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徳川家(どうする家康)

どうするいえやすでのとくがわけ

本記事では、大河ドラマ『どうする家康』の登場人物としての徳川家、およびその一族や家臣団について取り扱うものとする。
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概要編集

本記事は、親記事であるどうする家康より、登場人物のうち徳川家とその家臣団の記述を独立させたものである。作品としての詳細等については親記事を参照。


徳川家松平家編集

家康の六男・松平忠輝御三家義直頼宣頼房、及びその母である側室は登場せず。

どうする家康絵まとめ

本作の主人公にして江戸幕府初代将軍となり、応仁の乱から続く150年の戦乱に終止符を打ち、260年の太平の礎となった「神の君」。安祥松平家当主・松平広忠と於大の子。

当初から予告されていた通り弱虫な若武者として登場。普段から人形遊びを楽しみ、氏真との稽古では毎回負け、「いつまで経っても駄目だのう」と馬鹿にされていた。

その後の桶狭間の戦いでも義元が討ち取られたと知るやいなや衝動的に家臣を放って一人で逃げ出すなどの弱虫っぷりを見せている。妻の瀬名曰く「弱虫泣き虫鼻水垂れ、おまけにお腹も弱い」

そんな彼だが、第2回では松平昌久が自身の軍が保護されている寺に攻めてきた折には、過去の織田信長に「白兎」と馬鹿にされて「わしは兎ではない!寅なんじゃ!」と言い返して反撃したことを思い出し、立ち向かう強さを見せる。そして信長に認められた威圧感のある目付きで自ら昌久の前に立ち、「今川が氏真公の力で再興するのは明白!」「わしの首を取りたければ取るがよい!」と威圧、道を開けさせることに成功した。

…という威厳を見せはしたもののまだ成長途中。第3回では今川と織田の間で揺れ動く。

氏真は上杉政虎(のちの謙信)による関東出兵に対応すべく同盟相手の北条氏康に援軍を送っており、織田勢に攻められた松平勢の窮地を知りながらも援軍をなかなかよこさず、織田勢に寝返りざるを得なくなって今川にいる妻子も捨てなければならなくなった…という元康の状況を鑑みれば、(少なくとも現代の感覚なら)泣き叫びたくなるのも無理からぬことともいえる。

そんな中、第4回にて織田方に寝返った元康に対し、信長は両家の結びつきを強める一環として妹であるお市との婚姻を進めるも、あくまでも妻である瀬名への想いと、お市からの「欲しいものは力尽くで奪え」という発破に奮起。そして妻子を人質に取った今川氏真の脅迫を前に、遂に信長の下に着き今川を滅ぼして妻子を取り戻すことを信長の前で決意するに至る。

瀬名奪還計画に際しては本多正信や服部党の協力を得てこれを実行、1度目はお田鶴の密告を受けた鵜殿長照に阻止されるが、2度目は長照の守る上ノ郷城攻略にて彼の子である氏長・氏次兄弟を生け捕りにし、彼らと引き換えに妻子を取り戻すことに成功した。


以降は自身を「家康」と名乗り、三河領国を自身の「家」とするため三河統一に奔走する。が、「不入の権」を反故にして一向宗が治める寺から強引に年貢を取り立てたことにより一揆を起こされ、その鎮圧に大苦戦。更には夏目広次・渡辺守綱ら家臣の裏切りも相次ぎ、またしても窮地に追い込まれてしまう。

その後、今川義元の英霊との対話や鳥居忠吉からの助言を得て「わしについて来いとは言わん!主を選ぶのはお前たちじゃ! 好きな主を選ぶがよい!」「わしは…お前たちを信じる!!」「共をしたい者だけ付いて参れ!」と忠次達の前で覚悟を決めた宣言を行い、破竹の勢いで一揆を平定、一向宗との和睦を果たす。戦後処理では広次や守綱らの裏切りの罪を不問とし、軍師として一向宗に与していた本多正信に対しては彼からの痛烈な批判を真正面から受け入れ、三河からの追放令を出すに至った。


第10回にて側室としてお葉を娶り、彼女との間に女児を授かった。しかし、彼女から想い人がいることを暴露され、一度は憤慨するもその相手が同性の女中だったため、当初は困惑したが黙認することにした。


第11回では三河守叙任に際し姓を「徳川」に改めている。当初は「源氏の末裔」を自称することに乗り気ではなく、大樹寺にて世良田や得川といった源氏の血筋を引くことを示す系図が「見つかった」後も、叙任のために年三百貫を朝廷に献金することに渋い顔をしていた家康であったが、「官位を持つ者ならば金の使い方も変わってくる」「己の損得で金を使うか民の損得に金を使うか」との登譽上人からの言に、かつての義元からの「徳をもって治めるが王道」との教えに通ずるものを見出してか、最終的に叙任に踏み切るに至った。もっとも、そこまで散々に源氏の末裔であることが強調されながらも、実際には「徳川三河守藤原家康朝臣」と名乗る結果となったというオチもさりげなくつけられている。

その後、武田家と共同で行った今川領侵攻においては、瀬名の幼馴染であるお田鶴の方が城主を務める遠江の引間城(後の浜松城)を攻略。瀬名の願いも受けて彼女の助命に奔走したが、その死を止めることはできなかった。


第12回では順調に遠江の切り取りを進め、氏真が籠城する掛川城を攻略。当初は10日で攻め落とす算段だったが氏真の決死の抵抗により4ヶ月も経過、その事態に業を煮やした信玄が信濃・遠江の境に陣を張り、攻略を急かされる羽目になるが、氏真の妻・糸が使用した脱出路を使い氏真に肉薄。自害しようとする彼を止め、結果的に大恩ある今川家を裏切ることになったのを改めて謝罪。氏真と糸の北条家への亡命を後押しすることになった。

しかし、この一件が後に武田家との対立に発展する事になる。


第13回では京の都へ上洛を果たし、明智光秀足利義昭浅井長政と言った著名な人物たちと邂逅し、浅井家に嫁いだお市と再会とも再会している。


第14回では朝倉軍攻略のために金ヶ崎にて織田軍と共に駐留。浅井軍の合流を待つ中、長政が朝倉軍に寝返る事を危惧して信長に陣を移すべきだと進言するが、中々聞き入れてもらえずに「あほたわけ!」と叫んでしまう。その後、お市の侍女であった阿月が遠路遥々小谷城から危機を伝えに来た事で信長は金ヶ崎から退却を決め、家康は秀吉と共にしんがり役として信長の退却を援護する事になる。


第15回では浅井・朝倉連合軍を姉川で迎え撃ち、信長から一番槍を指示される。

その最中、長政から織田を裏切るよう密書が届く。戦場の位置から信長を挟撃出来る絶好の機会であったが、信長からの指示で監視を行っていた秀吉からの銃撃を受けたのと、この裏切りにより三河をはじめとした領国が桶狭間の時以上の混沌に晒される危険性があると警告され、浅井・朝倉連合への攻撃を開始する。

戦後、信長から「これからも判断を間違えるなよ」と釘を刺されながらも岡崎に帰還。信長からの指示で岡崎城を嫡男である信康に任せ、遠江の引間城(浜松城)へ本拠を移転する事になる。

当然今川やお田鶴を慕う領民達からは歓迎されておらず、裏切り者と陰で謗られる。


第16回では家臣団一同を集め、武田信玄からの最後通告を受けるか否かについて、自分の一存では決められないため家臣達の意見を受けることにしたが、何のかんのと言って彼らは家康について行くことを選択。かつて信長が桶狭間で演じた奇跡の逆転劇を再び成し遂げて見せると覚悟を決め、武田家との全面対決に挑む。


第17回では浜松を無視しそのまま進軍を続ける武田軍に対し三方ヶ原で追撃を行うことを決心、しかしその考えは信玄に読まれており、逆に総攻撃を受けてしまう。

続く第18回において、武田軍からの猛追を受ける中、浜松城から救援に駆け付けた夏目広次がかつて幼少期の自分自身と一番よく遊んでくれた夏目「吉信」である事を思い出す

そして彼は家康の具足を拝借し身代わりになることを伝え、家康は必死で制止したがその決意を覆すことはできず、結果彼や本多忠真らの尊い犠牲を経て生還を果たすことになる。

そして「わしは皆に生かされた。この思い、決して無駄にはせん!必ず立て直すぞ!」と新たな決意を掲げるのであった。

その最中、京に向けて進撃を続けていた武田軍が甲斐に撤退を始めたという情報を耳にする。


第19回では信玄が没した可能性を読み、武田軍に奪われた所領の奪還の準備に入る。

その最中、状況が好転した事を喜ぶ元忠を「敵とは言え、人の死を喜ぶとは何事か!」と叱責。

足利義昭の追放や浅井長政の死などで情勢が目まぐるしく動く中、自身も武芸の鍛錬や読書に励むも、先の三方ヶ原での戦いで受けた心の傷はそう簡単には癒えずにいた。


そんな中、風呂の世話役であったお万の方にお手付きしてしまい、彼女との間に一児を儲ける。

この事を数正と忠次に内密で伝えるが、特に数正はすっかり激怒しこの件を家中に報告(その際、二人は「言うなら今ですぞ」「楽になりなされ」と、家康の隠し事は大方見通していた様子である)。当然浜松に向かう予定だった瀬名の耳にも入り、完全に修羅場となってしまった。


第20回では勝頼を新たな当主とした武田軍からの戦いによって疲労困憊し床に臥せていた。

その最中に岡崎城で起きた反乱の首謀者が大岡弥四郎である事、その裏に勝頼が関わっていた事を知り、病み上がりながらも戦線に復帰。

仕官した井伊虎松に対武田戦へ刀持としての同行を許可し、武田軍への反攻に転じる。


第21回では長篠城の危機に織田軍の力を頼る事となり、交渉役として岡崎に来た水野信元と佐久間信盛に「織田家との同盟を切って武田家につく」という脅しに近い言伝を話し、その翌日に信長が大軍勢を引き連れて岡崎に来た事に歓喜。

しかし信長は内心相当怒っていたらしく家康に臣従を強要、自らが提案した亀姫と奥平貞昌の婚姻に関した口論にまで発展する。しかし、亀姫と瀬名の機転と、鳥居強右衛門の決死の懇願により信長は長篠城への救援を決意する事になる。


第22回では一向に動かない信長に業を煮やして進言を行うも、結果的にそれを自分達がやらされる羽目に陥る。その後、鉄砲隊による武田軍への圧倒的蹂躙を見て信長との力の差を思い知り、信康と共に臣下の礼を取ることになる。


第23回では撤退命令に従わなかったり、信長に付き従い続ける事に苛立ちを感じつつある信康と口論になり、更には信長との間を取りもっていた伯父の水野信元を処断せよとの信長からの命令にも従わざるを得ず、心身の疲労が生じていた。

そんな中、於愛との出会いを経て彼女の奏でる笛の音に心を惹かれる。


第24回では不穏な空気が渦巻く築山に赴き、瀬名の思い描く「慈愛の国」という謀を知る。

もし信長の耳に入れば大変な事になるが、それでも戦乱の世を早く終わらせるためにその謀に乗ることを決心、勝頼と共に戦をする振りをして時間稼ぎを行うが、勝頼の離反によりその事が信長に知られてしまう。


第25回で起きた所謂「築山事件」においては、処遇の全てを信長から一任されるも、すべての責任を取り自害しようとする瀬名と信康を生かしたいと願い逃亡計画が実行に移される。

しかし結果的に2人が自害するという結末を迎え、心労も祟ってか倒れ込んでしまった。


第26回では信長と同じく髪型が月代になった他、織田軍と協力してついに武田家を征服する。

その裏で直政、忠世、於愛にある極秘の任務を指示する。その一方で信長に恭順の姿勢を示し

忠勝からは「織田の足を舐めるだけの犬に成り下がった」と言われる程に従順となる。


その後、安土城への帰路に就く信長をその道中で自ら接待し、それを見事に成し遂げる。

その最中、信長から「伊賀者を皆殺し」にするよう指示を受けるが、その裏で信長に恨みを持つ100名ほどの伊賀者を保護。

そして、痺れを切らした忠次らに「信長を殺し天下を取る」という本心を打ち明けるのであった。


第27回では忠次らと共に安土城へ来訪。光秀を信長から遠ざけるために彼が用意した「淀の鯉」を使い一芝居を打つ。

その後、信長に「人を殺す事で生じる恨みを背負う覚悟」と「平和な世の政の難しさ」を問われ、「お前にはそれは出来ぬ」「憎んでくれても恨んでくれてもいい、そばで俺を支えろ」と言われる。しかし信長討伐の決意は変わらず「弱き兎が狼を喰らうんじゃ」と返し、京にて信長の到着を待つ。

そして服部半蔵や茶屋四郎次郎の協力もあり、軍備・戦力共に十分な量を確保。更に信長が100名ほどの人数を伴い本能寺に入った事を知り、遂に計画が実行に移される…かに見えた。


第28回では信長と入れ違う形で堺の町に移動、会合衆をはじめとする町の有力者達と知遇を得て、信長打倒後の後ろ盾を得る中で、岐阜から娘達と観光に来ていたお市と偶然にも再会を果たす。


彼女との対話もあり今の自分に信長を討つ力も覚悟も無い事を痛感し、忠次らに謝罪するも「次の機会を待ちましょう」と励まされる。

翌朝、京から這う這うの体で駆け付けた四郎次郎の報告から「信長が光秀に討たれたこと」と「光秀が家康を討ち取った者に報奨を出す」と触れ回っている事を知り、急遽三河への逃避行を実施。その最中に名を挙げたい浪人や報奨目当ての民百姓からの襲撃を受けるが、織田家に人質に取られた頃に扱かれた素手の技を駆使して撃退、駆け付けた忠次らにも「必ず生き延びるぞ!」と発破をかける。

そして「さらば…狼。ありがとう、我が友。」と、もうこの世を去ったであろう信長に別れを告げるのであった。


第29回では伊賀越えを実行し数正・忠次とは別行動を取る。その後多羅尾光俊率いる甲賀者の拠点である小川城で歓待を受けるも罠と訝しんで離脱、伊賀方面へ向かう。

しかし百地丹波率いる伊賀者達の奇襲を受け囚われてしまうが、そこで伊賀者達の軍師をやっていた本多正信と数十年ぶりに再会、紆余曲折を経て解放され無事に伊勢国・白子浜に到着。数正と忠次とも合流し、ようやく三河への帰還を果たした。


その後、穴山梅雪が身代わりとなって光秀に討たれた事を知るのであった。


第30回では信長の死によって空白地となった甲斐・信濃・上野の三国を巡り北条家と激突

戦後の和睦により甲斐と信濃を獲得できたが、お市と結婚した柴田勝家と羽柴秀吉の衝突も看過できないでいた。この衝突に介入するかどうかで意見が割れたものの、正信の助言により状況を静観することにした。

それでも幼少期にお市と交わした約束を果たせないことに苛立ちと歯がゆさを感じる。

そして勝家とお市が死去したことを知ると、秀吉打倒のために強い闘志を燃やすのであった。


第31回では初花肩衝を献上するなどして秀吉の様子を窺っていたが、織田信雄に頼られついに秀吉との全面対決に臨む。

第32回では池田恒興率いる三河への中入り部隊を完膚なきまでに叩きのめす。

しかし、陣中が勝利に湧く中、1人憂いを見せる数正から「秀吉は我らの弱みに付け込んで来るでしょう」という発言を聞く…。


第33回ではその数正の読み通り、秀吉は総大将である信雄に調略を仕掛け徳川家と和睦する。

その際に養子(という体の人質)を欲しがる秀吉のために、次男の於義伊(後の結城秀康)を差し出すことを決める。

しかし、更なる人質の要求と家康自身の大坂への上洛への指示に対しては拒否の姿勢を取り、秀吉との徹底抗戦を図ろうとするが数正が出奔したことで家中が危機に陥ってしまう…。


第34回では数正の出奔に伴う機密情報の漏洩に際し、陣立ての様式を武田家式に変えるなど防衛策を取るが、天正地震により三河全域が被災(現代の尺度に合わせると震度4程度だったとされる)し戦どころでは無くなってしまう。

その後、石川家の屋敷に残され於愛が密かに保管していた木彫りの仏像と、築山屋敷に咲いていた花の押し花を見たことで、一同の前で天下取りの断念と秀吉への服従、そして大阪への上洛を決心。更にその根本的な原因となった数正を「あほたわけ!」と一同と共に罵倒した。


