中島治康
なかじまはるやす
1909年6月28日―1987年4月21日
長野県松本市出身。旧制松本商業学校(現松商学園高等学校)時代はエースで4番打者として鳴らし、1928年の第14回全国中等学校優勝野球大会で優勝を果たしている。
その後早稲田大学、藤倉電線株式会社(現株式会社フジクラ)を経て1934年に大日本東京野球倶楽部に所属、東京巨人軍の創設メンバーの一人となる。
1936年より公式戦が始まると、ライトのレギュラーとしてクリーンナップを打ち、7月15日に球団史上第1号のホームランを放つ。
1937年から4番を打つようになり、本塁打王(春季)と打点王(秋季)を獲得。
そして1938年の秋季リーグで、38試合で打率.361、10本塁打、38打点の記録を上げ、首位打者・本塁打王・打点王の打撃三冠を獲得、日本プロ野球史上初の三冠王となった。また同年の春夏の通算成績でも打率.353、11本塁打、63打点でトップの成績を残している。
因みに当時は「三冠王」という言葉はなく、約30年後の1965年に野村克也が戦後初の三冠王となったときに中島の記録をどのように取り扱うか議論となったが、内村祐之コミッショナーの裁定により中島が初の三冠王であると正式に認められることとなった。
その後も打点王を2回獲得する傍ら、1943年に選手兼任監督に就任し巨人の5連覇に貢献するも翌44年応召により退団を余儀なくされた。同年末に戦局悪化によりプロ野球の休止が決定されたが、それまでに放った通算44本塁打は戦前のプロ野球史上最多となった。
戦後の1946年に選手兼任監督として巨人に復帰、49年まで監督を務めた後1950年に創設されたばかりの大洋ホエールズへ移籍。51年から三度選手兼任監督となるが、チームの成績不振の責任を取り6月末で監督を辞任、選手としても同年末に引退した。
引退後は読売新聞の運動部記者として健筆を振るったり、巨人OBの最重鎮の一人として巨人OB会の会長に就いたりした。
「次の打球を打つと決めたらどんな悪球でも打つ」という頑固さとそれらを打つパワーから、「時間割り」「ボールうちの名人」の異名を持つ。また守備の名手でもあり、現役通算20個のライトゴロを成立させた強肩を持つ。さらに走塁においても2桁盗塁を5度達成するなど打撃・守備・走塁の全てが高いレベルの選手であることがわかる。
実は1940年に日本プロ野球史上初のサイクル安打達成者となる可能性があったが、ヒットが出れば達成という場面で2塁打を放ったためにまぼろしで終わった(初のサイクルヒットは1948年に藤村富美男が達成)。
投手として伸び悩んでいた川上哲治を打者とするよう進言したり、明治神宮中等野球大会で目を付けた青田昇のスカウトを進言するなど人物眼にも長けていた。