略歴
1977年、13歳でカリフォルニア大学バークレー校に入学するも、1982年の17歳のときにAtariに誘われて入社することになり中退する。
そのアーケード部門で『ミリピード』や『メジャーハボック』といったアーケードゲーム開発に携わり、1984年にはデザイナー兼プログラマーとして『マーブルマッドネス』を開発しヒットさせる。
1985年にセガへ入社。1990年まで日本で過ごし、そこで結婚もしている。
アメリカへ戻ると、セガアメリカにて『ソニック・ザ・ヘッジホッグ2』などの家庭用ゲーム開発に携わる。
1992年にセガを退社し、設立間もないクリスタル・ダイナミクス社に入社し、3DOのゲーム開発に携わる。また、日本へ出向いてソニーと交渉し、アメリカ人で初めてPlayStationの開発ツールを入手する。
1994年、ユニバーサルインタラクティブスタジオ(後のヴィヴェンディ・ゲームズ)を設立し副社長(後に社長)となる。そこで『クラッシュバンディクー』シリーズを製作・プロデュースする。
1998年、ユニバーサルの財政問題もあって退社し、自身の会社「サーニーゲームズ」を設立。1999年、ソニーが開発中だったPlayStation2のグラフィックエンジンの開発に携わり、以降もソニーの次世代機開発に関与していく。
2002年、『ラチェット&クランク』の開発にコンサルタントとして関与。この頃、ゲーム開発に於いて「すべきことと、すべきでないこと」を提唱する「サーニー・メソッド」を生み出す。