第35回では忠次らを伴い、遂に大坂城への上洛を果たす。

謁見前夜に秀吉と大いに語らい「殿下に二度と陣羽織を着させませぬ!」と宣言、それを気に入った秀吉から「謁見当日にも皆の前でそれを言ってほしい」と頼まれそれを承諾。

約束通りに宣言を行い、秀吉から陣羽織を頂くことになる。

その後は京でに拝謁し「権中納言」の地位を獲得。豊臣政権下では秀長に並ぶものとなった。更に、後に天下分け目の争いを繰り広げる事になる石田三成ともここで出会い、意気投合する。

そして16年過ごした浜松から、かつて今川家の人質時代を過ごしていた駿府に国換えとなり、未だに沼田を北条家に返さぬ真田昌幸との交渉に臨む。


第36回では北条家との戦を回避するため稲の真田家への輿入れを決心するが、当の父娘が納得するはずもなく無理強いも出来ないので困り果てていた。

その後捜索を続けていた千代を元忠が匿っていたことを知り一度は叱責するも、千代については亡き穴山梅雪同様平和な世を目指した同志として見ていたこともあり、2人の婚姻を承認。更に稲が真田家への輿入れを決心、何とか北条家との戦は回避できたかに見えた。

しかし、秀吉は氏政・氏直親子が上洛しなかったことを理由に小田原攻めを決定、家康にその先鋒を命じる。


第37回ではその褒美として「北条の所領を全てくれてやろう」とも言われるが、それは長年統治してきた三河をはじめとする国々を離れることを意味していた。このことは征伐の完了まで家臣一同には伝えられなかったが、正信を通して忠世が根回しをしていたことで皆覚悟は決まり切っており、諍いも無く笑顔で別れることが出来た。皆がそれぞれの所領に移り、家康もまた荒れ放題の江戸の地の整備に楽しさを感じる中、秀吉から突如朝鮮・明国への侵攻が指示される…。


第38回では秀吉の命に従い、阿茶や忠勝・守綱らを伴い名護屋城へ入城。

朝鮮出兵の戦況報告中に秀吉を堂々と批判した浅野長政を見たことと、島津家の将兵からの噂を聞き、実際の戦況は芳しくないのではと訝しみ、服部党に真相を調査させると同時に自らは秀吉の唐入りを阻止すべく三成と共に説得した。

その最中、出家した義昭と再会、以前の傲慢な態度から一変した彼を見て驚く。


その後、服部党の調査によって朝鮮での戦況は苦戦必至と判明、更に茶々から「父として、お慕いしてもようございますか?」と迫られるが阿茶が阻止してくれた。

このことから「秀吉がおかしくなったのは茶々のせいでは?」と判断し、本人の前で茶々を遠ざけるように説得。相手が太閤であってもひるまずに堂々とした態度で臨み、徳川家を取り潰すと恐喝されても「かつての底知れぬ怖さがあった秀吉ならば、そんな事は口にすまい」「目を覚ませ。惨めぞ、猿!」と強気な姿勢を崩さず、それによって怒りを露わにした秀吉によって一触即発の事態になるが突如その場に義昭が乱入。彼が征夷大将軍だった頃の昔話をした事でその場がどうにか収まる。


そして、ようやく明国との休戦が決まり、戦後交渉が始まるかと思った矢先、京に戻った茶々が第二子を妊娠した事が判明、秀吉はこれまで以上に狂喜乱舞するのであった。


第39回では世情が不安となる中、秀忠・直政と共に忠次を見舞う。そして、「秀吉を見限り、天下をお取りなされ」と忠次の最後の願いを聞くこととなる。

その後三成・行長らが明朝との交渉を行うも、秀吉はその意向が反映されなかったことを理由に再出兵を強行する。しかし、1598年その秀吉も病に倒れる。

家康は予てより三成から新たな政体の構想を聞かされており、秀吉も「民の安寧を優先する」として承認していた。その後家康は秀吉の病床を見舞う。

しかし、秀吉は前言を反故にして秀頼の後事ばかりを心配。果てに朝鮮出兵の後始末など全てを家康らに丸投げする発言に家康は遂に堪忍袋の緒が切れ、「こんなメチャクチャにして放り出すのか!?」と怒鳴りつけるも、秀吉は「な~んもかんも放り投げてわしはくたばる」と開き直る。

しかし、秀吉は内心では家康の器量を認めていたことを吐露、最後は「上手くやりなされや」と家康が天下人となることを見越してエールを送った。

そして秀吉の死後、家康は再び天下取りを目指すことに決める。


第40回では表向きは五大老の1人として精を出す中、上杉景勝と毛利輝元からは危険視される。

そんな折、朝鮮から帰還した加藤清正ら武断派の諸大名が三成との諍いを起こす事件が発生、彼らを宥めるべく本来秀吉の承認を要する婚姻を無許可で推進、憤った三成から謹慎を申し渡される。しかし、糾弾の使者に対しては「(取り決めを)忘れていた」ととぼけつつも、「徳川家中には血の気の多い者が多いから、怒らせたらどうなるか…」と脅すような口ぶりを見せる。

その後、清正・正則ら諸大名が三成のいる伏見城へ殴り込みをかけるという騒動が発生。清正らが三成の更迭を要求する一方で、三成は彼らこそ処断されるべきと放ち、最終的に三成は所領である佐和山城への謹慎を決定する。なお、それまでの道中は秀康が護衛を務めた。


その後、義元・信長・信玄・秀吉。そして忠次から託された想いを胸に、天下統一のために表舞台へ立つことを決心する。


第41回では大阪城西の丸に居を構え、周囲から「天下殿」と称される程に慕われる。

その最中、家康暗殺を企てた大野治長・浅野長政らや彼らを扇動した前田利長を処罰。更には城の建築などを続ける上杉景勝に上洛の指示を出すが、その返事として直江兼続が送ってきた「直江状」を見て激昂、茶々からの了承を得て会津征伐を開始する。

その際、次男の秀康、忠勝ら四天王の面々や守綱と言った主要な面々を揃える中、元忠を伏見城の守りに残すことになる。


その間に親吉や秀忠とも合流し、上杉攻略に移ろうとした中、三成が挙兵したとの知らせが届く。それと同時に茶々からの密書も届き、それを見た家康は大いに高笑いするのであった


第42回では従軍した諸大名達に三成打倒の覚悟を語り、正則・黒田長政らを奮起させる。

その後、初陣となった秀忠に38000の兵を預け真田の牽制を指示、補佐役として正信と康政を付ける。更に秀康・親吉を上杉の抑えに回し自身は江戸城に戻り、三成打倒の書状を各地の諸大名に宛てて書き続ける。

その最中、8月7日に伏見城陥落と元忠の死を知るが、決して激昂も動揺もせずに平静を保ち、「腕が折れるまで書くぞ、彦のためにもな…」と決意を新たにする。

それから9月に正則が岐阜城を陥落させたと知り、いよいよ自らも動くことを決心。そして秀忠らに真田を無視して美濃・赤坂へ9日までに向かうように指示書を送るが、真田の計略によって合流が遅れるという事態が発生。

主力である秀忠軍の参戦が絶望的になり、三成が関ヶ原を決戦の地にしようとしていることを知った家康は、敢えてその手に乗ることを決心するのだった。


第43回では秀忠勢との合流を断念し、大垣城を無視して関ヶ原にて三成を迎え撃つことを決心、直政に先陣を任せ現場の指揮を執る。やがて状況が膠着していく中、自ら陣を前進させたことで前線の士気は大いに高まり、これに応じる形で小早川勢が大谷勢の陣を強襲、大勝利に繋がった。

その後、大津城で三成と再会。彼から堂々と「戦乱を呼ぶ者」と批判されるが「それでも…わしはやらねばならぬ」と覚悟の姿勢を崩さなかった。


第44回では大坂で戦勝報告を行うが、茶々の提案で秀忠の娘・千姫と秀頼の婚姻が一方的に決められてしまう。これを人質の催促であることを見抜き、状況を楽観する秀忠を一喝。

1603年には征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開闢。ウィリアム・アダムスをはじめとする

知恵ある者達を集めて江戸の街の開発に尽力する一方、嘗ての自身のように頼りない秀忠に一抹の不安を感じ、自身の傍で叱り続けてきた家臣たちと同じ「叱り役」に徹していた。

しかし、康政の生涯最後の諫言を聞き入れ、秀忠に上に立つ者の責務を語り、将軍職を一年以内に譲ることを発表。

その一方で「関ヶ原はまだ終わっておらぬ」として、忠勝らの隠居を認めず彼らに活躍の場を用意しようとするが、1606年6月19日に康政が、1610年12月3日に忠勝が相次いで死去。そして家康は成長した秀頼率いる豊臣家を注視、太平の世を齎すための最後の戦いに向かう。


第45回では凛々しく聡明な秀頼が発するカリスマに脅威を感じ、正信が献策した作戦を講じるもそれを逆手に取られ世間の評判が悪化、牢人が大坂へ続々と集まる事態に。

万が一に備えてウィリアム・アダムスこと三浦按針にイギリス製の大砲の買い付けを依頼するもかつて関ヶ原後に三成に問われたことを思い出し、珍しく自信を喪失してしまう。そんな折に出家して名を改めた今川氏真に励まされる。

その一方で、秀頼のカリスマに戦慄し、家康亡き後に秀頼と戦えば負ける自信があると卑下する秀忠を眩しく感じ、「その弱さを大切にせよ」と励ましを送る。

そして方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」というあからさまな豊臣家からの挑発を受け、もはや戦を避ける事は出来ないと判断するのであった。


第46回では按針から献上されたぺんすうの描き心地を試しながら、絵を描く事が好きであった千姫を案ずる一方、方広寺の梵鐘問題を引き起こした豊臣家に「秀頼の大坂からの退去」「他の大名と同じように参勤し、江戸に移ること」「茶々が人質として江戸城に来ること」のいずれかを要求するがどれにも応じず、戦は避けられない事態となっていた。

更に秀忠が決戦の総大将を務めることを「人を殺す術など覚えなくてよい」と一蹴。

徳川が汚名を被る戦」になることと、「信長や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へ行く」覚悟を決め、老体に鞭打って大坂への侵攻を開始する。

当初は数で優勢だったものの、真田信繁が立てこもる真田丸の堅牢さに苦戦。自身も咳き込みが続く中、早期決着のため抑止力として準備していたイギリス製大砲の使用を決意。照準を大坂城天守へと向け容赦の無い砲撃を開始、下手をしたら千姫にも危険が及ぶその苛烈で凄惨な行いを間近で見た秀忠は激昂、砲撃の即時中止を懇願する。

しかし家康はその凄惨さを敢えて秀忠に見せつけ「これが戦じゃ。この世で最も愚かで、醜い、人の所業じゃ!」と戦の愚かしさ、虚しさを伝えるのであった。


第47回では豊臣方が和議に応じ、阿茶を交渉役として派遣。大坂城の堀を本丸以外全て取り潰すという形で大坂冬の陣は終結する。

その後、牢人達が京の町を襲撃するという事件を起こし、最後通告として江と初を交渉の使者として派遣。その際に茶々へ宛てた手紙を書き、2人を通してそれを渡すことにする。

しかし、乱世の亡霊に憑りつかれた秀頼が事実上の宣戦布告を行ったことで、家康は本当の意味での最後の戦いへ赴く覚悟を決めるのであった。


最終回では金の大扇子を目印にし、更に「家康はここにおるぞ!!」と大声をあげて牢人達を陽動。それに気づいた真田信繁の軍勢が本陣に急接近し、あわや討ち取られる寸前にまで陥る(しかし当人は内心で『乱世の亡霊よ、わしを連れて行ってくれ』と、信繁に討たれる事を望んでいた模様)がその刃が届く事は無く、辛くも生き伸びる。その後、大野治長によって返された千姫から茶々と秀頼の助命を嘆願されるも、秀忠の指示によって拒絶される。千姫からの非難を受ける中、炎上する大坂城に手を合わせ、静かに黙祷を捧げた。


それから一年後の1616年、ついに戦無き平和な時代が訪れる。

天海僧正主導の下で家康の生涯に関する編纂作業が進む中、当人は病の床に臥せており「神の君」と称されるようになった彼を恐れてか、阿茶以外に身の回りの世話をする者はいなくなっていた。


そして、1616年6月1日…。


家康は先に逝ってしまった瀬名と信康の霊と出会い、更には信康と五徳の祝言が始まろうとしていた過去にまで遡る。そこで、第36回に語られた「鯉」にまつわる笑い話の真相が明かされると同時に、その魂は浄土へ召された。


こうして、乱世の荒波に揉まれ数多の苦難に晒されながらも、戦無き世を作るために命懸けで戦い続けた1人の男は75年の長きに渡る生涯を終え、暁の空へと旅立っていった。



本作における人物造形と、従来の家康像との最大の違いとして、「今川家、特に義元への愛着・畏敬の念が強い」という点が挙げられる。

第1回における駿府での描写はさることながら、史実でも今川家軍師・太原雪斎(作中には未登場であるが、義元がその立ち位置を兼ねていると考えられる)から英才教育を受けており、(三河を繋ぎ止めるという意図も考慮されるが)相当優遇されていたことが窺える。

そのため、桶狭間で義元が戦死した際には岡崎ではなく駿府への帰還を提案しており、第2回で松平昌久に囲まれた際にもあくまで今川の人間として一喝している。そして第3回では明確に「わしは今川の家臣じゃ」と自任しており、夢枕に敗死した義元が現れると喜ぶほどに今川義元を慕っている様子が描かれた。

これらの描写から分かるように、大久保彦左衛門(忠世の弟)が晩年に著した『三河物語』やその影響を受けた部分もある山岡荘八の小説や山岡の小説を原作とした1983年の『徳川家康』などのような「独立独歩(かつ反今川・親織田)の気風が強く、虎視眈々と今川からの自立を目論んでいた」家康とは正反対の姿が描かれているのである。そして家康の今川義元・氏真親子や駿府に対する愛着自体は歴史的に見てもかなり事実に近いものだったようで(将軍職を秀忠に譲った後は生まれ故郷の岡崎ではなく駿府へ移ったこともその裏付けといえよう)、本作における家康はその部分を強く押し出した格好となる。


こうした背景もあってか、(今川家を良く思っていない)三河の家臣達には時に振り回されたり意見が対立したりと、必ずしもその関係は円満とは言い難いところもあるが、一方では良くも悪くも先入観が薄いがゆえに、瀬名奪還計画では鼻つまみ者として蔑まれていた正信や服部党を起用、さらに彼等を嗤う家中の声に対しても「命がけで働いておる者を笑うな!」と毅然と叱責してみせるなど、立場の如何を問わず相手を信頼しようとする姿勢も折に触れて示している。


また、三方原の戦いなどで相当な辛酸を舐めさせられた武田信玄に対しても畏敬の念を抱いていたようで、第19回で元忠を叱責した描写についても「信玄は自分にとっては師のような人物であり、その死を惜しみはするが喜びはしない」という史料に基づいたものと思われる。


そして、瀬名・信康の死や伊賀越えを乗り越えた家康は、以前のような人情味ある振る舞いの一方で、要所では自他の利害を冷静に勘案する言動や決断を行うことが増えた。

更に小牧・長久手の戦いでは、池田恒興の造反に狼狽する信雄を一喝して宥め、また正信の籠城策に反し城外での戦闘を選ぶなど大国の主として相応しい言動を取るようになる。

また、恒興ら中入り勢攻撃前に「弱く臆病であったわしが強くなれたのは、今川義元に学び、織田信長に鍛えられ、武田信玄から兵法を学び取ったからじゃ」と語る。亡き先人達の教えは家康の中でしっかりと根付いているようだ。


一方で、瀬名から託された「天下統一」の願いは次第に家康を縛る呪いのようなモノへと変化してしまう。しかし、数正の出奔とその真意に触れたことで天下取りは一旦断念する。

そして上洛の日の朝、於愛に新たな夢として「関白を操り、この世を浄土とする」事を語るのであった。しかし、秀吉の底なき欲望に振り回され、不信感を強めていく。

その中で、忠次の最後の願いを聞き、秀吉から後事を託されたことで、家康は再び天下取りに邁進、渦中の豊臣家に飛び込み「狸」となって先述の無断婚姻を始めとした多くの謀略に手を染めていくこととなる。その一方で「狸は辛いのう」とぼやく場面も見受けられた。


