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概要

1940年10月9日~2023年3月13日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークブルックリン出身。

幼少期は伯母夫妻に育てられた後に親元に戻されると父親から激しい虐待を受けた。9歳の頃から叔父から視察に来たスカウトが止めるほどの激しい体罰を交えたスパルタ指導を受けた。成長してからは非行に走り、幼少期に体罰を加えた叔父への仕返しとして灰皿で殴って半殺しにした。高校生になる頃には街で喧嘩や敵対不良グループとの抗争に明け暮れた。

1962年にニューヨーク・ヤンキースへ入団しプロ入り。2年目にレギュラー入りを果たすとクリーンアップを任されるようになり、また一塁手としてゴールドグラブ賞も3回受賞している。

が、1967年以降成績が低下、自身の元からの素行不良も重なりヒューストン・アストロズシカゴ・カブスアトランタ・ブレーブス…と所属球団を転々とした。

MLBの選手としては初めてドライヤーを持ち込むほど長髪にこだわりを持っており、薄毛が目立ち始めるとカツラを着用するようになるが、一塁へ走る時にカツラが飛んで行ってしまい取りに行こうと戻ってアウトになると言う逸話も残されている。

1973年シーズン途中、当時打線が低迷していたヤクルトアトムズとの契約に合意し入団。大物メジャーリーガーの日本球界入りで野球ファンは熱狂した。

初出場した試合で決勝打を打つなどの活躍し、ヤクルト球団は同年6月30日を「ペピトーンデー」として女性・子供ファンが無料入場できるようにした。が、素行不良は相変わらずでダブルヘッダー第2試合で欠場。9月には治療名目で無断帰国してしまう。

2年契約のため1974年シーズンのプレーも予定されていたが、オープン戦に入っても期限までに連絡がなく来日せず3月に解雇となった。NPBでは14試合のみの出場でホームラン1本にとどまった。

殺し以外なら何でもやったNPB史上最低最悪な助っ人

成績面もさることながらとにかく素行に問題があった。

  • 欠場理由が「日本のマンションの玄関が小さすぎて頭ぶつけた」。三原脩監督はこの時は「一日も早く日本の鴨居の高さに慣れてもらうしかない」と寛容な態度を見せていたのだが……。
  • 来れば来たで「スパイク忘れた」。
  • 離婚調停のために無断帰国。本人曰く「2週間で戻って来る」とのことだったが、結局その2週間を過ぎても戻って来ず、約1ヶ月後に再来日。
  • 「来日の遅れを取り戻すために練習しすぎて手にマメが出来た」と苦しい言い訳で練習をサボる。
  • アキレス腱が痛い」と言いつつ赤坂のクラブで遊んでいる所を目撃される。
  • 元同僚のクリート・ボイヤー(のちに横浜大洋ホエールズに所属、こっちは優良外人)との電話代を請求。
  • 2年目に「犬の空輸代金をくれ」。これがきっかけで契約解除となる。
  • ニューヨーク・タイムズのインタビューで日本について「物価が高い」(アメリカでは安いマクドナルドのハンバーガーが1個5ドルにもなる、マンションの家賃が2000ドルもする等の発言)「言葉が通じない」(英語の喋れる人間はいなくて、タクシーに乗っても行く先を理解させるのは一苦労。)などと盛大にディスる。

これを聞いた太平洋クラブライオンズ企画部長のマーティー・キーナートは「奴はアメリカ人の面汚しだ」と激怒。反論文をMLB24球団に送る自体に。

…で、帰国後も素行の悪さがアメリカ国中にばれて事実上のプロ生活引退へ追い込まれた。以降も薬物、拳銃不法所持、婦女暴行、飲酒運転などで警察に捕まっている。

晩年には、野球殿堂博物館に展示されているミッキー・マントルが500号本塁打を打った時のバットの所有権を巡って裁判を起こしたが殿堂側から「ヤンキースから寄贈されたものである」として棄却されている。

ヤクルト契約解除当時の日本の野球ファンは、ペピトーンのことをダメ男の代名詞として笑いの種にしていたほどであった。

また、彼1人のせいで「大物メジャーリーガーをNPBから排除しよう」というガチな国際問題が発生。結局、MLB側から「赤鬼」ことチャーリー・マニエル氏をヤクルト球団へ譲渡してもらえることになり、超優良助っ人として彼はヤクルトの初優勝初日本一に大きく貢献した(まあ、こっちのイメージのが強いのかもしれんが)。

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メル・ホール こっちもメジャーリーグで鳴らしたが素行面に問題が多く、そして帰国後逮捕されたつながり。彼のかつての同僚は好人物として名高いのに……。

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ジョー・ペピトーン
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