概要
現在の飯田線の前身となる路線は1923年2月までに豊川鉄道・鳳来寺鉄道が豊橋駅~三河川合駅間、1927年12月までに伊那電気鉄道が天竜峡駅~辰野駅間を開業させており、両社の路線を接続するために1927年に発足した。
3社のほか大手電力会社の東邦電力と天竜川電力(後の矢作水力)も加わり、取締役社長には豊川鉄道の取締役会長を務めた東京海上の末延道成が就任した。
1929年に工事が着工されたが、急峻な地形のため難工事が連続し、世界恐慌の影響で資金難に陥り工事延長を繰り返した。
1932年10月に天竜峡駅~門島駅間、1933年12月に三河川合駅~三輪村駅間が開業。1934年11月に三信三輪駅(1934年4月に三輪村駅から改称)~佐久間駅間、1935年11月に門島駅~温田駅間が開業し順次延伸を重ねていった。
天竜川に国内エネルギー資源開発をもくろんだ電力会社2社は資材・人員運搬のため路線建設を急いだが、中央構造線の真上にあたる脆い地層と天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。
工事に動員された朝鮮人労働者は賃金の不払いと犠牲者が続出する過酷な環境に耐えかねて工事現場から脱走し沿線の農村に逃げ込む者もあった。
とうとう1931年に工事は中断されたが、三菱銀行から多額の融資が得られたこと、飛島組の熊谷三太郎が自ら工費を立て替えて工事に尽力するなどして工事は再開。アイヌ人技術者川村カ子トが率いるアイヌ人測量隊の活躍もあって1937年8月に大嵐駅~小和田駅間が開通した。
この難工事の実績から熊谷三太郎は1938年に熊谷組を発足。準大手ゼネコンへと発展させていった。
しかし鉄道史に残る凄惨な工事の果てに完成した路線も巨額な建設費を回収するべく運賃が高額となってしまったことから需要が伸びず、経営は好転しなかった。
1943年8月に路線が鉄道省飯田線として国有化。「三信航空機器株式会社」として航空機器製作を行う会社として存続した。
1941年には筆頭株主だった電力会社2社の株式が日本発送電に継承されたため、同社子会社の発送電興業株式会社の傘下に入っていた。
1945年7月に解散して清算を開始。同年10月に三信興業株式会社に改称して清算業務を続け、1950年に清算を完了した。
保有車両
電気機関車
身延線の前身にあたる富士身延鉄道が保有していた200形電気機関車1両を譲り受け、デキ501形として運用していた。
1927年川崎造船所製の箱型電気機関車で、当時は造船所譲りの丸窓が多かった川造製電気機関車では珍しい四角形の窓が特徴。
富士身延鉄道の同型車は国有化後はED20に改称されたが、本車は何故かED20に編入されず原番号のまま使用された。
戦後は長らく休車状態にあり、1948年に鳳電車区に移動したが本線に復帰することなく1949年に廃車となった。
電車
2形式9両を保有していた。全車両が鉄道省払い下げの木造車がベースとなっている。
- デニ201形
1936年と1939年に各1両が製造された電車。
デニ201は日本車輌製で鉄道省モハ1022を鋼体化したもの。デニ202は木南車輌製造製で書類上は新造車となっているがメーカー手持ちのモハ1形の台枠と電装品を流用している。
形式名の通り三等荷物合造車で、客室側はボックスシート。客室の荷物室寄りに便所を設けていた。
豊川鉄道モハユニ201形の改造後は飯田線系統4社唯一の荷物車として活躍したが、デニ201は1942年に事故廃車、デニ202は1951年に三河川合駅~池場駅間で鶴見臨港鉄道モハ313、伊那電気鉄道サハフ311とともに火災事故で焼失した。
書類上は70系モハ70801の改造種車となっている。
- デ301形
鉄道省モハ1形をベースとした電車。8両が在籍したが3グループに分けられる。
形式名は「デ」だったが現車表記は「デハ」だった。
デハ301-303の3両は1936年に日本車輌で鋼体化された車両。2扉ボックスシートで後位側に便所を設けていた。当初はデ100形を名乗った。
種車はデハ101・102はモニ3形3009・3010、デハ103はモハ1020(1934年入線時にはデ3)。
デハ304・305の2両はデハ103→デハ303同様に自社所有車を鋼体化したものだが、こちらは木南車輌製造で鋼体化された。
種車はデハ304がデユ1(鉄道省モハ1058)、デハ305がデ1(鉄道省モハ1023)。デハ304落成時にデハ100形3両が改番されたとされる。
国有化後は1951年から1952年にかけて更新修繕が実施され、片運転台化と貫通扉・幌の新設、電装解除が行われクデハ301形と改称された。塗装もベージュと臙脂色のツートンカラーに塗り替えられた。
1953年の車両称号規定改正でクハ5800形となり、1959年までに全車廃車となった。
このうちクハ5800・クハ5801は小湊鉄道に譲渡され、DMH17C形ディーゼルエンジンを搭載されキハ5800へと改称。キハ5801は1978年に廃車となったがキハ5800は予備車として1997年まで在籍。除籍後はエンジンを外され五井機関区内に保管されている。
クハ5802は伊豆箱根鉄道に譲渡され同社モハ47に、クハ5803・5804は大井川鉄道に譲渡され同社クハ503・506となった。
残る3両は木製車体のまま両運転台化され1938年に入線した。3扉ロングシートで1911年汽車製造製。
旧番号はそれぞれモハ1033・1035・1036。
国有化後も飯田線南部で使用されていたが、デハ306は1945年2月に三河槇原駅~三河川合駅間で落石に乗り上げて伊那電気鉄道サハユニフ100と共に宇連川に転落、廃車となった。
残る2両は1952年に大井川鉄道に譲渡され同社モハ301・302となった。
いずれも1970年に名古屋鉄道3800系に置換えられる形で廃車となったが、モハ301は廃車後も千頭駅構内で保存された。
1997年にJR東海に譲渡され、発足10周年記念事業として名古屋工場で昭和初期の姿に復元。伊那松島運輸区での保管を経てリニア・鉄道館に保存されている。