また、この時点で徳川家家臣を除けば彼と同世代の人物は前田利家・真田昌幸・今川氏真・浅野長政・山内一豊(その他今作未登場の人物も含めると島津義弘黒田官兵衛細川幽斎九鬼嘉隆・20歳程年上だが金森長近などが挙げられる)と数えるほどになっており、下の世代の者からは信長や秀吉と渡り合ってきた家康は神代の昔のオロチに見えていると評されている。


秀忠には後継者として厳しく接する一方で、弱音を曝け出せる点を(かつての自分に重ね合わせる形で)長所に挙げ、義元の「王道と覇道」の教えを受け継ぐ者として激励した。しかし、大坂の陣に際しては自身が全責任を負うことで、次代に遺恨を残さないよう努める。そして茶々や秀頼・信繁ら乱世の生き残りを根こそぎ連れていくことを決め、千姫の嘆願も一蹴し豊臣家を滅ぼした。


最終回のラストシーンでは、暁の空の遥か先に見える遠い未来の街並みを瀬名と共に見つめており、家康が作り上げた太平の世が現代に脈々と受け継がれている事と、家康は神として今も日本に生きる人々を見守っている事を示している。



なお、本作における三方ヶ原合戦における著名な逸話(小豆餅の食い逃げや脱糞を焼き味噌と言い張る等)は、浜松の民が家康を嘲ってでっち上げた作り話と言う解釈が取られている。

第35回で家康がその作り話の出所である老婆らと再会し、当人は「こんなに立派になるとは思いもせず…」と謝罪するが、家康はそんな彼女たちを笑って許し、それどころかその作り話に乗って「少し漏らしたんじゃ」と返している。


これこそ、かつて直政が家康に語った「民を怖がらせる殿よりも、笑わせる殿」の姿であると言える。


ちなみに、家康は名護屋城滞在の際に一時危篤状態になる程の重病を患っていたというエピソードが存在するが、当初は描写するつもりだったものの尺の都合でやむなくカットせざるを得なかったとのこと。




瀬名 模写

家康の妻(正室)。明るく田舎の武士にも優しい娘として登場。

元服前の元康とは林で遊び、また良き相談相手ともなっていた。武将としては心身共に弱く頼りない元康を逆に好ましく思っていたが、氏真の側室騒動に際し義元の御前試合で家康が泥臭い戦法で氏真を負かしたことで無事に夫婦となり、桶狭間の直前には嫡男の竹千代(後の信康)、さらに桶狭間後にはもう一人の子宝にも恵まれている。

第3回でも未だ岡崎に留まる夫の帰りを待ちつつ、自身と同様に人質として駿府に留め置かれている三河衆の女房たちとも親しくしている様子が描かれているが、同話数のラストでは元康の「苦渋の決断」により、自身もまた極めて厳しい立場に立たされることとなる。

しばらくの間一家ともども軟禁状態に置かれていたが、第5回では下女のたねを通して服部党による脱出計画が企てられていることを知り、その話に乗ることを決意。だが計画が露見したことにより、両親・下女・子供たちと共に投獄され、死罪を待つ身となってしまう。その後、上ノ郷城攻略戦で生け捕りにした鵜殿氏長・鵜殿氏次との人質交換の取引で、我が子共々元康の元へ戻ることができた。

家康の元へ戻った後は、義母にあたる於大からの厳しい指導を受けながらもすっかり家中に馴染んだ様子を見せており、時に道理に合わぬ行動に手厳しい言をぶつけつつも、一方では苦悩の真っ只中にある時にはこれを励ましたりと、家康にとってなくてはならない存在となっている。

第10回では一向一揆の教訓から、民の声を聞くために岡崎城下の築山へと居を移しており、ここを訪ねてきた於大の方からの「おなごとしてもう終わった」「子を産まなくなったらご用済み」との言葉に憤慨しつつも、その真意が家康に対して側室を持てということ、そして子を沢山設けることで他家との結びつきを強めるという政治的な意図を解してか、自らも側室選びに加わり、於大と共に家康の側室探しに奔走した末にお葉を見つけ、側室として迎えた。このように当主の妻としての矜持を示しつつも、一方ではお葉に気持ちが傾いていた家康に対して複雑な内心も覗かせている。

その後、息子・信康が信長の娘・徳姫と政略結婚するが、まだ幼い故に夫婦喧嘩が絶えず、姑として頭を悩ませている。


第19回では五徳の提案で浜松に向かう予定であったが、侍女であるお万の方にお手付きし、一児を孕ませてしまった家康を叱責するために急遽浜松へ向かい、「あほたわけ!」と容赦の無い罵声を浴びせ、徹底的にお説教をした(この際、側室選びの経緯からあくまで自身に内密で女性と関係を持ったことを咎めている)一方で、当のお万本人に対しては寛大な処置を見せ、更に「殿からふんだくった金子を元手に腹の子を育て、焼けた社を再建して欲しい」と彼女を応援する立場に回った。そして、正式な浜松入りは先送りとし、岡崎城へ戻っていった。


第20回では岡崎城で負傷者の手当てを行うなど献身的な補佐を行っていたが、五徳が負傷者達を軽視侮辱する物言いをした事で口論となる。

その後、大岡弥四郎らの起こした反乱を煽ったのが嘗て寺で舞いを踊り、一向一揆を扇動していたであろう千代である事に感づき、彼女との対決に臨む。


第23回では於愛の側室入りを承認する中、住居の門番と侍女を総入れ替えするという行動をとり、数正が信元の一件を踏まえてこの事を訝しみつつある。


第24回では今川氏真夫妻、於大の方と久松長家、更に千代や穴山信君の賛同を経て東日本に「慈愛の国」という大国を築く謀を計画。築山を訪れた家康や五徳にもその計画を話し、彼らからも賛同を得る。しかし、武田勝頼の離反により謀が信長に知られる事となる。


第25回で起きた所謂「築山事件」においては、信康と共にすべての責任を取り自害しようとするが2人を生かしたいと願う家康により逃亡計画が実行に移される。

しかし最終的に自害の道を選び、かつて家康に渡された木彫りの兎を返却。そして女大鼠の介錯を経て死去した。


本作では『おんな城主直虎』で描写されたような武士としての立身出世を願い夫を支える力強い女性というよりは、夫の無事を祈る心優しい女性として描かれているのが特徴である。

その死後も家康にとって瀬名は旭を除き唯一の正室としてあり続け、家康はその遺志を継いで終生にわたり(その心を縛りつつも)天下統一の夢を持ち続ける。

また、彼女の「慈愛の国」構想は氏真を通じ北条氏政などにも影響を与えた。



元康と瀬名の子。信長の娘である五徳姫と幼くして結婚するが何かと夫婦喧嘩が絶えず、家康や瀬名も手を焼いている。

第15回では引間(浜松)城に本拠を移した家康に代わり、岡崎城の城主となる。

続く第17回では立派な青年の姿で登場。武田軍の侵攻に対して後詰を任される事になる。

第19回では、義父・家康に悪い虫が付くことを心配する妻・五徳をよそに「父上に限ってそのようなことはなかろう」と笑いながら盛大なフラグを立てていた。そして、お手付きの件がバレた際には「父上!見損ないましたぞ!」と案の定失望しブチギレていた。

第20回では大岡弥四郎らの起こした反乱を察知し、浜松から救援に来た忠勝らと共に鎮圧。その後、彼らが「沈む船(徳川家)よりもそうでない船(武田家)に乗った方が良い」という反乱への本心を直に聞き、五徳からも「処断すべき」と論されている。


第22回では父・家康から「儂よりも将としての才がある。」と絶賛されるものの、武田との戦の中で徐々に精神をすり減らしていくことになった。

その遠因の1つが、設楽原の戦いで織田軍が行った鉄砲隊による武田軍の一方的な蹂躙となっている。


第23回では家康の撤退指示に従わなかったり、信長の命令に黙々と従う家康に「臆病だ」と罵声を浴びせたり、更には鷹狩の途中で通りすがった僧侶を斬殺したりと、次第に歯止めが効かなくなりつつある。なお、僧侶を斬殺してしまったことは相当悔いていたようで、瀬名に「何と言って謝ればよいのでしょうか」「みんなが強くあれというから強くなりましたが、自分が怖い」と涙ながらに相談している。


第24回では瀬名の思い描く「慈愛の国」に賛同。父や妻からも理解を得られたが、勝頼の離反により水泡に帰してしまう。


第25回で起きた所謂「築山事件」においては、瀬名と共にすべての責任を取り自害しようとするが、2人を生かしたいと願う家康により逃亡計画が実行に移される。しかし瀬名の逃亡を確認してから逃亡するといい中々動こうとしなかった。

その後、半蔵からの(嘘の)報告を聞き、瀬名が自害した事を確信、近くにいた親吉の小太刀を奪い切腹、そして半蔵の介錯を経て死去した。


なお、史実における名乗りは「松平信康」であり、父の家康と異なり徳川姓を名乗ったことはないらしい。徳川斉昭徳川慶喜父子は信康の末弟・頼房の子孫(光圀の兄・頼重の系統)だが信康の女系子孫でもある。


竹千代を演じた寺嶋眞秀はナレーターを務める寺島しのぶの長男。



元康と瀬名の娘。第19回では義姉である五徳の「悪い虫」発言を別の意味に解釈したり、大岡弥四郎事件の前の晩に「慣れない場所で眠れません」と言いながら熟睡してしまったり、さらに鳥居強右衛門が人間であるかどうか確認するため大きな石をぶつけようとして強右衛門にびっくりされてしまうなど純粋な性格。

第21回では自分の知らぬ間に奥平貞昌との婚約が進められていた事を知り、当初はそれを拒否しようとするが、父・家康と信長の口論を見て、奥平家へ嫁ぐ決心を固める。

その後、第23回で母・瀬名との今生の別れを迎える事になる。


本作ではこれ以降登場しなかったが、史実ではその後も貞昌(のち信昌)と添い遂げており、1625年7月66歳で死去。また、本多正純失脚にも関わっていたとする説がある。



元康の母。竹千代(元康)を愛情深く育てていたが、兄の信元が今川方を裏切って織田方に着いたため元康と生き別れてしまう。広忠と離別後は織田方の久松長家の妻となっていた。しかし、刈谷城の戦いの際の交渉で信元に呼びよせられ、元康と久方ぶりの再会を果たす。

敵方となった息子を心配しつつも、同時に信長と氏真の器量の差を早くから見抜いており、元康に対し信長と同盟するよう説得してみせたり、上ノ郷城攻めでは先手として長家を推挙するとともに、攻め落とした後には恩賞として城をもらい受ける約束を取り付けるなど、非常に強かな面が折に触れて示されている。

瀬名の帰還後は、彼女を「強く逞しい立派な三河女」にするべくひたすら厳しく指導していた。また、孫に当たる竹千代や亀姫から「ばば様」と呼ばれるのに対しては、(まだ40手前というのもあってか)「ばばと言うんじゃありません!」としつけているが、現時点ではあまり効果はない模様(この当時、於大の実子にして竹千代の叔父に当たる久松(松平)定勝は、その竹千代よりも1つではあるが年下である)。

第10回では、未だ2人しか子のいない家康に側室を持つようにと堂々と提案。その際の歯に衣着せぬ物言いの数々で瀬名ばかりか家康さえも怒らせるも、最終的に瀬名の方は納得させており、彼女とともに側室選びに邁進することとなる。

第16回では武田家に人質として向かった源三郎からの手紙が本人の文ではない事を訝しみ、服部半蔵に救出…もとい様子の確認を依頼している。


久しぶりに登場した第23回では夫である久松長家の隠居報告を綽綽と受け入れている。

続く第24回では夫と共に瀬名の思い描く「慈愛の国」に賛同している。


第34回では豊臣家から輿入れしてきた旭姫と意気投合、すっかり仲良くなった。しかし、旭の本心を察し、なおも旭を正室と認めようとしない家康に「女子は男の駆け引きの道具ではない!」と一喝、天下取りの断念と旭を正室として遇することへのきっかけとなる。


第44回では伏見城に入り、寧々との談話を楽しむ。そして家康に「そなたの大切なもの、もう無くすでないぞ」と懇願。


それから3ヶ月後に死去したことが語られた



演者の松嶋は『利家とまつ』のまつ役でダブル主演を務めていたが、同作では父親を家康に討たれている(ドラマ独自の設定)。まつと於大は両者とも10代で第1子を出産(当時は別に珍しいことではなかった)・子沢山という共通点がある。



元康の父。嫡男・竹千代(家康)が「寅の年・寅の月・寅の刻」に生まれたことを喜び、家臣たちにも披露するが、すぐに「卯の年」生まれであることが発覚。妻の於大の方と「兎は狼にすぐ噛まれてしまうからいけない。このことは家臣には黙っていよう」と口裏を合わせている(しかし、家康は第44回で於大に打ち明けられるまで信じ込んでいた)。

作中では描かれてないが、家臣に一向宗徒が多いことから事実上の治外法権と言える「不入の権」を、本證寺の空誓上人に認めたことが明らかにされている。

また第18回の回想では、竹千代が織田方に拉致された際、責任を取り自害しようとした夏目吉信に「広次」の名を与えやり直す機会を与えた。

昨今では異説も示されているが、一般には家臣もしくは織田の手の者に暗殺されたものとして広く知られており、『徳川家康』では前者の、『麒麟がくる』では後者の解釈がそれぞれ採られているが、本作ではその最期については割愛されている。

史実における年齢は竹千代(家康)が誕生した時に数え年で18歳、没年は24歳だが、演者の飯田は当時56歳だった。



第23回から登場する家康の2人目の側室。徳川秀忠松平忠吉兄弟の母親。

家康と同じ三河出身で、同地の豪族・西郷家の血縁に当たる。夫を戦で亡くし、女手一つで娘を育てているとの事。

お葉曰くかなりの近眼で、干し無花果を取りに来た家康を万千代と勘違いして尻を引っ叩くという大失態を犯す。その後、お葉と共に瀬名の元を訪れ正式に家康の側室となる。その際源氏物語伊勢物語といった作品が好きだと話し、瀬名と意気投合している。


瀬名が死去した第26回以降は事実上の正室格として家康の行動を支援、武田家の最終決戦では忠世、直政と共にある極秘の任務を家康から指示される。

また、信長への接待の準備に邁進する家康を見て失望しかかっていた康政を一喝するなど、彼女なりに家康を案じている様子も見受けられた。


第27回では実子である長丸(後の徳川秀忠)と福丸(後の松平忠吉)と共に留守を任される事になる。


第29回では本能寺の変の報を聞いた際、光秀を「あれは(謀反を)やりそうな顔」と評していた。


第31回では岡崎城に入り、「殿の勝利を信じようぞ!」と女中達を鼓舞している。


第34回では数正が作った木彫りの仏像と築山屋敷に咲いていた花の押し花を見て、何故数正がこれらを残して出奔したのかを察し、「他の人が戦なき世を作るなら、それでもよいのでは?」と家康を説得している。


第35回ではお転婆な稲に手を焼いており、忠勝からも「一層厳しくしつけてくだされ」と頼まれている。

また、以前と同じように自分の日記を読んでいた家康を誰かと勘違いして尻叩きをしてしまうが、家康は笑ってそれを許す。その後は駿府への国替えに伴い、浜松の領民達へのこれまでの感謝を込めた施しに参加している。


第36回は彼女の書き記した日記から話が始まる。

前夫に先立たれ生きる気力を失っていたが、お葉の「嘘でも笑っていなされ」という言葉に従い、どんな時でも笑顔で振舞おうと必死になっていた。

更に家康の側室になった当初は家康を敬っているものの完全に慕ってはいない事を書き記す。

しかし「築山事件」以降は自分よりも深く傷ついている家康を傍で支える決心を固めている。


自らを蝕む病魔と戦いながら、自分と同じ目の不自由な人々へ月一の施しを行っていたところを正信に呼び出され、元忠が千代と一緒になっている所を守綱が家中に言いふらしたことを知る。更に忠勝が鳥居家の屋敷に殴り込み大騒動となるも、何とか千代を説得する。

そして京から帰還した家康の裁定により千代は元忠の妻となり、その様子を見ていた稲もまた真田家へと嫁ぐ覚悟を決めた。


その後、1589年(天正17年)に28歳という若さで死去した事が語られた。葬儀には彼女を慕う多くの民が訪れたという。その死因については不明だが、本作では「患っていた病の悪化」という説を取っている。

