概要
小説『真田十勇士』に登場する、出羽国亀田出身の架空の武人。名前は「伊佐入道」とも。
その名の通り入道(坊主)姿の豪傑であり、兄・三好清海入道とともに真田昌幸・幸村親子に仕え、薙刀を武器に上田城籠城戦や大阪の陣で活躍した。
モデル
モデルとされたのは実在の戦国武将である三好為三。その兄である三好宗渭(政勝)も前出の三好清海入道のモデルとされている。ただし、十勇士以前に刊行されていた『真田三代記』では兄である宗渭の経歴も混同されている。
天文5年(1536年)生まれとされる為三は、兄の宗渭と共に細川氏や三好宗家に仕えており、永禄年間の末期に足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると、以降しばらくの間反信長戦線の一翼を担っていた。その後信長に降伏したものの、元亀年間に発生した三好義継・松永久秀と細川昭元間の抗争では、前者の側に属して信長の庇護下にあった昭元と交戦、これ以降およそ20年の間歴史の表舞台から姿を消す事となる。
次に為三が史料上に現れるのは文禄の役の事で、名護屋城の本丸番衆の一人として為三の名が確認できる。そして豊臣秀吉薨去後、為三は真田氏・・・ではなく徳川家康に仕えるようになり、関ヶ原の戦いでも徳川秀忠率いる徳川の本軍に属し、上田城攻めに参加している。事実は小説よりも奇なりとはこの事か。
戦後は旗本として河内に所領を与えられ、大坂の陣でも案内役としての功績を認められ鷹狩の許可と茶器を与えられたという(※)。晩年は秀忠の御伽衆となり寛永8年(1632年)、96歳の時に大往生を遂げた。
為三の家系はその後も旗本として存続しているが、著名な子孫の一人として小説家・劇作家の三島由紀夫が挙げられる(三島の曽祖父である永井尚忠(岩之丞)が旗本三好家の出身)。
(※ ただし、大坂の陣で功があった「三好因幡守」は為三本人ではなく、その息子である可正を指すとする見解も存在する)