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俺の白兎

おれのしろうさぎ

俺の白兎とは、大河ドラマ『どうする家康』に登場する名言(迷言?)の一つ。
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概要編集

本作の第1回「どうする桶狭間」最終盤にて、登場人物の一人である織田信長から飛び出した名セリフである。

主人公である松平元康(後の徳川家康)との、それまでの只ならぬ関係性を示唆するかのようなものであることに加え、(発したのが息せき駆けてく真っ只中であったとはいえ)演ずる岡田准一の言い回しのウェットさゆえに、視聴者にも只ならぬインパクトを与え「乙女ゲー大河」という新境地を開拓することになったのである(※)。


(※ 一応、乙女ゲー大河の元祖として『おんな城主直虎』(2017年)を挙げる声もない訳ではないことに留意されたい)


経緯編集

永禄3年5月19日(1560年6月19日)、尾張大高城にて兵糧輸送を完了したばかりの松平元康やその家臣らは、後から来るはずの今川義元率いる本隊が桶狭間にて潰滅、海道一の弓取りと謳われた義元も討たれたという、到底信じがたい報せに接する。

さらに、その義元を討った張本人である織田信長は、余勢を駆って元康達のいる大高城にまで迫ろうとしていた。手にした槍に義元の兜首をぶら下げ、大高城への道を馬でひた走る信長は馬上にて、


「待ってろよ、竹千代(元康の幼名)・・・俺の白兎・・・」


と、不敵な笑みを浮かべつつ嘯くと、義元の兜首を括り付けたまま槍を放り投げてみせる


その光景を目の当たりにした訳でもないのに、元康はかつて尾張に人質として囚われたみぎりに、信長やその取り巻きらに散々に痛め付けられた悲惨な記憶がフラッシュバック、遂には下知を待つ家臣らがいるにもかかわらず、


「ケダモノじゃぁ・・・」


と、織田軍の来襲にただ怯えるのみであった。


「俺の白兎」とは?編集

続く第2回「兎と狼」では、「俺の白兎」という台詞がどういった由縁によるものであるかが、まだ竹千代と呼ばれていた頃の元康の回想を交えながら描かれている。

今川と織田の抗争に絡み、その身柄を織田に引き渡される格好となった竹千代は、信長やその取り巻き連中らに相撲で散々にしごかれる日々を送っており、その手荒い扱いに「地獄じゃ・・・」と零す竹千代に対しても信長は「この世は地獄じゃ」と嘯いて憚らぬのであった。


とはいえ、一方で信長は竹千代の身柄と引き換えに松平を従属させようとして失敗し、見せしめにと竹千代を斬首に処そうとした父の織田信秀に対し「俺のおもちゃに勝手されては困る」「生かしておけば使い道もありましょうぞ」と、半ば強引に助命をかけ合ってみせたり、また前述の「この世は地獄じゃ」との言に続けて「周りは全て敵ぞ、弱ければ死ぬだけじゃ!」とも口にしており、信長達の組み合いもそうしたこの世という名の地獄を生き抜くためのものであり、竹千代に対する「かわいがり」も同然な仕打ちもまた、「地獄」を生き抜くための術を身に着けさせようとしている、と解釈できなくもない節がある。

果たして信長の狙い通り、地獄のような日々の中で鍛え上げられていった竹千代は、何時しか信長からの白兎呼ばわりに奮起して、彼を組み伏せるほどにまで成長しており、そんな竹千代に対し信長もまた、「その目だけは忘れるなよ」と満足げな様子を見せるのであった。

そしてここで培われた経験は、大草松平氏の軍勢に対してハッタリも同然な啖呵を切り、窮地を切り抜けたくだりなどのように、長じてからも元康の助けとなってもいるのである。


寅年寅の日寅の刻に産まれ、虎の如き猛将に育つよう母・於大の方から望まれた竹千代であるが、つまるところそんな竹千代の「虎」としての側面を引き出したのは、皮肉にもその竹千代こと元康から恐怖の対象と見られていた信長その人であったことが、以上の一連のくだりからも窺い知れよう。


備考編集

信長の出で立ちについて編集

このくだりにおいて、信長は南蛮風の衣装を着て出陣しているが、この当時の信長が異国との交易(南蛮貿易)を行っていたという明確な裏付けは確認されていない(信長とルイス・フロイスらが対面を果たしたのは、桶狭間の戦いからさらに10年近く後のことである)。一応、この当時の信長は熱田湊や津島湊といった海上交易の拠点を有しており、視聴者の中には南蛮風の衣装もここから入ってきたものではないか、と解釈する向きもある。


本作の家康について編集

この一連の件も含め、初回における描写の数々からはとにかく「ざんねんなキャラクター」として設定付けられたことが窺える。主だったところだけでも、

  • 目付役の石川数正に隠れて一人遊びをする→すぐにバレて怒られる
  • 外で一人遊びをしていたら瀬名にそれを見られるが二人で遊ぶようになる
  • 桶狭間で今川義元が討ち取られたことがわかると、混乱の挙げ句こっそりと逃げ出して本多忠勝に連れ戻される
  • その忠勝からはヘタレすぎる家康に呆れたのか、本人の前にもかかわらず「主君として認めない」とまで切って捨てられる
  • 最愛の正室である瀬名から「殿はお耳が弱い」と性癖をバラされ、母親である於大、家臣・忠次の妻である登与、側室であるお葉に知られてしまう。(於大に関しては、息子の性癖を聞いて「オエッ!」と吐き気を催す始末。)