なお、近眼という設定や目の不自由な人々に施しを行っていた場面は全て史実に基づいたものである。因みに、その理由としては彼女がかなりの読書家であったことが考えられる。



浜松城で風呂番として働いている侍女。実家の社は戦で焼けてしまい、父は既に亡く、母も病に倒れているという。

武田軍との戦いで心身共に疲弊し、未だに立ち直れずにいた家康を風呂場にて介抱。

これをきっかけに家康は彼女についつい心を許してしまい、彼女を孕ませてしまう。

その後、とんでもない事をしてしまったと自責の念に駆られ、岡崎から駆け付けた瀬名に「自らを罰して欲しい」と頼み込むが、当の瀬名は寛大な処置を見せ、「子育てと社の再建のために殿から金子をふんだくれ」と応援され、浜松城を離れていった。


その後、第33回で久しぶりに登場。人質を要求する秀吉に対して、実子である於義伊を差し出す覚悟を決めた。



侍女として松平家に入った、鵜殿家の血筋を引く娘。

罠にかかったイノシシを鉈一本で〆る程の胆力を持ち、更に真面目で働き者であることから、側室を探していた瀬名と於大に見初められ、家康の側室となる。

当初は実家を滅ぼした自分を暗殺にしに来たのではないかと怯えながら訝しむ家康であったが、彼女の献身的な働きを見て次第に心を開いていく。

後に家康との間に娘のおふう(督姫)を儲けるが、それから程なくして実は同性愛者であった事を家康に打ち明けており、当初は他に想い人がいると聞いて激昂した家康も、流石にこの事実には当惑を禁じえず「自らの胸のうちにしまう」として不問に付している。


その後、第23回で久しぶりに登場。寝所での世話は出来ないものの家康の肩を揉むなど身辺での世話は継続しており、更に側女を置いてはどうかと提案している。

その後瀬名の元を訪れ、於愛を紹介している。


このお葉の活躍ぶりを見た視聴者は「現代でいう敏腕秘書メイド長みたいな立ち位置」と称している。


なお、史実では1606年(劇中における時間軸では第44回辺り)に死去した。


前述の通り鵜殿家の出であると作中でも説明されているお葉であるが、彼女の出身である柏原鵜殿家は嫡流の上ノ郷家とは異なり、他の庶流と同様に桶狭間の戦い後の早い段階で松平家の傘下に降っている。


演者の北女史は前作で辻殿(源頼家の正室で公暁の母)を演じている。



  • おふう(演:清乃あさ姫)

お葉の娘で、家康の次女。史実での督姫。

北条家との和睦の証として、北条氏直と結婚する事になる。

第36回では義父・氏政を氏直と共に説得している。

小田原攻めの後は池田輝政に再嫁した。



家康の次男で幼名は於義伊(おぎい)。母はお万の方。

第33回で初登場し、秀吉の元へ人質として差し出された。

史実では小田原攻めの後、下総国結城と常陸国内土浦に封じられた。

第40回では既に結城家の養子となっており、佐和山での謹慎を命じられた三成を送り届けるという仕事を任されている。

第41回では家康の会津征伐に異母弟の秀忠と共に同行、第42回では関東に残り上杉を牽制する。

第44回では2代将軍に指名された秀忠に祝辞を送り、彼を支えることを約束した。


史実では北ノ庄藩主となりその後1607年(劇中における時間軸では第44回辺り)に34歳で亡くなった。彼の子孫が越前松平家となる。


於義伊役の岩田は『麒麟がくる』で家康の幼少期・松平竹千代を演じている。



家康の三男で、後の江戸幕府二代将軍。母は於愛で幼名は長丸


第39回で初登場。海老すくいの舞に興味があり、家康や直政と共に忠次が隠居生活を送る屋敷へ来訪。そこで本人生披露の海老すくいを見て歓喜、家康や直政を巻き込んで大いに舞い続けた。

その後、朝鮮から持ち帰って来た敵将の耳と鼻が入った桶を見て「まだ戦乱は続くのか」と不安を感じていた。

第41回では家康の会津征討に参陣するが、三成挙兵の報で混乱する陣中を目の当たりにする。


第42回では家康から38000の兵を与えられ真田家の牽制を任される。更に補佐役として正信と康政が付く。加えて昌幸の嫡男・信幸も従軍、父と弟の説得に向かうが全く動こうとしない。

実は家康と秀忠の合流を阻止しようとする昌幸の計略で、これを機に第2次上田合戦が勃発する。

更には大久保忠益が届けていた家康からの指示書が真田の忍びによって奪われてしまい、取り返したのが7日深夜、秀忠に届いたのが8日と伝達が大幅に遅延、第43回にて必死に馬を駆るが、到着は関ヶ原での戦いが終わった数日後であった。


第44回では関ヶ原での遅参の責任を家康から徹底的に追及され「全てお主のせいじゃ」となじられるが、後日上に立つ者の責務を語られ、徳川幕府第2代将軍に任じられる。

このことについて、父が異母兄に当たる秀康ではなく自分に将軍職を譲ったのは秀康の出生が理由と推測するが、能力のある人間が一代で家を栄えさせ、そしてそれを滅ぼした前例を踏まえ、秀忠自身が平凡な人間であることと、関ヶ原に遅参したことで誰からも恨みを買っていないことが理由だと正信から指摘され、納得していた。


第45回では秀頼の存在と老いていく家康が去った後のことを不安に感じ、もし秀頼と戦えば「負ける自信がある!」と自らを卑下するが、家康からその生まれ持った弱さとそれを自覚している事を褒められ「わしの志を継いでくれ」と王道による太平作りを託される。


第46回では江に頼まれ、決戦の総大将を務めたいという旨を家康に伝えるが拒否される。

その後は家康が戦の総指揮を執る事に従う形で従軍。家康が大砲の使用を決心し、大坂城天守への砲撃を開始した際には「父上、やめてくだされ…。父上…。やめろ!こんなの戦ではない!父上、もうやめろぉ!!」と声を荒げ激昂、砲撃の中止を懇願していた。


第47回では千姫に決別を宣言され泣き崩れる江を慰めていた。


最終回では家康に代わって秀頼と茶々に切腹を申し渡し「最後くらい、私にも背負わせてくだされ」と、家康の背負う重き荷を肩代わりした。


史実ではその後、武家諸法度制定や福島正則ら外様大名の改易などを行い幕藩体制の確立に尽力した。そして1623年には将軍職を家光に譲り、家康同様大御所としてその治世を支えた。

長丸を演じた重松はも兼演している。



家康の四男で、秀忠の同母弟。幼名は福松

関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍し、舅である直政とともに戦闘に出るが、作中には登場しなかった。

史実では舅と同じく島津追撃戦で負傷、江戸幕府発足後に清洲藩主となるが秀康と同じく1607年(劇中における時間軸では第44回辺り)に逝去。



武田家臣・飯田直政の娘で家康の側室の1人。側室という身でありながら、軍略の談合に参加するなど家臣達と同じような扱いを受けている。

史実では1579年には既に家康に召されており、小牧・長久手の戦いなど多くの戦に従軍した。

作中では第37回で初登場、秀吉から北条の所領を与えられる事について家康や正信と共に議論を交わしていた。

第38回では家康とともに肥前名護屋へ参陣、家康に迫る茶々を「狐退治」に準え追い返した。

第39回では「耄碌しても天下人は天下人」と、かなり辛辣な発言で秀吉を批判している。

第40回では秀吉亡き後の情勢を報告。清正らが伏見城に殴り込みをかけた折には彼らに湯漬けを振舞っている。

第41回では「直江状」を見て激昂、家康のいない間の留守を預かることになるがその途中で三成が挙兵、第42回では寧々が手配した軍勢に守られ大坂を離脱、京に向かったことが語られた。

第43回では寧々に話を通してもらい、茶々との交渉に応じる。なお、大坂から戻った際に茶々を評して「おっかねえ女子だわ…」とため息混じりに零していた。

第46回では片桐且元が織田信雄(常真)の手引きで伏見に逃れたことを家康に報告、大坂冬の陣にも参陣した。

第47回では豊臣方の使者である初及び大蔵卿局との講和交渉を務め、和議を成立させた。

最終回では豊臣との決戦に挑む家康を送り出す際に「帰ったら鯉の話を教えて下さい」と語った。その後は臨終まで家康の世話を続けた。


史実では1637年1月に83歳で死去した。

演者の松本は『麒麟がくる』で於大の方を演じている。



浅井三姉妹の三女、茶々の妹。秀忠の妻で千姫家光忠長らの母。

第44回で初登場。秀頼への輿入れを嫌がる千姫を家康とともに説得した。なお、茶々に対しては相当な恐ろしさを感じている模様で、第45回でも二条城の会見を受けて徳川家に対する世論の悪化を危惧した。その後、夜も眠れない秀忠を心配している。

第46回では家康と秀頼・茶々の対立に心を痛めており、家康を「戦となれば鬼にもなれる」と評した上で秀忠に総大将となるよう懇願する。

第47回ではと共に茶々との交渉に臨み、千姫に家康からの贈り物を渡すも拒絶され、泣き崩れていた。


史実ではその後、1626年に秀忠に先立ち54歳で死去。なお本作とはあまり関係がないが、「忠長を偏愛し家光を粗雑に扱った」とする説が知られるが、これを裏付ける資料は発見されていない。

演者は姉役の北川女史や鈴木女史よりも年長である。は『天地人』で主演を務めている。また、本人は『龍馬伝』で岩崎喜勢(弥太郎の妻)を演じて以来13年振りの大河出演となる。



秀忠の長女。母方の従兄弟である豊臣秀頼に嫁いだ。

第44回で描かれた幼少期においては、子供ながらに茶々の得体の知れなさを感じ取っていた。その後、1603年に秀頼に嫁ぎ、終盤にて成長した姿を見せた。


第45回では秀頼と仲睦まじい姿を見せる一方で、茶々に「天下を安寧に導いたのは誰か」と問われた際には「亡き太閤殿下でございます」と忖度をする様子を見せた。


第46回では打倒徳川の気炎が高まる中で徳川と豊臣の板挟みとなる。その最中、片桐且元が命を狙われていることを信雄に伝える。

しかし、牢人たちの決起の場で茶々に促され「豊臣のために、励んでおくれ!!」と言葉を送る。そして戦局が硬直する中、家康が大砲の使用に踏み切った際には茶々や他の女中共々砲撃に巻き込まれてしまう。


第47回では自らを庇い崩落に巻き込まれた茶々へ必死に呼びかけ、彼女が意識を取り戻したことに安堵。

その後、義叔母の初と共に大坂を訪れた母・江と再会。彼女に「豊臣の妻でございます」と、徳川家との決別を決心する言葉を言い放つ。そして牢人達の前で本心を打ち明けた秀頼と共に「徳川を…倒しましょう!」と鶴の一声を挙げた。


最終回では最後まで秀頼や茶々と運命を共にしようとするが、大野治長の指示で徳川家に返される。その後、秀頼達の助命を願い出るも叶わず、家康と秀忠を「鬼じゃ。父上も、おじじ様も!鬼じゃ、鬼畜じゃ!豊臣の天下を盗み取った化け物じゃ!」「秀頼様を返せ!」と容赦なく罵った。


その後、史実では秀頼と側室の娘を自らの養女とする事で助命。自身は姫路藩主本多忠刻(忠勝の孫にあたる)と再婚するが、1626年忠刻も死去。その後は江戸城に戻り出家、1666年2月に70歳で死去。



秀忠の長男と次男で、千姫の弟達。家光は後の徳川幕府3代将軍。

名前は呼ばれていないが、第46回で秀忠と江の側に子供が2人いた事から、家光と忠長であると思われる。


最終回での竹千代は春日局が語る家康の神話を真剣に聞いておらず、彼女もほとほと困り果てている様子。

また、家康崩御の瞬間に現れた瀬名と信康の霊を認識していた節が見られる。



徳川秀忠の嫡男・竹千代(3代将軍・家光)の乳母、後の春日局。史実では稲葉一鉄の外孫娘でもある。

自らを取り立ててくれた家康には、深い恩義と敬意を抱いている。

竹千代に祖父・家康の偉業を神のごとくと教え、家光の治世に大きな影響を与える。


家光に家康の偉業を語っていたが、まだ幼い故に自由奔放な彼に手を焼いている。


本作のナレーション(語り部)を務める寺島女史が兼任する形で登場。なお、視聴者の間では上述の理由から語りを春日局と予想する意見も一定数見られたが、寺島女史は「(語りの正体を)最近になって知った」とのこと。




徳川(松平)家の親戚・一族編集

元康の母方の伯父。かつて今川義元や松平広忠を裏切って織田信秀に付き、元康が於大の方と生き別れる原因となったため、元康からの印象は最悪に近い。一方で大高城に信長が攻め寄せた折、信元は元康を見逃すよう懇願していたようで、少なくとも彼自身は甥である元康を憎からず思っていることが窺える。

初出となった第3回では、織田勢を迎え撃とうとした元康の所に於大の方を連れて現れ、今川を裏切り織田勢につくことを(半ば強引に)勧める。結果として彼が織田勢に寝返った際には、「ようやく、正しい方に張ったな」と零した。元康に対しては基本豪胆な立ち居振る舞いで接する一方、信長に対しては威圧されるものがあるようで、元康を伴って清洲城に赴いた際にも「信長と俺は兄弟みたいなもんだ」と大言壮語しながら、いざ信長を目の前にすると明らかに怯えた様子を見せてもいた

第17回では佐久間信盛と共に3000の兵を連れて徳川軍の援軍として参戦するが、状況悪化に伴い信長の判断を仰ぐべく撤退。その際に「生き残れよ、家康」と甥を心配する素振りを見せた。


第23回では武田家との内通を信長に疑われ、岡崎で処断が決定される。

これを家康に対する見せしめであると確信し、家康に「信長はお見通しじゃ」と警告。

その後、義弟にあたる久松長家に介錯を頼もうとした矢先に長家を人質に取ってその場から逃走を図ろうとするが、丁度その近くにいた親吉の刃を受けて死亡した。



陣中にて配下とともに博打に興じてみせたり、刈谷城に攻め寄せた元康を前に「つくづく博打の才のないやつだ」と落胆したりと、作中では何かと博打に絡んだ描写が多く、当人も「この世を渡るは所詮博打」と大言して憚らない。こうした描写から、演者のかつての出演作の一つである『真田丸』のこの御仁、さらにはその主君を思い出された視聴者も多かった模様だが、彼らと異なり人生を全うすることは出来なかった。

因みに、幕末に天保の改革を推進する老中水野忠邦は、信元の弟水野忠守の子孫である。



於大の再婚相手。初登場となった第3回では刈谷城攻めに際して水野方として在城、その後信元による元康の引き込み工作の折にも妻である於大と同行している。第5回の時点では於大や子女らと共に岡崎城に身を寄せているようで、立場としては元康の家臣に収まっている模様。

於大の方曰く「城攻めの手練れ」…とのことであったが、肝心の上ノ郷城攻めでは城方の頑強な抵抗の前にいいところなしのまま、あっさりと退却を余儀なくされてしまう(一応、その後の家康と於大のやり取りから、約束通り上ノ郷城は貰い受けた模様)。この一連の件も含め、何かと押しの強い於大との対比からかやや控えめな面が強調されている。


久しぶりに登場した第23回では大樹寺に来た義兄の水野信元の処断に関わり完全に意気消沈。

その後、妻の於大に隠居(史実では出奔)する事を伝えるのであった。

続く第24回では妻と共に瀬名の思い描く「慈愛の国」に賛同。誓書を書き記した。

史実では1587年3月14日(劇中における時間軸では第36回辺り)に死去した。


一般には、後年の名乗りである久松俊勝として知られており、『徳川家康』では当初よりこちらの名で登場している。

元NHKアナウンサーの松平定知氏は長家と於大(の四男・松平定勝)の子孫。



久松長家の三男。通称は「源三郎」でのちの松平康俊。於大所生の子としては2番目であるため、番組の公式としては次男と扱われている。

元康(家康)の異父弟に当たり、後に人質として武田家に送り出される。

第16回で武田家での様子が明らかとなり、様子を見に甲斐に向かった服部党の報告から「酷い怪我を負い、心身ともに衰弱しきっている」事が判明。

その後、家康の命令を受けた服部党の活躍によって救出され、医者の治療もあって幸いにも一命を取り留めるが、凍傷により足の指を切除する事になってしまった。


実は酷い怪我を負っていたのは拷問などでは無く、武田家流の武術鍛錬を受けていた事が発覚。

その鍛錬は厳しいものではあったが人質である事もあり、まだ優しい範囲であった模様。

そして、信玄本人から受け取った言付けを家康に話し…。


なお、史実においては1586年(天正14年)(劇中における時間軸では第34回辺り)に35歳(一説には33歳とも)の若さで死去している。



酒井忠次の妻。史実の碓井姫。

元康の父・広忠の異母妹にして元康の母・於大の異父妹(於大の父は母・華陽院(於富)の最初の夫である水野忠政、登与の父は華陽院の二人目の夫である松平清康)であるため、元康から見れば父方母方双方で叔母になる。忠次とは第1回の時点で既に夫婦だったが、史実では桶狭間の戦い以降の再婚で前夫は桶狭間で戦死している。

