人大統領イディ・アミン」という異種格闘戦も企画されたことがある。アミン側もこの企画を承諾し、さらにモハメド・アリが特別レフェリーとして招かれるなど具体的に話も進んでいたものの、折しもこの当時はタンザニアによる反攻の真っ最中であり、結局反体制派のクーデターによってアミンが失脚・亡命したために実現には至らなかった。


略歴編集

ウガンダが独立国家となった後、軍の参謀総長を務めていた1971年にクーデターで政権を掌握。当初はアフリカにおける右派政権として、西側諸国からの支援を受けていたアミンであるが、その後の彼の政策は独裁色の濃いものへと変化、当時国内の経済を握っていたインド系の住民を中心としたアジア人の国外追放や、政策に反発する国民の大量虐殺(推計で10万から50万人に登るとされる)などといった恐怖政治により、社会混乱と国家経済の破綻を引き起こした。

こうした独裁政治への批判から、アミンはそれまでの西側諸国寄りの姿勢から、一転して反欧米的な姿勢を見せるようになるが、一方では武器供与を受けていたソ連などの東側諸国とも微妙な関係にあり、隣国ザイール(現・コンゴ民主共和国)での内戦に際しては体制派への支援を表明し、東側諸国からの支援を受けていたコンゴ解放民族戦線と敵対したこともある。


この間、アフリカ統一機構の議長を務めながらも、エールフランス機ハイジャック事件での失策により国際的な評価をさらに低下させていたアミンは、1978年のタンザニア侵攻の失敗(ウガンダ・タンザニア戦争)により逆にタンザニア軍による首都侵攻という事態をも招き、翌1979年に失脚。

その後はリビアを経てサウジアラビアへと亡命し、幾度か帰国を試みようとするも叶わず、亡命から四半世紀近くを経た2003年8月16日に同国西部のジッダにて死去した。


関連タグ編集

ウガンダ 独裁者 大統領 黒いヒトラー


あみん:厳密にはさだまさしが自らの曲に出てくる喫茶店の名前に用い、そこからさだのファンであった岡村孝子がユニット名の由来とした、という経緯を持つ

ウガンダ・トラ:アミンに由来したネーミング

ゴルゴ13:1977年発表の一篇「独裁者の晩餐」において依頼者の側で登場している

ポル・ポトカンボジアの政治家。こちらも独裁的な政治体制を敷き、国内における反対勢力の大量虐殺を行った末に、隣国との戦争に敗れ国を追われるなど、その生涯にはアミンと近似した部分も多々見られる

アドルフ・ヒトラー:同じく独裁者であり異名の由来

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