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概要編集

イギリス競走馬種牡馬

1918年のイギリス三冠馬で、種牡馬としても成功した。


プロフィール編集

性別
毛色鹿毛
バヤルド
ローズドロップ母父セントフラスキン
生産者ジェームズ・ダグラス夫人(イギリス)
馬主ジェームズ・ダグラス夫人
調教師カレッジ・リーダーイギリス)→ アレック・テイラー(イギリス)
競走成績9戦6勝

略歴編集

1915年

1月24日、ニューベリー競馬場バークシャー州)近くにあった、ダグラス夫人所有のハーウッドスタッドで生まれた。

ダグラス夫人の旧姓はヘネシーで、コニャック「ヘネシー」で財を成したフレデリック・ヘネシーの娘であり、クイーンズベリー公爵の子息ジェームズ・エドワード・ショルト・ダグラスと結婚したが、ダグラス卿が1891年に自殺し、未亡人となっていた。


父のバヤルドは現役時代25戦22勝。種牡馬としてはイギリス三冠馬を2頭輩出した。

母のローズドロップはオークスステークスなどを勝った活躍馬で、ゲインズバラを妊娠した状態でダグラス夫人に購入された。

母父のセントフラスキンはセントサイモン産駒で最初に牡馬クラシックを勝った。


非常に小柄な馬であった。

たまたま「ゲインズバラ」という地名を目にしたダグラス夫人が語感を気に入ったため、ゲインズバラと名付けられた。


1916年

9月、ニューマーケットで開催されたセリ市に出品されたが最低落札価格2000ギニーに対し1800ギニーの値段しかつかなかったため主取りとなった。

カレッジ・リーダー調教師に預けられたが、リーダー師が第一次世界大戦徴兵されたため、アレック・テイラー調教師が管理することになった。


1917年

他の競馬場が軍事用に接収されていたため競馬の開催はニューマーケット競馬場のみであった。

7月、サーロウプレートでデビュー。ジャイアントキラーの4着に敗れた。

8月、ラムゼイプレートに出走し、ヴァイオリニストの3着に敗れた。

9月11日、オータムステークスに出走し1着。初勝利を挙げた。


1918年

4月、セヴェラルズステークスに出走しシキオンの5着に敗れた。

5月1日、2000ギニーステークスに出走し1着。

6月4日、ニューダービー(戦時中のためニューマーケット競馬場で代替開催されたダービーステークス)に出走し1着。

6月18日、ニューマーケットゴールドカップ(戦時中のためニューマーケット競馬場で代替開催されたゴールドカップ)に出走し1着。

9月11日、セプテンバーステークス(戦時中のためニューマーケット競馬場で代替開催されたセントレジャーステークス)に出走し1着。

11月2日、ジョッキークラブステークスに出走しプリンスシメイの2着に敗れた。


1919年

レースに出走することなく過ごした。


1920年

現役を引退し、オールドダルビーホールスタッドで種牡馬となる。

ゲインズバラは戦時中の三冠馬としてはゲイクルセイダーより格落ちするという評価だったが、種牡馬成績は安定して上位だった。


1931年

イギリスのリーディングブルードメアサイアーとなる。


1932年

イギリスのリーディングサイアーとなる。


1933年

イギリスのリーディングサイアーとなる。


1940年

ダグラス夫人が健康を害し「生涯ハーウッドスタッドで快適に過ごさせる」ことを条件にゲインズバラをハーバート・ブラグレイヴに売却。


1941年

ダグラス夫人が死去。

ハーウッドスタッドはゲインズバラを記念してゲインズバラスタッドと改名された。


1945年

6月5日、老衰のため死亡(30歳)。


1981年

シェイク・マクトゥーム殿下アラブ首長国連邦)がゲインズバラスタッドを購入してイギリスでの馬産の本拠地とし、ラムタラファンタスティックライトなどを生産。


主な産駒編集

ハイペリオン ソラリオ シンガポール オーウェル トウルヌソル レイモンド


関連タグ編集

1918世代 競走馬 種牡馬

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