第39回で忠次の見舞いに訪れた家康らを歓待、その3カ月後鎧を纏ったまま亡くなった忠次を看取った。


史実ではその後、1613年1月に84歳で死去。



安祥松平家と因縁ある大草松平家の当主。元康を殺害して松平宗家を乗っ取ろうと画策する野心家であり、これまで裏切ってきた前科があることから徳川家臣団からの信用はほぼ皆無。

元康らが命からがら織田軍から逃げ延びたところに「今は松平家同士でいがみ合っている場合ではない」と元康を甘言で釣り、元康らが動き出したところを狙って一斉射撃した。史実では、桶狭間の戦い当時48歳の孫(正親)がいた模様。

以降も、三河国内における競合相手として引き続き家康としのぎを削っていたようで、第7回では配下の者が他の勢力と手を組み家康への謀反を企てようと蠢動していたところを、「鷹狩」を口実に西尾へと赴いた信長らによって捕縛されている。自身も第8回にて、吉良と共謀して家康達が一向一揆との戦に苦戦している隙をついて挙兵に及んでいる。一時は自身や吉良のみならず、他の反家康勢力も呼応して家康を窮地に追い込んだものの、家康勢の反攻によって没落の憂き目に遭った。

この一件で昌久は歴史の表舞台から姿を消すこととなるが、大草松平家は昌久の曾孫に当たる善四郎(前出の正親の子)が後に松平信康、そして家康に仕えて大番頭へと出世、再興を果たしている。奇しくもこの善四郎の諱は、作中で家康の改名の際に候補に上がっていたうちの一つと同じ読みの「康安(やすやす)」である(なお、人名としてあまりにも不自然なため、「やすさだ」「みちやす」などの読み方を当てる説もある)。



徳川四天王編集

三河に残る家老のまとめ役。通称「左衛門尉」。のちの徳川四天王における最長老かつ数正と並ぶ筆頭家老の一人。


(史実同様)「海老すくい」なる踊りが得意であり、三河に戻ってきた元康(家康)にも「酒井左衛門尉でございます!酒井海老すくいの!」と海老っぽいポーズをして自己紹介をした。なお、「海老すくい」は三河武士たちに大ウケだったが、駿府育ちの元康には「何が面白いんじゃ…」と飽きられてしまった。また愛妻家でもあり、戦場で怖くなった際には「ここだけの話、妻の柔肌を思い出すようにしています。あれほど気持ちが落ち着くものはございません」と元康に明かしていた。

一方で、松平という家や三河という国を治める上でのシビアな目線も持ち合わせており、あくまでも駿府への帰還を望む元康に対しても、三河平定戦での折に松平が今川から独立したと称して兵を召集したことを明かし、民心が既に今川から離れているという事実を突きつけるとともに織田への転属を、手打ち覚悟で諫言してみせてもいる。

また、第15回の姉川の戦いでは、浅井長政の調略に心が揺れる家康に対し、「義などとは綺麗事、屁理屈に過ぎません!」と一蹴、織田への加勢を促した。


第18回では武田勝頼の軍勢が浜松城に迫る中、数正と共に空城の計を実行。

勝頼がその術中に嵌った事で何とか難を逃れた。


第19回では正室である瀬名の承認も無しにお万の方を孕ませてしまった家康を数正と共に叱責、この事を家中に発表した事で大騒動が起きてしまう。


第22回では設楽原に布陣する武田軍を動揺させるために長篠城の近くにある砦の攻略を担当。

かなり危険な任務であり、家康をはじめとする一同から「死ぬでないぞ」と応援されたため、逆に死んでしまうのではないかと危惧。その後、海老すくいの歌に見送られて出陣し見事に砦を攻略、長篠城にも入り奥平勢を安堵させた。


第24回では瀬名の「慈愛の国」構想に懐疑的ながらも協力を決意、信長に露見後は安土城で五徳の「十二ヶ条の訴状」に基づき申し開きを行っている。


第27回では家康の決意を尊重し、数正らの反対意見を制した。その後家康に従い安土城を再訪、京で信長暗殺計画に向けて準備を進める。


しかし第28回で家康は暗殺計画を断念、「次の機会を待ちましょう」と励ます。その後信長横死の報を受け、三河への逃避行を手助けする。

第29回では数正同様家康と別行動を取るが、特に大きな障害もなく白子浜で家康と合流した。


第31回では羽黒に布陣する森長可勢に奇襲を仕掛け見事勝利、敗走させる。


第33回では秀吉への臣従を提案する数正とあくまで徹底抗戦を主張する忠勝・康政・直政らの対立を抑え、数正に家康と話すことを勧める。そして、家康に数正の出奔を伝えることとなる。


第34回では、数正が出奔した理由を察する様子を見せ、家康の上洛を促す。そして「責めるなら数正じゃ!」と家臣達に数正を痛罵させた。


第35回では家康に従い大坂へ上洛、三成と語らう家康をしみじみと見守った。

また真田昌幸との交渉に参加した。


史実では1588年には長男家次に家督を譲って隠居している。そして眼病を患い京都で療養していたため、第37回の小田原攻めにも不参加だった。代わりに家次が出陣し、下総国臼井(千葉県佐倉市)に封じられている。


第39回では家康・秀忠親子の来訪を人生最後になるであろう海老すくいの舞で歓待。最後の願いとして家康に「秀吉を見限り、天下をお取りなされ」と懇願した。

その3ヶ月後、雪の降る中で甲冑を纏い、70年にも及ぶ波乱万丈の生涯に幕を閉じた。


長篠の戦いにおいて自らの死を意識するセリフを語っていたが、伊賀越え以降は更に多くなる傾向が見られた。しかし、史実では上述の通り70歳で大往生を遂げている

このため、逆に解釈してみると、こういったセリフを乱発する事で死の運命を回避していたとも取れる。


前作の主要人物の1人・大江広元(の五男・海東忠成)の末裔。



本多忠勝

通称「平八郎」。のちに「戦国無双」と称えられる徳川四天王きっての猛将にして、愛槍「蜻蛉切」を操る槍の名手。


初登場時には(大高城から一人逃げ出していたとはいえ)、主君である元康に向かって槍を突き付けるという暴挙に出た挙句、「(将兵を捨てて逃げ出したことが)恥ずかしくないのか!」「俺はお前を主君と認めん!」と吐き捨てた。元服を済ませたばかりの忠勝にとってはこの戦いが初陣であり、当時13歳でありながら、生涯を通じて仕えることができる主人を探し求めている

松平昌久に騙されて多くの兵を負傷あるいは死亡させたことで、自責の念にかられて父や祖父の墓の前で自害しようとした元康の介錯を買って出るも、一方では「俺の父(本多忠高)はおまえの父(松平広忠)を守って死んだ。俺のおじじ様(本多忠豊)はおまえのおじじ様(松平清康)を守って死んだ。ふざけるな。俺の本望は、主君のために死ぬことなんだ」と、涙ながらに本心を明かしており、結果的にこれが元康に自害を思いとどまらせるきっかけの一つとなるとともに、その直後の昌久の軍勢に対する毅然とした様を前にして、忠勝の元康への認識を改めさせることにも繋がった。これ以降もぶっきらぼうな言行は健在なものの、生き別れになった生母の再嫁先とも敵対する元康を慮るかのような様子も見せるなど、元康への態度も若干ではあるが軟化しつつある模様。

以降も上ノ郷城攻略戦や三河一向一揆と言った主要な合戦には必ず参陣しており、徳川軍には欠かせない存在となっている。


なお、史実では忠豊は広忠時代の第二次安祥合戦にて広忠を逃がして討死し、忠高は広忠死後の第三次安祥合戦における安祥城攻めで討死している。

どうする家康 2コマ漫画・3

第3回予告では、倒れている彼の映像と共に「本多平八郎忠勝、討死」という驚くべきセリフが流れて視聴者を困惑させたが、実際の作中では単に気を失って倒れていたのみであり、何事もなかったかのように元康の元に帰っている。忠勝には「戦場でかすり傷一つ負った事が無い」という伝説があり、これを知る視聴者は同話数の放送前から「嘘つくなお前死なないだろ」とのツッコみが複数上がっていたが、一方ではこの前後のくだりと合わせて、敗戦直後の混乱と情報の錯綜ぶりが描かれており、ひいては同様に敗戦後の処理に忙殺され、元康の「離反」を招く格好となった今川の窮状を示す前振りであったとも考えられる。ちなみにこの「離反」に関して、忠勝は織田へ転属すべきと考えていたようで、そのことが原因で元忠や親吉とも諍いを起こしていたりもする。

このように硬骨漢な面の目立つ忠勝であるが、他方で家康らと共に百姓に扮して本證寺の寺内町に潜入した際には、千代の勧めや同行していた康政に連れられたことで女子に声を掛けており、年相応(当時15歳)の反応を見せてもいる。


第13回では家康の供として京への上洛に同行。似たような路地の多い京の街並みに迷った挙句、女性の強い香を嗅いだ事で体調を崩してしまう。

その直後に浅井家の家臣とひと悶着を起こしてしまう羽目になるが、長政の寛大な処置で処罰を免れた。


第17回では「家康に過ぎたる物」の1つとして有名な唐の頭(ヤクの尾の毛を使った兜飾り)が付いた兜を装備して武田軍との戦いに参陣。

久しぶりに戦場に出た叔父・忠真を案じながらも、彼と共に武田軍との死闘を戦い抜く。


そして第18回で、しんがり役を引き受ける事となった忠真と今生の別れを迎える事になる。


第19回では亡き忠真が常備していたであろうひょうたんの1つを身に着けている描写がある。


第20回では岡崎城への救援に康政、虎松と共に出撃。その後発生した大岡弥四郎の反乱も見事に鎮圧した。


第26回では信長に唯々諾々と臣従する家康に対して「織田の足をなめる犬になり下がった」と涙ながらに嘆く様子を見せたが、続く第27話で「信長を殺す」と打ち明けられた際「どのようにおやりなさる」と家康の真意を理解する様子を見せる。


第31回では「俺はお前を主君と認めん!」と言われた過去を家康に懐かしまれるが、当人は「今でも主君と認めておりませぬ!」とはっきり口にした。

しかし、即座に「天下をお取りになったなら、(主君と認めるのを)考えてもようござる」と語ってくれた(実際いつ認めたかについては後述)。


第32回の小牧・長久手の戦いでは肖像画などでも有名な数珠を担いだ甲冑姿となり、小勢で豊臣本軍の足止めを担当する。その際、三方ヶ原の戦いで戦死した叔父・忠真と同じく「ここから先は一歩も通さん!」と叫んだ。

因みにこの時、愛槍である『蜻蛉切』の槍先には蜻蛉が止まっていたが蜻蛉は全く切れておらずピンピンしていてそのままどこかに飛び去っており、視聴者の中には『蜻蛉切なのに蜻蛉切れてない』と言う突っ込みもあった


しかし、第33回では秀吉と信雄が講和、家康も戦う理由を失う。その中で、数正が金品を通じて秀吉と繋がっているとの噂を耳にし、数正への反感を強める。

一方で第34回にて「(数正の事は)好きではなかったが、内心では敬っていた」と明かす(これは康政や直政も同じ思いであった)。そして数正の真意を知り、涙ながらに「数正のあほたわけ!」と罵倒した。


第35回では愛娘・稲のお転婆っぷりに手を焼いている様子が見られた。


第36回では「信用できぬ」という事で稲の真田家への輿入れには猛反対で、更に元忠が自分達を散々苦しめてきた千代を匿っていた事に怒り、鳥居家の屋敷へ殴り込みを行う。千代の事は「真田家が送り込んだ忍び」だと思っており、元忠が篭絡されたのではと解釈していた。

その後、家康の裁定によって元忠と千代が許されるもなお納得がいかなかったが、稲から「彦殿が寝首を掻かれたら、私が真田親子の寝首を掻く。それでおあいこ!」と言われ、更に真田家に嫁ぐ覚悟を見せた際には男泣きしていた。


第37回では小田原攻めの後、上総国万喜(のち大多喜、現在の千葉県夷隅郡)に封じられた。


第38回では家康の名護屋城入りに同行、島津家の将兵から武田信玄と戦った時の武勇伝を語って欲しいと迫られていた。その後、朝鮮出兵が上手くいっていないことを察する。


第40回では家康が政権の表舞台に立つことを繰り返し進言、そして三成失脚後遂に覚悟を決めた家康に「どこまでもついて行きます」と語った。

第41回では会津征討に参陣、その際諸大名の称賛を受ける。

第42回では家康に先立ち西進。その直前に元忠の戦死を知り、一人涙する。


第44回では伊勢桑名へ異動。西に睨みを聞かせるため、絵師に自らの肖像画を描かせるが、康政からは似ていないと指摘される。

更にはふとしたこと(後述)で左手の親指に傷を負ってしまい、戦の無い時代に自分達の居場所は無いと確信、家康に隠居願いを出そうとするが、却下されてしまった。(その理由については家康の項を参照)

その後、再び桑名を訪れた康政(この時点でも肖像画を何度も書き直させており、『絵師もお主を見ずに描いておる』と呆れさせていた)がはらわた(腸)の病を患っていることを知り最後の真剣勝負を行う。その最中、いつから家康を主君と認めていたかを問われ、大樹寺の時点、つまり第二回の時点で主君と認めていたことを打ち明け、「家康を守って死ぬのが本望」と語っていた。


そして1610年12月3日に康政の後を追うかのように死去。残された彼の肖像画は最後の戦いに向かう家康の背中をジッと見つめていた。



本作での忠勝は『真田丸』や『おんな城主直虎』での頑固だが情の厚い人物像を受け継ぎつつも、家康に何かと当たりが強いという独自の設定が加えられている。しかし、忠真らの影響もあり最終的には家康に最も信用された家臣の一人としてその天下取りを支えた

演者の山田裕貴氏は『おんな城主直虎』では庵原助右衛門朝昌を演じている。


因みに、忠勝の逸話として「生涯出陣した戦でかすり傷一つ負わなかった」というものが特に有名だが、第17回の描写からして彼なりの強がりである事がうかがえる(顔に付いた血に関して「返り血じゃ!」と反論している)。また、第32回では康政に「(負傷したことに)気づいとらんだけじゃろ」と突っ込まれているが、その逸話を聞いた敵兵が恐れおののくなど、真否はともかく相手を畏怖させる効果は十分だったようだ。

また、死の数週間前に隠居の身のうえで仏像を彫っている最中に小刀で指を斬ってしまった逸話は蜻蛉切を手入れする際に斬ってしまったというエピソードに変更されており、原因も視力の低下によるものと思わせる描写が追加されている。


楽天創業者・三木谷浩史社長は子孫。



通称「小平太」。登譽上人のもとに寺男として住み着いている。三河の弱小豪族の次男坊という立場から、「自分は立身出世はとうに望めない」と諦めの境地にいる。

「厭離穢土欣求浄土」の言を口にしつつ自刃に及ぼうとしていた元康に、その言の真に意味するところを説くなど立場が上の相手でも物怖じしない一面を持ち合わせており、その元康が決意を新たにし、昌久を相手に堂々と相対して道を開けさせて去っていく姿を見て、目を輝かせていた。

その後は半年ほど元康の小姓として召し抱えられていたようで、第6回の上ノ郷城攻略戦にて、ありあわせの物をかき集めた「ちぎれ具足」を纏ってようやく初陣を果たす・・・のだが、その際に「守りの組はつまらない」と属する隊を自ら希望しては顰蹙を買ったり、最終的に忠勝の隊に属した際にも、その装備の貧弱さを指摘されると当たらなければどうということはない(要約)」と豪語し、早く手柄を立てて忠勝に追いつきさっさと追い越したいと公言して憚らないなど、前述の物怖じしない一面はここでも健在であった。とはいえ、実際の戦では一番乗りを果たしながらも、やはり経験不足は否めず敵兵と一戦交えた際に窮地に陥ってしまい、「助けぬからな」と自身に忠告していた忠勝に助けられる結果となった。

