プロフィール
品種 | アングロアラブ |
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アラブ血量 | 25% |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
誕生日 | 1954年3月28日 |
死没日 | 1977年4月28日 |
父 | ライジングフレーム |
母 | 弟猛 |
母の父 | レイモンド |
5代内のインブリード | Neil Gow5×5 / Sunstar5×5 |
産地 | 北海道浦河町 |
管理調教師 | 稲葉秀男 |
生産者 | 日高種畜牧場 |
馬主 | 河野通 |
全弟にシュンエイがいる。
経歴
1956年7月、福島で開催されたアラブ系オープンでデビューするも2着に終わる。1週間後の同条件のレースで勝ち上がると秋開催になった4戦目からは敵なし状態となる。
4歳4月のアラブ4歳ステークスで斤量66kgを背負って勝利したが、この時既に15連勝。次走のアラブステークスでは斤量が更に増えた68kgとなったことと大幅な出遅れが重なって2着。しかし春の読売カップでは2着に7馬身差をつける圧勝を収め、アングロアラブとの勝負は済んだと考えた陣営はサラブレッド相手に挑戦することを決める。
対サラブレッド戦の第1戦となった七夕賞で勝利を収めると、次走の福島記念は3頭立ての1着。続く2戦は黒星となるも、皐月賞馬のヘキラクに先着するなどその実力は決して見劣りするものではなかった。
セントライト記念ではこの年の日本ダービーで3着となったギンヨク、後の菊花賞馬であるラプソデー、後に春・秋の天皇賞を制することになるセルローズらを破って1着。サラブレッド重賞を制覇した。
中央競馬に登録されたアングロアラブの馬がサラブレッド系重賞に勝利したのは彼だけで、アラブの怪物とも称された。
年末の有馬記念にはファン投票で3位に入った事で出走可能となったが、秋の読売カップ出走を選んで有馬記念出走を見送り。その読売カップではレコードタイムで優勝している。
5歳時はサラブレッドのオープンクラスを戦い、天皇賞・秋の7着を最後に引退し、種牡馬入りした。
種牡馬として
種牡馬としてはアラブ種の血量が下限の25%であるためにサラブレッドの繁殖牝馬をつけてアングロアラブを生産することは出来なかったが(※)、アングロアラブ系の種牡馬として人気を集め、供用2年目には年間100頭を超える牝馬の相手をしている。1966年には1年間の種付け頭数の世界記録である238頭を樹立するなどし、名前をもじって「性雄」の異名が付けられる程であった。(後に種付頭数の記録は同じアングロアラブであるタガミホマレに更新される。)
しかし種付け頭数があまりにも多すぎたために一部からは
競走馬の生産で禁じられている人工授精を行っているのでは?
という疑念を持たれ、血統管理団体の担当者や国の役人までもが種付けの監視にやってくるという事態に発展する。
ところが、セイユウはこれらの監視の前で連日4頭の牝馬への種付けを涼しい顔でこなし、監視に来た人々は感心するばかりだったとか。
1977年4月28日、毎朝の運動を終えて厩舎に帰ってきた矢先に心臓麻痺を起こし、24歳でこの世を去った。
(※):日本の競走馬でアングロアラブと認められるにはアラブ種の血量が25%以上であることが求められ、アラブ種の血量が25%に満たない場合はサラブレッド系種になる。