概要
モロクの名はヘブライ語で“王(mlk,מלך)”という意味の言葉で、本来は“バアル(主)”のように特定の神を示す言葉ではないが、アモン人に信仰された神と言われる。その儀式では人身供犠、王権を持つ者の初子(長子)を贄に捧げる行為が伴い、エルサレム近郊のゲヘナ(ヒンノムの谷)、トペテで行われたとされるその儀式では、太鼓等の楽器が打ち鳴らされる中で子供が炎の中に投げ込まれ、生贄の叫び声はその騒音でかき消されたといわれる。
「旧約聖書」では憎むべき異教神として何度も言及され、
・自分の子をモロク神に捧げる者は、必ず死刑に処される 『レビ記』第20章
・王(ヨシュア)はヒンノムの谷にあるトペテを汚し、誰もモロクの為に自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした 『烈王記 下』第23章
というように、モロク神に関わる事物を弾圧する文や、
・(ソロモン王は)アモン人の憎むべき神モロクの為にも東の山に聖なる高台を築いた。 『列王紀 上』第11章
・(淫らな男女に対して)お前は油を携えてモロク神の下に足を運び多くの香料を捧げた。 『イザヤ書』第57章
など、モロクにまつわるものをユダヤの神に対する背信、許されざる行為としている。
以上の記述から、イスラエル人からモロクは徹底的に忌み嫌われた邪神であり、モロクの祭儀を行ったゲヘナ(Gehennna)と霊地トペテ(Tophet)はいずれも地獄と同義の言葉として扱われている。
悪魔としてのモロク
ジョン・ミルトンの「失楽園」には、聖書の異教神が堕天使として数多く言及されており、その中にもモロクの名は登場している。その紹介文は“人身御供の血にまみれ、親たちの流した涙を全身に浴びた恐るべき王”、“天において戦った天使のうち最も強く、最も獰猛な者”と険呑なもので、万魔殿における会議では主戦派の筆頭として弁を振るっている。
そして、コラン・ド・プランシーの「地獄の辞典」のモロクは、玉座に座す王冠をかぶった牛という王権を戯画化した挿絵で描かれている。モロクは涙の国の君主であり、生贄の人間を受け取る為にその腕は長く、アモン人が祀ったモロク象の内部には、七つの戸棚が作られていて、一つには小麦粉、二つにはキジバト、三つ目は牡羊、四つ目は牡山羊、五つ目は子牛、六つ目は雄牛、そして七つめは子供を入れるためのものであったと紹介し、またミトラ神と同一視している。
特にフランスの小説家ギュスターヴ・フローベールは著作「サランボー」の中で、モロクの祭司が儀式の中で狂乱して自傷する姿、凄惨な幼児供犠の場面を書きあげ、悪魔、邪神としてのモロクのイメージを加速させたとされる
バアル・ハモン
異教神や悪魔としてのモロクを紹介したが、1921年オットー・アイスフェルトのカルタゴの発掘調査で、「モロクは儀式の名称を意味する」という説が発表されている。発掘場所はサランボーの影響から“トペテ”と呼ばれるポエニ人が聖域とした土地で、幼児を抱いた男が描かれたオベリスクとおびただしい数の幼児の骨が発見されたことから、同地は人身供犠を捧げた場所であるとされた。
カルタゴの人々が崇める主神バアル・ハモンと豊穣の女神タニトいう神がおり、調査結果から幼児供犠を求める存在だとみなされるようになった。
バアル・ハモンは紀元前9世紀の記録に名が残されており、紀元前の歴史家シケリアのディオドロスによって、カルタゴ人が多くの人身供犠を捧げて戦勝を祈った神、あたかも聖書のモロクのような存在として語った存在であり、中世にはモロクと同一視する説があった。
また、カルタゴと対立していた頃のローマによるバアル・ハモンの悪宣伝が、後世の悪魔学において「バアル=悪魔」の図式を強めたという説もある。
しかし、見つかった幼児の遺骨が生前または死亡後焼かれたものかが判明しないことから、生贄の儀式などそもそも存在しないという説、幼くして死んだ子供をバアル・ハモン等の神の下に送る為の火葬であるという反対意見も唱えられている。
どちらにせよ、この儀式について当事者たる古代カルタゴによる言明がないので、最終的な結論はでないであろう。
…ただし英語版wikipediaによれば、上記の遺跡“トペテ”からは『幼児と動物の焼骨が一緒に収められた骨壺』が多数発見されているという…
転じて…
転じてオーストラリア大陸に生息するトカゲを指すようになった。全身のトゲトゲがモロクを思わせる為なんだとか。このトゲトゲした体表は乾燥したオーストラリアの環境で生き抜くために進化したもので、毛細管現象の原理を応用して水を無駄にしないための物で、主に虫を食べて生活している。同じくトゲトゲしたヨロイトカゲとはまた別の種類に属する。