これがきっかけなのか、第7話では忠勝と親友のような間柄になっており(第26回以降は敬語が抜けている)、千代の勧めに乗って忠勝と一緒に女性に声を掛けに行っていた。


第20回では岡崎城への救援に忠勝、虎松と共に出撃。その後発生した大岡弥四郎の反乱鎮圧においては虎松と「あほたわけ!」と罵り合う間柄となっている。


第26話では家康が信長に臣従する様子を酷評したが、於愛の方から「そなたらに殿のお気持ちが分かるのか」と叱られ、渋々ながらも家康の信長を招待する一大接待計画に協力する。


第31回では岡崎城への籠城という正信の策に反して打って出る事を選んだ家康に献策。

「小牧山城を要害にして守りを固める」という案を10日で行おうとしたが

時間を惜しむ家康から「5日」という期日短縮を言い渡され、それを見事に成し遂げた。


第32回では三河への中入りが実施される事が危惧され、小牧山城の堀を掘っていると見せかけて秀吉に感づかれずに進軍するための抜け道掘りの現場を指揮。その際に、忠勝に対して「自分は、武人としての才をお主ほど持っておらぬ」「頭を使うことの方が得意なようじゃ」と吐露していた。

その後、一番槍として池田恒興率いる中入り勢に大打撃を与えた。


しかし、第33回で秀吉と信雄の講和により終戦、数正が秀吉と内通しているとの噂を聞き、数正に対する反感を募らせる。


第35回では家康に従い上洛、小牧・長久手の戦いで秀吉の讒言を拡散したことを渋々謝罪した。

第36回ではおふうと共に氏政の説得に当たっている。

第37回では小田原攻めの後、上野国館林に封じられた。

第41回では会津征討に参陣、その際諸大名の称賛を受ける。

第42回では秀忠軍に補佐役として従軍するが、昌幸の策に翻弄され続け、決戦に遅参してしまう。


第44回では、江戸幕府開闢後も秀忠を公衆の面前で叱責する家康に頭を悩ませており、生涯最後の諫言として「秀忠への接し方を改めてほしい」と家康に懇願。

それを聞き入れた家康から「まだ老いるな」と言われ、これからも徳川家のために邁進しようとするが歳には勝てず、はらわた(腸)の病を患っていることを忠勝に明かし、最後の真剣勝負に挑む。


その後、1606年6月19日に死去した。



今作では『おんな城主直虎』における厳格で冷静沈着なまとめ役としての康政とは異なり、知恵者としての側面は受け継ぎつつも血気盛んな猛将としての面も併せ持つ人物として描かれている。


暫く登場しない時期があったのは演者が同年の民放ドラマで主演を務めていたため。



遠江の豪族・井伊直親の子。父の許嫁・井伊直虎に育てられる。幼名は虎松。一人称は「おいら」もしくは「私」。

第15回の終盤で初登場。舞いを披露しに来た村娘達に紛れ、家康の暗殺を目論むが失敗。

続く第16回ではその場からの逃走を図り、一時は忠勝らを翻弄するが最終的に拿捕される。

暗殺計画に関しては誰から指示された訳でもなく、独断でやった事であると告白。

そして家康を前にして「疫病神」「裏切り者」「武田様こそが領主に相応しい」と容赦なくなじっていくが、そんな彼を見た家康は「今の遠江の民の姿」であるとして、暗殺の罪を放免して釈放。

これを不服とする忠勝らには「次に出会った時に彼が敵になるか、味方になるかはこれからの行い次第」としてその場を取りなしている。


第17回では武田軍の侵攻により混乱状態となった浜松の町で悠々と団子を買い、戦見物にしゃれ込もうとする。

その最中、諜報工作を行う歩き巫女達の姿を目撃。何を思ったのか取り巻きの村娘達と別れ、徳川軍と武田軍が相対した三方ヶ原へ急行。

彼がそこにたどり着いた頃には戦いは既に終わっており、そこで家康の遺体(実際には家康の具足を身に着けた夏目吉信の遺体)を目撃。そしてその目には涙が…。


第19回では三方ヶ原合戦における家康に関する噂話(小豆餅の食い逃げや脱糞を焼き味噌と言い張る等)をする浜松の民を冷ややかな表情で見つめていた。


第20回では徳川家に仕官しており(第32回では鷹狩りの帰りに家康と出会ったとされている)、忠勝・康政と共に岡崎城の救援にはせ参じる。

大岡弥四郎の反乱においては瀬名に女装して首謀者らを鎮圧。その際に康政と「あほたわけ!」と罵り合っていた。

その後、家康と謁見し仕官した理由を問われた際には「民を怖がらせる殿よりも、笑わせる殿の方がいい」「家康を馬鹿にしている民達も内心では平和を掴む事を望んでいる」事と「仮に武田家に仕官しても自分よりすごい奴がいるだろうから出世は望めない」「それに、徳川家には由緒ある家柄の者がいた方がいい…例えば井伊家のおいらとか?」などと語る。そして、家康から武田家への反攻戦に刀持として同行する事を許されたのであった。


第21回では名を「万千代」と改め、家康の小姓となる。

軍義の際についつい口を出しては周りから叱責を受ける羽目を繰り返している模様。


第22回ではまだ小姓であるために実戦に参加できないことに不満を漏らす。

更に忠次の出陣に際し、家康を除く一同が突如海老すくいの歌を歌った事に困惑していた。


第26回では元服して(ただし他の家臣と異なり総髪のままだった)「直政」と名乗り、念願の実戦への参加を許される。

武田家の最終決戦では忠世、於愛と共にある極秘の任務を家康から指示される。


部類の異姓好きで、絶世の美男子とも称された事から周囲に女性(村娘や徳川家中の侍女達)が良く集まっている。

この事についてよく於愛が注意をしているようだが、それに対して「私が女子を好きではなく、女子が私を好きでいるのです」と持論を述べている。また、その際に自らを源義経に例えている。


第27話では家康が信長から安土に接待を受けた際に同行し、安土城の荘厳さに見とれたり、食事の際には信長の「遠慮なさらず召し上がられよ」の言葉が終わるか終わらないかのうちに美味しそうにご馳走を食べていた。


第30回では周囲が未だに「万千代」と呼ぶことを気にしており、その度「直政」と訂正を入れている。この頃から皆と同じように月代を剃るようになった。

北条家との戦に参謀として従軍した本多正信の策を訝しむが、家康から「将になるなら奴(正信)からずる賢さも学ぶがよい」と窘められ、更に旧武田家の将兵を預ける事を伝えられた。


第31回では旧武田家の将兵を預けられた理由を家康から語られ、近いうちに戦が勃発する際に備えて使いこなせるようにする事を誓った。


第32回ではかつての自分と同じように家康の命を狙った正信の過去を知り、家康がなぜ自分達を許し、召し抱えているのかを気にしている。

小牧・長久手の戦いでは鎧も似せることで旧武田家の将兵を完全に掌握、「井伊の赤備え」を率いて池田恒興率いる中入り勢に猛追。多大な戦果を挙げた。


しかし、第33回で秀吉の策略により家康は戦の口実を失う。その中で秀吉と数正が通じているとの噂を耳にし、忠勝・康政同様数正への怒りを強める。その怒りは、秀吉への臣従を提案した数正に「石川数正、謀反の疑いぃ!!」と言って斬りかかろうとまでする程だった(その場にいた元忠に制止されたが)。


第35回では大坂への上洛には同行せず、元忠と交代する形で岡崎城で留守番をする事になる(これはどうやら旭直々の頼みであったようだ)。

そこで、人質として岡崎に来た秀吉の母・大政所に大層気に入られてしまい、食事の時などにも随伴している。

その一方で大量の薪と藁を用意し「大坂の殿にもしもの事があったら、これに火をつけてばあさんを焼き殺す」と、万が一に備えての報復の準備をしており、忠世からもドン引きされるほどだったが杞憂に終わっている。この部分は後述する本多重次の役割も兼ねていると思われる。

その後、家康の帰還に伴う大政所の大坂への帰還に同行する事になる。


第37回では小田原攻めの後、上野国箕輪(のち高崎)に封じられた。

第39回では家康・秀忠とともに忠次を見舞い、海老すくいを舞った。

第41回では会津征討に参陣、その際諸大名から「(容姿が)美しい」などの称賛を受ける。

第42回では家康に先立ち西進、正則ら諸大名の軍監を務める。


第43回では関ヶ原の戦いにて先陣を切る事になり、家康に「取り立てて下さって、ありがとうございました!」と感謝を述べる。

戦いの情勢が決した後、戦場からの撤退を画策する島津勢の追撃を行うが、鉄砲隊の銃撃を受けて負傷。その後、手当てが功を奏して無事に目を覚ました。


しかし、この時の傷が元で病に侵され、関ヶ原から1年半後の1602年3月24日に42歳という若さで死去してしまう。更には死去までの1年半の間、関ヶ原の戦後処理や島津家との和睦などの対応に追われており、休む時間が無かったことが彼の寿命を縮めたとされる。

その後、井伊家は長男の直勝(直継)が継ぐが、病弱であったこともあり、大坂冬の陣へ出兵する際に家康からの直命で次男の井伊直孝が指名された。


なお『おんな城主直虎』では一時期草鞋取りをし、松下虎松を名乗っていたが本作では登場当初から井伊姓であり、小姓として召抱えられている。また、『直虎』同様出世欲が強く血の気の強い人物像だが、その容姿の美しさや女性好きな面がしばしば強調される。

演者の板垣は『青天を衝け』で徳川慶喜の弟・徳川昭武を演じている。



本多氏編集

徳川四天王の一人本多忠勝も一門である西三河の国人領主として松平氏に仕えた一族。

本作では忠勝ら本多平八郎家と正信の本多弥八郎家が登場し、また本作未登場だが『徳川家康』で長門裕之が好演した本多重次の本多作左衛門家も同族である。


【どうする家康】ツイログまとめ

(※イラスト右側の人物)

後に徳川家の参謀となり、主君・家康から「友」とまで称えられることとなる家臣。他の家臣団よりも遅い第5回での初登場であるが、既に初回の大高城への兵糧輸送の時点では元康に仕えていた模様。

が、その兵糧輸送を落馬したと偽って不参加を決め込んだという話からも窺えるように、他の家臣らからは「イカサマ師」「口先だけは器用」「いざ戦になると何かと理由をつけて逃げ出している」とすこぶる評判が悪く、瀬名の奪還計画の折に忠世が推挙しようとした際にも彼以外は猛反発していたほど。とりわけ同じ本多姓の忠真や忠勝は「ニセ本多」とまで言い放つ始末であった。

実際に召し出された際にも、人を喰ったような剽軽な物言いに走ったり計画のために銭を要求したりと、彼等が嫌うだけの理由は十分に示されており、家中では計画が失敗に終わるものと端から切って捨てられていた。実際に成果を挙げられず一旦の帰還を余儀なくされているが、後に引けない正信(と半蔵)は名誉挽回を期して上ノ郷城攻めへの従軍を申し出ることとなる。

彼の提言の結果、鵜殿の子息を生け捕りにすることに成功するも、人質交換に関する今川方との交渉は数正に任されることとなった。なお、交渉役を決める際に「ならば拙者が…。」と申し出るが、ダメ元で言ったのか数正から却下されると「でしょうな!」と返答していた。

第7回では、軍資金の調達に頭を悩ます家康に織田から金を借りることを献策しており、その際信長を恐れる家康を見て「かわいいのぉ」とからかう様子も見せていたが、第8回では一揆勢への攻撃を自ら買って出ながら、例によっての仮病で前線を離れた後に、「軍師」として一揆勢に与していることが服部党の潜入で判明。その背景には、まだ弥八郎と呼ばれていた幼少期に乱取りによって幼なじみのお玉と生き別れになり、長じて後に忠世との共同で野盗を討伐した際に深手を負った彼女と再会しながらも、仏にすがる外ないお玉を救うことが出来なかったという過去が深く関係している。また、寺内町に攻め込んできた松平勢との戦闘での家康に対する狙撃や、賊を討伐した際に見せた弓の腕前から、口先だけでなく武芸についても高い技量を有していることが窺える。

前述した過去もあり、一揆が和睦という形で終息を見た後家康と対面した際には、先の瀬名の奪還計画の件までも引き合いに出す形で、「毎日たらふく飯を食い、己の妻と子を助けるために戦をする」家康には日々の米一粒を殺し合い奪い合う者たちの気持ちは分からないだろうと、一連の争乱における家康の「過ち」を痛烈に批判してみせた。もっともそれと同時に、和睦を方便として争乱を鎮めてみせた家康の成長ぶりを認め、「過ち」に苦悩する姿勢を理解してもおり、最終的には三河からの追放という処分を従容として受け容れた。そして和睦の条件である「寺を元通りに戻す」ことで頭を悩ませていた家康に、「寺のあった場所の元は野っ原故、全てを野っ原に戻す」というとんちの効いた助言を与え、一旦物語の舞台からは姿を消す。


その後、第29回で久しぶりに登場。

百地丹波率いる伊賀者達の軍師となっており、彼らに囚われた家康と再会を果たす。

三河一向一揆での一件を百地に話し、処断を促すように見せながらも、信長の首が見つかっていない事を理由に家康を討っていいのかと揺さぶりをかけ、家康を生かす事に成功する。

その後は白子浜への道行きにも同行するが三河を追放された事を理由に別れようとする。

しかし現在の家康の本拠が遠江の浜松にある事に気づいてしまい、家康からも「気が向いたら浜松に来い」と言われ、満足そうにその場を去っていった。


第30回では鷹の世話役として徳川家に戻ってきたが、北条家との戦に参謀として急遽従軍。

兵力の差を覆す作戦を披露し、見事北条軍を打ち破る。


その後、柴田勝家と羽柴秀吉の衝突に関して「織田家家中の争いには関わらず、勝った方に祝辞を述べよ」と進言。各国を放浪していた際に秀吉の人たらしの力を見た事で彼が危険な相手であると判断しており、数正や忠次もそれに賛同する。


第31回では柴田滅亡後に織田信雄と秀吉の衝突が目前になると、長宗我部元親雑賀衆などの秀吉にいい感情を持っていない諸勢力を味方につけることで秀吉包囲網の結成を画策。しかし、池田恒興が秀吉側に味方したことによりこの策は不完全なものになってしまった。


第32回では秀吉に対する罵詈雑言を一同から募集し、それを康政に書かせてばらまいて挑発するという策を実行。しかし秀吉は驚きこそしたが全く動じなかった。

続いて羽柴軍が「三河に対する中入りを実施するのでは」と読み、それを迎撃するために秘密の抜け穴建設に参加(正信自身は作業している様子が殆ど見られなかったが)。

その際直政に自らの過去として、かつて家康の命を狙ったが後に許された事を語る。そして直政もかつて家康の命を狙うも後に許された事を語ると、「殿は憎まれるのも恨まれるのも苦手なんだろうな」と結論付けた。

戦後は一同と祝杯をあげていたが、忠勝に働きぶりを訝しがられる。正信は「やっとった、やっとった」と返すが顔に泥がついていなかった


第34回では大坂に密偵を放ち、数正の動向を探らせる。


第35回では家康の上洛に同行し、真田昌幸との交渉にも参加している。その際、「ものの道理が分からない」と家康を批判する昌幸に対し、「道理が分からないのは貴殿ではないのか?」と返している。


第37回では秀吉による徳川家の関東移封の撤回に奔走したが、結局覆せず受け入れることとなる。なお、家康はこの件を家中に伝えない方針だったが、正信が忠世を通じて家中に知らせたことで大きな混乱なく移封を進めることができた。作中では描写されなかったが、史実では小田原攻めの後、相模国甘縄(現在の鎌倉周辺)に封じられている。


第40回では、秀吉死後間もない時期はまだ家康が表舞台に立たない方がいいことを進言、代わりに加藤清正・福島正則・伊達政宗らと密かに婚姻関係を結ぶことを提案する。

第41回では「狸はつらい」とぼやく家康の肩を叩いていた。

第42回では康政同様秀忠軍に補佐役として従軍するが、昌幸の策に翻弄され、とうとう本戦には間に合わなかった。

第44回では、家康に征夷大将軍になることを勧め、「徳川は武家、豊臣は公家」として棲み分けることができないか検討していた。その後、将軍職を譲られることが決まった秀忠を「偉大なる凡庸」と評し、平和な世を治めるには最適だと励ましていた。


