概要
1867年、ジュール・ペリンの木工会社にルイ・フランソワ・ルネ・パナールが入社。パナールはペリンの信用を得、社名がペリン・パナールとなった。
1873年、エミール・ルヴァッソールが入社し、ペリンが引退したため社名がパナール・エ・ルヴァッソールとなった。パナール・エ・ルヴァッソール社は機械工作分野に進出し、ミシンなどを生産した。
1890年、ダイムラーのガソリンエンジンのフランスでのライセンス生産の権利を得た。さらにはフランス初のガソリン自動車開発に成功し、プジョーにもエンジンを供給する。
翌年には世界で初めてフロント・エンジン、リア・ドライブ方式(FR)の自動車の開発・実用化に成功。それまでの自動車は全てリアにエンジンを配置していた。
さらにはトランスミッション(マニュアル・ミッション)の実用化、フロントラジエーターや丸形ステアリングホイール(ハンドル)の採用を行った。これらは現代の自動車では当たり前のものとなっており、パナールの先見性が窺える。
1895年のパリ・ボルドーレースでは、ルヴァッソールの運転で優勝した。
1897年、ルヴァッソールが死去。以降、保守的な高級車中心のメーカーに成り下がる。
第二次世界大戦後は高級車の需要が大幅に減ってしまっい、小型車メーカーに転身した。しかし、生産規模が小さいままだったため、その分製造コストは高騰してしまった。結果、プリウスの価格でヴィッツを売るような有様となり、経営は悪化した。
1955年にシトロエンの傘下に入る一方、意欲的な新型車を送り込んでいった。だがデザインや機構があまりに個性的故に一般には受けず、一部の強烈なマニアを引きつけるに留まったがゆえに、業績は回復しなかった。
1965年、乗用車部門がシトロエンに吸収され軍用車専門メーカーとなる。
1967年、シトロエンがパナール・ブランドの乗用車の生産を打ち切った。
2005年、PSAグループはパナールをオーヴェルラン(オーバーランド)に売却。
2012年、ルノートラックに売却される。
こちら葛飾区亀有公園前派出所
絵崎コロ助が買った車として登場。
フランスのディーラーに勧められ200万フラン(当時のレートで4000万円前後)で買い、日本へ空輸するが、ボディは同社のPL17であるもののエンジンはワーゲン、メーターパネルはフィアット、ウインカーはアウディ、ライトはイギリスのマーシャルのパーツを使い、タイヤはヨコハマ&ブリヂストン&グッドイヤー&ピレリーといったポンコツであった。車はそのまま絵崎のへたくそな運転で隅田川にダイブした。