【どうする家康】第10回『側室をどうする!』【大河ドラマ】

と、さんざんなダメ殿ぶりを披露しているのである。

他方で、今川氏真との瀬名を賭けての手合わせの際の一挙手一投足などから、今川義元は家康に才能の片鱗があることを見抜いていたような素振りを見せており、尾張侵攻に際しても自ら家康の陣中を訪れ、見舞いの品として金色の甲冑(金陀美塗黒糸威二枚胴具足)を贈ってもいる。

こうした義元からの厚遇のみならず、その「王道」を征かんとする姿勢・理念は、家康にとっては実の父同然の思慕・尊敬の念を抱かせるに十分なものであり、ここでも家康から恐怖の対象として看做されている信長との対比が強調された格好となっている。


寅年寅の日寅の刻・・・?編集

前述の通り、「三つの寅」にちなんでいることがこれでもかと強調されていた竹千代であるが、第2回のラストでは寅年ではなく実は卯年生まれであり、しかし於大の方は乱世を生き抜く強い男子に育つよう敢えて少し早く産まれたことにして、三つの寅が云々と言い張った・・・という盛大なオチが用意されていた。

これについては必ずしも根拠がない脚色とは言い難い部分もあり、慶長8年(1603年)の征夷大将軍任命の直後に出された家康の願文に、「六十一歳癸卯年」との記述が残されており、これを逆算すれば天文12年(1543年)、確かに卯年生まれとなるのである。一方でこれについては、家康側近の金地院崇伝が家康薨去の折に、享年75(逆算すると天文11年(1542年)の寅年生まれ)と明記しているなど、同時代の史料でも相違する記述が存在し未だ明快な答が出ていないことにも留意されたい。

また、本作に時代考証として参加している柴裕之は、東国において広く用いられていた「三島暦」と、朝廷の管理するいわゆる京暦(具注暦、七曜暦)との日数のズレという当時ならではの暦事情から、三島暦における天文11年壬寅12月26日が、京暦においては1ヶ月以上後の癸卯となり、この暦のズレこそが公式の記録と家康の自己認識の相違に繋がっているのではないか、という仮説を提唱している。この仮説についても、当時の三河で実際に三島暦が使われていたのか、また2つの暦のズレがどれだけの日数に及ぶのか、といった点を確定させる必要があり、今後のさらなる研究の進展が待たれるところである。


「俺の白兎」ボタン編集

そんなこんなで視聴者の話題を掻っ攫うこととなった「俺の白兎」であるが、2023年1月現在東京渋谷の「NHK プラスクロス SHIBUYA」にて期間限定で開催されている「大河ドラマ「どうする家康」展」(会期:2022年12月27日~2023年2月3日)において、この台詞を聞けるボタンが設置されている。


演者について編集

本作で信長を演じる岡田准一は、家康役の松本潤ジャニーズにおける先輩に留まらず、カリ、ジークンドーのインストラクター認定を持つ格闘技ガチ勢、そして実写版『ザ・ファブル』2作からも窺えるノースタントでアクションもできるアクション俳優としての側面を併せ持つことでも知られる。ファンミーティングでは義元の首を放り投げたのと同じ要領でサイン色紙が飛んでくる、というファンの面々からの証言(参考リンク)もあり、長くジャニーズを追いかけているファンの中には「家康にげて!その信長はやべえ!」と悲鳴をあげる人もいる。


関連タグ編集

どうする家康 織田信長


ボクちゃん:本作と脚本担当を同じくする『コンフィデンスマンJP』の登場人物の一人。強者に怯える姿が元康とあまりにもそっくりだったため、視聴者からも「似ている」といった声が相次いで上がっている

そして…編集

以下第26回「ぶらり富士遊覧」のネタバレを含みます





















家康「信長を殺す。わしは、天下を獲る。」

























【どうする家康】第26回『ぶらり富士遊覧』【大河ドラマ】信長の最期 〜どうする家康〜

築山殿事件で愛する妻と息子を一度に失った家康は狼に怯える白兎から本性を隠して狼を喰らわんとする狸に化けたのだった。


しかしこの決起もむなしく明智光秀が横やりを入れたような形で本能寺の変を起こしてしまい狼を喰らうことは一生できなくなってしまった。しかし以降白兎として可愛がられていた家康の姿は鳴りを潜め、かつて信長に啖呵を切った「寅の年、寅の日、寅の刻生まれの家康」であろうとし、続く豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いなどを経て歴戦の虎として戦乱の世を生き抜き、ついには天下統一を果たすのであった。



ど家まとめ【どうする家康】第48回『神の君へ』【大河ドラマ】

そして時は流れ、徳川幕府の誕生により天下泰平がなされたある日、於大の方がポロっと「本当は兎の年の産まれである」と家康の前でこぼしてしまう。この時まで自分が寅の年、寅の日、寅の刻生まれと信じていた家康は驚愕し、「いつから寅の年じゃないと知っていた?」と聞かれた際、つい「今、知りました…」とこぼすのであった…

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