第45回では前述の「徳川は武家、豊臣は公家」という観点から、秀頼に家康への臣下の礼を取らせるという作戦を講じるもそれを逆に秀頼に利用されてしまう。


第46回では大坂の陣の直前に家康の決意を聞き「某も地獄までお供します」と答え、家康に「嫌な連れじゃ」と返されるといつかの時のように「でしょうな!」と食い気味で返事した。


最終回では大坂の陣が終結したことを受けて「とうとう終わるんですな、長い長い乱世が…」と語っている。その後、家康を見舞い「某ももうじき逝きます」と語りかけたが、実際正信も家康の死から約2カ月後にその後を追うように死去、享年79。


本作の正信は『真田丸』や『おんな城主直虎』における飄々とした策士としての人物像を受け継いでいるが、前述のように戦闘から逃げる・他の家臣を煽るなど嫌われ者としての面がより強調されている

その嫌われ者ぶりは帰参後も相変わらずで、特に忠勝には「ニセ本多」呼ばわりされ続けているが、状況によっては正信の進言に対し数正や忠次らから同意を得るなど、その洞察力はある程度認められている模様。また、上述のように直政と語らうことが多い。

そして回が進むにつれてその人を食ったような態度はある程度鳴りを潜め、他の家臣も以前に比べれば彼に対する苦手意識が薄れているようである。


演者の松山は『平清盛』以来の大河ドラマ出演。同時期放送の民放ドラマにも出演していたため今作では『清盛』のように地毛ではなくウィッグを使用している。



正信の長男で、家康に仕える頭脳明晰な若き英才。

正信が三河を追放された際には大久保忠世に引き取られ、「父のようになってはならない」と教え込まれて育ったとのこと。

第44回で初登場、「これからの世を治めるためには父のような生き方を許さないことが重要」として朱子学による綱紀粛正を図る。


第45回では秀頼に家康への臣下の礼を取らせるという作戦を提案した父・正信に憤慨していた(なお、息子からの反発を当の本人は柳に風と受け流していた)。

第46回では大坂城への砲撃を指揮し、続く第47回では本来大坂方の担当であった堀の埋め立てを「手伝い」と称して勝手に行い「卑怯者」呼ばわりされていた

最終回では父親と共に病床の家康を見舞い、この時自力で歩くこともままならなくなった正信を背負っていたことから、親子仲はある程度修復されていたものと思われる。


史実ではその後も幕政運営に携わるが、1622年謀反の疑いをかけられ改易されてしまった。



忠勝の叔父で、生まれる前に父・忠高を亡くした忠勝の育ての親。

酒癖の悪い酔いどれ侍で、仲間内からは「飲兵衛殿」と呼ばれている。

忠勝が家康に対して不躾な事を言う度に罵声混じりの注意をするのがお約束となっていたが、最近では沈静化。初回での大高城への救援以来、家康による軍事行動にも度々参加していたが、第11回の時点ではそれまでの痛飲が祟ってか臥せりがちであることが、忠勝によって言及されている。

第16回で久方ぶりに登場。第17回では忠勝にその身を案じられつつも36年前に豊臣秀吉を演じた昭和の名俳優のごとく「酒はもうやめた!」と言い張り、武田軍最強と名高い赤備え軍団と相対して生還する。


そして、第18回で康政と忠勝を逃がすべくしんがり役となり「ここから先は一歩も通さん!」と叫び、かつて『平清盛』で演じた源義平を思わせる奮戦ぶりを見せ武田軍に特攻し戦死した。

忠勝との別れ際に「好きなんじゃろうが!おめえは殿を守れ、大好きな殿を!」と励ますかのような言葉を送っている。



忠勝の長女。後の小松姫

第35回で初登場。於愛が手を焼くほどのお転婆な性格で、浜松の領民達への施しに用意された団子を勝手に食べ出す程。

父である忠勝もそのお転婆ぶりには苦労しているようで「このままでは輿入れ先がござらんでなぁ!」と、於愛に「一層厳しくしつけて欲しい」と懇願している。当の本人は厳格な父に苛立ちを感じ、反発しているようだ。


第36回では忠勝によって幼少期から武芸を教え込まれて育っていた事が判明、猛将と称される忠勝の娘に恥じない実力を持っている。

当初は真田家に嫁ぐ事については父共々猛反対であったが、元忠が千代を匿っていたという事件を知り考えを改める。

そして、家康の裁定とはいえ真田の忍びかもしれない千代が元忠の妻となる事に納得がいかない忠勝に対して「彦殿が寝首を掻かれたら、私が真田親子の寝首を掻く。それでおあいこ!」と説得。

真田家を「自らが嫁ぐに相応しい戦場」として、輿入れを決心するのであった。


第42回では信幸不在の沼田城の留守を預かり、城の近くに来た義父・昌幸と義弟・信繁の軍勢を大叔父や父と同じく「ここから先は一歩も通しません!」と追い返し、城の占拠を断念させる。その後、昌幸の「孫に会わせて欲しい」という願いを聞き入れ、子供達を引き合わせた。

しかし馬からの下馬は認めず、それを聞いた昌幸は軍勢を率いて沼田城から離れていった。

そんな義父の姿を見て「戦が終わったら、また会いに来てください」と囁くのであった。


最終回では天海僧正が主導となって行われた家康の生涯に関する編纂作業に瓜二つの人物が参加、関ケ原の戦い前夜、伏見城で盃を交わした家康と鳥居元忠の逸話を候補に挙げている。



石川家編集

元康(家康)に従い駿府で支える家臣の一人で、家臣団の中では酒井忠次と並ぶ筆頭格。頼りない家康を叱咤激励して奮起させたり、三河の実情を彼に説いたりする重臣。

人質交換の際には自らの申し出で交渉役を担当する。その後激高した氏真によって斬られそうになるも、巴と氏純の嘆願により事なきを得、竹千代を抱きかかえて瀬名と共に松平の陣へ帰還する。

第15回では浅井長政の調略に動揺する家康に対し、忠次とともに「三州錯乱」や「三河一向一揆」などを引き合いに「あのぐっちゃぐちゃをもう一度やりますかな?」と問い、信長への加勢を決意させた。


第19回では正室である瀬名の承認も無しにお万の方を孕ませてしまった家康を忠次と共に叱責。その際にはかなり大きな怒号を挙げていた。


第29回では忠次同様家康と別行動を取り、白子浜で合流した。その際「道中で寺の世話になった」旨の発言をしている。


第31回では家康の名代として大坂に来訪、秀吉に信長の形見である茶器「初花肩衝」を献上した。


第32回では秀吉と和睦を結ぶべきと提案するが、徹底抗戦を唱える忠勝達に押され気味となる。

戦後、陣内が勝利に湧く中1人今後の情勢を案じていたようで、家康に「秀吉は我らの弱みに付け込んで来るでしょう」と進言、それは的中することとなる。


本能寺の変前後から他の家臣(特に血気盛んな忠勝・直政)と意見の合わないことが増えた数正。

第33回で大坂を再訪、秀吉に真田との同盟をチラつかされ「もう一戦やるきゃ?」と脅される。そして武力のみならず経済力もつけた秀吉を「化け物」と評し、家康に秀吉への臣従を提案する。

しかし、家康はあくまで徹底抗戦を主張し忠勝らも賛同、数正は岡崎城代を解任される。その後忠次の勧めもあり家康と対談、「そなたがいなければ戦はできぬ」の発言を聞く。

そして数正はこれ以上の戦をやめさせ徳川を守るには自分が身を引く他ないと判断、秀吉のもとへ出奔し「吉輝」と改名する。(因みに、数正は一時「康輝」を名乗っている)


第34回で正信が密偵を放ち、彼の身辺を調査したところによると、「屋敷を出る事は殆どなく、一種の飼い殺し状態にされている」事が判明。自らの身を挺して豊臣家と徳川家の争いを止めさせた事が明らかになっている。

更に、屋敷に木彫りの仏像と築山屋敷の花で作った押し花を残しておいた事が、家康に秀吉への臣従と大阪への上洛を決心させる事に繋がった。

なお、数正本人は大坂で鍋と穏やかに暮らしており、これまでにない笑顔を見せていた


史実では、小田原攻めの後に信濃国松本を与えられ、松本城築城及び城下町建設などに尽力している。そして1593年(92年など諸説あり)に死去した。


演者の松重氏はBSプレミアムで放送中の『英雄たちの選択』のナレーションを担当、本作の紀行コーナーである「どうする家康ツアーズ」のナレーションも担当している(作中で数正が徳川家を去って以降も最終回まで継続していた)。



数正の妻。

第31回で初登場し、数正の命で岡崎城に詰める。

第33回では数正の出奔に従い大坂に向かう。その際、櫛などの金品は屋敷に残していった。



数正の嫡男。人質となった於義伊(後の結城秀康)の側近として大坂に派遣される。

史実では、数正の死後家督を継承するが、城下町建設などで重い負担を強いたとされる。



鳥居家編集

元忠の父で松平家(徳川家)家老の中の最長老…なのだが、高齢ゆえ歯が抜けて何言ってるのかさっぱりわからない。普段は元忠などが通訳をしている。それでも武将としての戦意は衰えておらず、フガフガ言いながら敵中突撃して雑兵と渡り合うなど勇ましい姿を見せたり、義元討死の一報を「織田方の虚報にあらず」と察したりと頭もきれる。

松平昌久の騙し討ちの一斉射撃により負傷、一時は生死の境をさまよったが幸いに一命をとりとめる。

蓄財術にも長けており、ひそかに軍資金を貯めていたことを明かし、元康を驚かせる。

第9回では、相次ぐ家臣の裏切りに思い悩む家康に対し、「主君というものは、家臣を信じるしかない」「主君が家臣を信じねば、家臣も主君を信じない」と助言を与え、家康の「それでも、裏切られたらどうする?」という問いに対しても、「そうなったら仕方がないから、謀反の疑いがある者は悉く片っ端から殺すべし」と、前年の大河にて主人公が取った選択を彷彿とさせるような答えを出し、結果的に家康を奮起させる一因を作り上げた。


その後、第27回における家康と信長の対談中に「古い家臣」として登場しており、あの時の言葉は今の家康にも深く染み渡っているようだ。


なお、史実では1571年5月7日(劇中における時間軸では第16回あたり)に没している。



忠吉の息子(次男)。通称は彦右衛門で、元康(家康)からも「彦」と呼ばれることが多い。数正や親吉と共に元康に従い、駿府にて彼を支えている家臣の一人でもある。

やや軽率な発言が多く、服部党を嘲笑したり信玄の死を喜んだりしては家康に叱られている。しかし徳川家への忠誠心は強く、また掛川城攻めでは家康・親吉とともに氏真の亡命を見届けた。

更に第30回では正信の献策した指示に従い北条軍への奇襲を実行、大打撃を与える事に成功した。しかし、第33回では忠世、親吉と共に真田家の本拠である上田城の攻略を行うが惨敗に終わった。


第35回では家康の上洛に同行している。しかし、なかなか秀吉に名前を覚えてもらえないという不遇な扱いであった。(面識は何度かあるはずだが…)


第36回では家康が密かに探していた千代を匿っていた事が判明

その件が守綱により発覚、忠勝が鳥居家の屋敷に殴り込んだ事で大乱闘になるが、於愛と家康の裁定により千代と夫婦になる事が出来た。

因みにこの一件は「家康が武田氏重臣であった馬場信春の娘を元忠に捜索させたが、その元忠が彼女を妻にしてしまった」という逸話をモデルにしているとする考察が視聴者の中でなされている。


第37回では小田原攻めの後、下総国矢作に封じられる。


第41回では会津征伐に向かう家康の指示で、伏見城の守りを任される。

その際に「三千もいれば充分、一人でも多くの兵を連れて行ってくだされ」と、自らの兵力より家康の兵力を優先させるよう懇願する。

なお、その際千代の尻にしかれていることを語っていた。


第42回では伏見城に立てこもり、2000という寡兵を以て石田軍25000(小早川軍の合流で40000に増加)の大軍相手に戦うが左近が放った大筒の直撃を受けて重傷を負う。更には手薄となっていた松乃丸を落とされ、伏見城を枕に討ち死にする覚悟を決める。

その後、手負いの状態ながら石田軍の兵士と戦うが、雑賀鉢を被り鉄砲を得物とする石田軍の武者(役名表記は無かったが、兜が雑賀鉢だったりすることなどから鈴木重朝と思われる)から狙い撃たれる。しかしそれを千代がとっさに庇い、互いに支え合う形となって再度戦いを挑む。


そして「殿…お別れだわ」「浄土で、待っとるわ…!」と言い残し、伏見城の陥落と共に戦死した。享年62歳。


この13日間にも及ぶ死闘は、結果的に三成の足止めに繋がり、家康勝利の遠因の一つとなった。そして、元忠をはじめとした将兵の流した血が染みついた伏見城の床は「血天井」として徳川家の菩提寺・養源院に今も残されている。


史実では兄と弟・忠広がいたが、忠広は三河一向一揆に参加して家康と敵対し、後に帰参を許されるも三方ヶ原の合戦で戦死している。

子孫には大石内蔵助がいる(父方の祖母が元忠の孫)。



服部党編集

どうする家康 2コマ漫画・5

代々松平家に仕えていた伊賀忍者の一族「服部党」の当代の頭領。諱は正成。父・半三保長の代での失敗で服部党は半ば逼塞状態にあった上、亡父からの遺言や「武士」という身分への拘りから忍び仕事に対しても否定的な素振りを見せていたが、正信からの誘いに折れて服部党を再招集、瀬名奪還作戦に乗り出すこととなる。

生活に困窮していたとはいえ、火事場泥棒も同然な振る舞いに走り、金さえあればどのような仕事も請け負う服部党の面々を「哀しきやつら」と卑しむ様子さえ垣間見せていたが、奪還計画の頓挫やその際自分を生かそうと散っていった大鼠らの思いに触れたことで、それらを背負う形で上之郷城への潜入と鵜殿長照らの生け捕り策を具申する。

棒手裏剣等はノーコンだが、第6回では忍びではなく武士という自認を裏付けるように自ら槍を振るって勇ましく戦う姿を見せ「鬼半蔵」の片鱗を見せた。また、この時の活躍によって長照の子息らを生け捕りにするという手柄を挙げたことで、嫌っていた服部党の面々を見直しかける…も、やはりまだまだ完全に心を許すには至っていない模様である。

一向一揆戦では、家康の命令を受け女大鼠と共に寺内町に潜入して空誓の暗殺を企てたが、裏切り者の軍師が正信だったため計画を中止した。


第16回では武田家に人質に取られた源三郎を救出、無事徳川領まで送り届けた。

第19回では家康の要請によりお万の方を医者に診せ、彼女が懐妊し主君に世継ぎが生まれたことに対しては嬉しく思う反面、お手付きした件については笑いを堪えきれずに退室した後に爆笑していた。


第24回では女大鼠が利き腕を負傷した事に責任を感じており、彼女に「もう忍び働きをやめてはどうだ」と言い、更に「おなごの幸せってのは男に可愛がってもらう事だろ?」と告白に近い言葉を投げかけたが、逆に「殺すぞ」と冷ややかな言葉を返されてしまった。

その後は築山での瀬名の様子を家康に報告している。


第25回では信康の逃亡計画に参加するが、紆余曲折を経て切腹した信康の介錯を引き受ける事になる。


第26回では天正伊賀の乱で信長に蹂躙され、生き延びた伊賀者100名を保護し、彼らを戦力として手懐ける事を家康に報告している。なお、他の家臣達と異なり総髪のままだった(山田がウィッグを使わず地毛で演じているため)。


第29回では家康の伊賀越えを手助けする。甲賀で多羅尾光俊の歓待を受けた際には大鼠共々毒味と称して赤飯などを大量に食べていた

また、伊賀で百地丹波に囚われた際には、「自分が家康だ!」と他の服部党共々家康を庇った。その後白子浜で家康から正式に士分に取り立てると伝えられた。


第37回では小田原攻めに参陣、他の家臣と異なり具体的な所領は与えられなかったものの、家康の下で引き続き服部党を統率する。

第38回では朝鮮出兵の実態を探り、難航していることを突き止める。


史実では1596年に亡くなっており、子の服部正就が後を継いでいる。


演者の山田は、大河ドラマへの出演は『葵徳川三代』以来であり、同作では家康の孫である家光の幼少期(竹千代)を演じている。また、実写版『信長協奏曲』で羽柴秀吉(今川方の元忍びという設定)を演じたことがある。



服部党に所属していた年老いた忍び。忍びらのまとめ役のような立場で、正信から計画の成否を問われた際にも「出来る出来ないは考えない」「やれと言われたことをやるのみ」と、忍び仕事への意識の高さを窺わせる答えを返している。

計画が頓挫し深手を負ってなお、頭領である半蔵を逃がすべく囮になることを即断、自分達が死んでも銭が妻子らの元に渡るならそれで構わないと割り切った様子を示しており、そうした生き様は半蔵の心境にも変化を生じさせる格好となった。



女大鼠 其の二

大鼠の娘で、亡き父の跡と名を継いだ服部党の女忍び。

上ノ郷城への夜襲が初陣となった。卓越した身体能力と忍術で敵方を圧倒するほどの実力を持っており、半蔵の右腕となる。

第16回では半蔵と共に武田家に潜入し、源三郎の救出を実行。途中望月千代ら歩き巫女の猛攻を受けて負傷し、半蔵と源三郎を逃がすべくしんがり役を務める。その後、負傷しながらも無事半蔵と合流を果たした。

第24回では負傷した右腕の機能回復訓練を行っていたが、以前のように手裏剣が投げられずにいた。

それを見ていた半蔵から「もう忍び働きをやめてはどうだ」と言われ、「おなごの幸せってのは男に可愛がってもらう事だろ?」と告白に近い言葉を投げかけられるが、差し出された花に食らいつき「殺すぞ」と冷ややかな言葉を返した。

その後築山にて潜入捜査を行い、今川氏真夫妻をはじめ多くの人々が集っている場面を目撃する。

その際に千代に見つかってしまうが、交戦はせずにそのまま退却した。


第25回では瀬名の逃亡計画に参加するが、紆余曲折を経て自害した瀬名の介錯を引き受ける事になる。


第29回では半蔵らと伊賀越えに参加するが、甲賀では半蔵共々毒味と称して赤飯などを次々と食していた。また、伊賀では半蔵らと同様に「家康は自分だ!」と家康を庇っていた。


第38回では、朝鮮出兵の実情を半蔵とともに探る。



大久保氏編集

三河に残留している家臣の一人。自称「三河1番の色男」・・・なのだが、歳のわり(史実では桶狭間の戦いの時点で27~28歳)に髪が薄くなっており、髷をゆえるかどうか怪しいレベルになってしまっている(本人曰く「まだ少しは結える」が、第26回で月代になって更に少なくなった)。だがそのことさえも笑い飛ばし、一座を和ませるなど家中のムードメーカーでもある。


第5回では、瀬名達を助けたい元康に「面白きことを考えつく奴」として本多正信の名前を出し、彼に引き合わせてもいる。

その際、「かつて、西三河を荒らしていた盗賊を騙し討ちにして一網打尽にしたことがあり…」とも語っていることから、正信とは旧知の間柄であることが窺える。

第9回の正信の回想では、恐らくここで語られていた野盗の騙し討ちの場面が詳しく描かれており、忠世自身も野盗を相手に斬り合いを演じていた他、寺内町での一揆勢との戦闘では鉄砲で正信に手痛い一撃を与えてもおり、単なるムードメーカーではない一面も示している。

史実では出奔した本多正信の妻子を預かっており、徳川家中のなかで数少ない正信の友人という設定もこの史実からきているものと思われる。その際、正純に対しては(あくまで本作の設定だが)正信を反面教師として養育していた模様。


第26回では武田家の最終決戦において出陣の指示は出されなかったものの、於愛・直政と共にある極秘の任務(織田信長接待の準備)を家康から指示される。


第29回では本能寺の変の報を聞き、謀反の理由について「やれたからやった、までのことかと」と真相を図りかねる様子だった。


第35回では直政と共に大政所の警護に当たり、家康にもしもの事があったら彼女を焼き殺すことも辞さない直政を「やり過ぎではないか?」と諫めた。また、昌幸との交渉にも参加したが、第一次上田合戦で大敗したことへの遺恨からか、彼の余りに不遜な態度に激怒していた。


第37回では小田原攻めに際し、正信に関東移封を家中に伝えるよう頼まれた。彼がその通りに忠勝らを説得したおかげで、大きな混乱なく配置換えを進められた。

そして忠世は北条氏の拠点だった小田原城を任されることとなる。


その後、1594年(文禄3年。劇中における時間軸では第39回辺り)に死去。彼の治世は後の時代において小田原藩の礎となった。


一心太助でお馴染みの大久保彦左衛門は28歳年下の弟。


演者の小手氏は『真田丸』では塙団右衛門を演じている。



忠世の従兄弟。

上田城での戦いにおいて伝令役を任されていたが、利根川を渡る際に真田方の忍の策略により盗賊・農民らに書状を奪われ、取り返したものの伝達に大幅な遅れを生じさせてしまったため切腹しようとするが、秀忠に制止された。

史実では松平清康広忠の時代に活躍した忠俊(忠世の父・忠員の兄)の子。



  • 大久保忠隣

忠世の長男。本作には登場していない。秀忠付きの家老として武蔵国羽生2万石を与えられていたが、父の死後、家督を継ぎ小田原6万2千石を領する。

2代将軍・徳川秀忠の側近として老中に就任、権勢をふるい本多正信・正純親子と対立する。



その他徳川家臣団編集

数正らと共に駿府にて元康(家康)を支えていた家臣の一人。通称は「七之助」で、元康からも「七」と呼ばれることが多い。後述する渡辺守綱は妹婿に当たる。

家康が岡崎から引間(浜松)に移った後も岡崎に留まり、信康の補佐を務めている。

第22回では五徳からの折檻を受けるようにと数正から指示されるが、当人はまんざらでもない様子であった

第23回では水野信元の粛清に立ち合い、久松長家を人質に取って逃亡しようとした信元にとどめを刺した。

第25回では自身の小刀を奪い自害しようとした信康を必死に制止し、信康の意を汲んだ半蔵の介錯を泣きじゃくりながら必死に止めていたものの、彼の想いも空しく信康はそのまま半蔵の介錯によって自害を果たしてしまった。


第37回では小田原攻めの後、上野国厩橋に封じられる。


第42回では先に逝ってしまった者達に思いを馳せ、家康に「この世を浄土としましょう!」と硬い決心をぶつけている。


史実では関ヶ原の戦い後は厩橋から甲府を経て犬山藩主となり忠吉死後に清洲藩(のち尾張藩)を継いだ家康九男の徳川義直を支え、1611(慶長16年。劇中における時間軸では第45回辺り)年に逝去。



「鬼半蔵」こと服部半蔵(正成)に対し、「槍半蔵」の異名を取る勇将。熱心な一向宗の門徒でもあり、作中でも本證寺の寺内町に屯していたのが初出である。前述の平岩親吉は義兄(妻の兄)。

見た目に違わず豪胆な性格の持ち主で、百姓に扮して寺内町に潜入した家康・平八郎・小平太相手にだる絡みし、尊大な態度で接していた。一方で酒が入っていたのもあってか面識があったはずの彼らの正体に即座に気付けないなど粗忽な面も見せている。流石に主君を殴ったことに対しては負い目があったようで、一向一揆の蜂起に際しては半ば自暴自棄のような形で家康の元を去り、一揆勢に与している。

一揆終息直後の動向については作中では割愛されているが、史実においては夏目広次らと同様に帰参を許されており、以降も家康を支え続けた。第10回では女好きな面も描かれており、冒頭で女中の一人を口説いていたが、お葉に止められてしっかりと制裁を喰らった。

第15回では最大の見せ場のあったはずの金ケ崎退き口の奮闘がナレーションで処理される不遇な目にあってしまったが、第18回では忠世と共に武田軍を相手に戦い、槍半蔵の名に恥じない活躍を見せている。

記録では神君伊賀越えにも参加したとされているが、作中には登場せず、以後も存命しているにもかかわらず姿を見せなくなっていた。

(この出番の無さをメタ的に解釈すると、演者の木村氏が多忙でスケジュールの都合が悪く、ロケに参加する事が一時期難しくなっていたのかもしれない。)


その後第36回で再登場、元忠が千代を匿っていたと家中に言いふらしたことを忠世に説教され、正信に頬を叩かれる。その後、忠勝が鳥居家の屋敷に殴り込みをかけた際には汚名返上と言わんばかりに仲裁を図ろうとするが、元はと言えば彼が騒動の原因であるため、忠勝に蹴飛ばされていた


第38回では家康の名護屋城入りに同行。

島津家の将兵から武田信玄と戦った時の武勇伝を語って欲しいと迫られていたが、その途中で足利義昭を目撃。思わず手を出しそうになるが、忠勝によって止められる。


第41回では会津征討に参陣するが、忠勝らとは違い諸大名からは「え、誰?」と言われており、他の家臣程知名度は高くない様子が見られた。

第42回では伏見城陥落と元忠の死、更に石田軍の要衝である岐阜城を正則が陥落させた事を家康に伝えている。


第43回では関ヶ原の決戦に従軍。小早川軍の参戦で戦況が決定づいたのを見て、「これだけの数の兵が乱れるとえらいもんですな」と戦々恐々していた。


第46回では亡き徳川四天王に代わって大坂の決戦に従軍、将兵の指南役を務める。その際、過去に家康の頭を引っ叩いたことを引き合いに出され、「ぶったたいて下さい!」と許しを乞うが、いつかの時のように正信に叩かれる。しかし、その後「お主のような兵が、わしの宝であった」と感謝の言葉を送られた。


なお、大坂の陣の時点では、徳川四天王をはじめ家康の家臣は殆ど亡くなっており、作中では正信と守綱のみが存命であった(奇しくも、両者は三河一向一揆で家康を裏切っている)。


頼光四天王の1人渡辺綱の末裔とされる。

史実ではのち親吉同様、義直の附家老となり親吉と家康の死後も尾張藩を支え続け1620年まで生きた。



三河に残っていた家臣で文官。家臣団の中では些か影が薄いのか、初対面の際に元康(家康)に覚えてもらえなかったことをちょっと気にする素振りを見せている他、その後も「広信」「吉次」と名前を間違えられたりもしている。家康曰く、「自分でもわからんがつい間違えてしまう」とのことである(なお、これについては重大な伏線が用意されていた)。

第8回では、一揆勢側に着いた家臣達と対峙し結果的に殺してしまったことを後悔し、忠義との板挟みで苦悩し、最終的に一揆勢へと寝返るに至った。その際には前述した名前の間違えもまた離反の一端にあるだろうと、家康に対し数正らが指摘してもいる。その後の一揆の戦後処理において、家臣からの助命懇願が出ているのもあって一揆勢に寝返った罪を不問としてもらい、その席でようやく家康に名前を正しく呼んでもらえるに至った…のだが、第15回でもやっぱり名前を間違えられている。


第18回で本名が「吉信」である事、家康が幼少期の頃に一番遊んでくれた相手(この時は髭を生やしていた)であった事、そして「広次」の名は家康が織田家に拉致された責任を取って腹を切ろうとした際に亡き松平広忠から「新たにやり直すため」に与えられたものである事が判明。

浜松城で後詰を任されていたが、三方ヶ原の大敗を聞き家康の救援にはせ参じる。そして、家康が身に着けていた具足を拝借し、身代わりとなる事で武田軍を陽動する事を思いつく。それに気づいた家康は止めようとするが、康政らに止められてしまう。

別れ際に「殿は、きっと大丈夫」と言い残し武田軍と交戦、戦死。

その首は信玄の元に差し出されるが、当の本人は家康の首では無いと気付いていたようだ。


本作では上記の通り、一次史料上で確認できる「広次」の名乗りが採用されているが、一般には「吉信」の名乗りで知られている他、史料によっては正吉とするものまであり、本作における「名前をしばしば間違えられる」というネタもこれに起因したものではないかと見る向きもある。そしてそれが、第18回の展開に繋がる伏線となった事に多くの視聴者が涙する事態にもなった。


史実における広次の妻の父は秀吉が織田家に仕える前の主人だった松下之綱。之綱の娘りんの婿柳生宗矩義兄弟、宗矩の息子十兵衛義理に当たる。また、どうする家康虎の巻では夏目漱石の先祖と説明されていた。



家康の側近で、通称は「長吉」。熱心な一向宗の門徒であったことから、第7回にて家康らが本證寺に潜り込んだ際には案内役を務めており、その際渡辺守綱とも面識があることにも触れられている。

一向一揆発生後、自らも一揆勢に加わりつつも家康のそばに居り、家康自ら手勢を率いて本證寺を攻めた際には罠へと誘導。これにより狙撃された家康は窮地に陥るも、主君への忠義を捨てきれず身代わりとなって深手を負い、裏切りを詫びながら生命を落とした。また贖罪の意もあってか、今わの際には家中に未だ裏切り者のいることを知らせているが、皮肉なことにこれが家康の猜疑心をますます煽ることとなってしまう。第42話では元忠と千代の会話で名前が登場しており、少なくとも元忠からは仲間の一人と認められていた様子。

土屋氏は『鎌倉殿の13人』に登場した土肥実平の弟・土屋宗遠や宗遠の養子・義清(岡崎義実の次男、佐奈田与一の弟)の末裔を称し重治の子孫は旗本として徳川幕府に仕えている。



家康の命により、信康の補佐として岡崎城の奉行を務める切れ者。瀬名や譜代の家臣らからも信頼を寄せられていた。

しかし第20回で武田家に内通し、賛同者と共に反乱を起こすが、浜松から救援に来た忠勝らの活躍によって鎮圧。描写はないものの、その後処断された模様。実際、史実では鋸引きの刑に処されている。

今作品においては、武田と内通した動機は、前述したように「優勢な武田に組みしたい」及び「対武田戦に疲弊し、その疲れから脱するため」とされた。


『三河物語』などにおいては大賀姓として表記され、『徳川家康』でもこれに準じているが、本作では岡崎地方に伝わる史料に則る形で大岡姓とされている。同時代に徳川家臣であった大岡忠勝・忠政父子は本家筋に当たると見られ、江戸時代中期に江戸南町奉行などを歴任し、『大岡越前』などの創作物などでも知られる大岡忠相はこちらの子孫である。



諱は重英(しげふさ)。信康の重臣・鳥居久兵衛の家臣。ふくよかな体格が特徴。

大岡弥四郎の反乱に同調しようとしたが、瀬名から手厚い介抱を受けた事で考えを変え、涙ながらにそれを報告。反乱鎮圧の立役者となった。その後は築山屋敷で門番を務めている。

史実では、1588年(天正16年、劇中における時間軸では第36回辺り)に岡崎で同輩の渥美弥三郎という武士と口論になった末殺害されており、所領の一切を没収されたが、養子の重次が仇討ちを果たして認められ、翌年に300石を与えられて家名を再興した。


なお、演者は前作『鎌倉殿の13人』で工藤茂光役を演じている。



第37回で初登場した、江戸の土地開発担当代官。

家康も驚くほどの独創的な方法で、荒れた江戸を発展させていく。


史実では父が三河一向一揆において家康と敵対した事が原因で、終結後は正信共々出奔。

その後帰参し、信康の直臣となるも「築山事件」によって再度出奔。その後は家康の伊賀越えに貢献した事で、再びの帰参を許された。

以降は小田原攻めの後、武蔵国小室1万3000石に封じられ、1610年(劇中における時間軸では第44回辺り)に死去。忠次の死後は長男・忠政が家督と関東郡代を継ぎ才覚を発揮し徳川二十八神将の一人に数えられた。

しかし、忠政は1618年に34歳で早世したため忠次の次男・忠治が旗本となり兄から関東郡代を世襲した。



家康の協力者・顧問など編集

茶屋四郎次郎 模写

諱は清延。京を拠点に商いをしている元三河武士の商人。家康上洛時に彼の元に馳せ参じる。

家康に南蛮菓子のコンフェイトの入手を依頼され、それを見事に成し遂げた。恐らくではあるが、忠勝らが身に着けている唐の頭のついた兜は彼から買い付けたものと推測される。

その後、第26回で再登場。家康が信長への大規模接待を行うと聞き京から遥々馳せ参じ、必要な資金等を援助してくれた。


第27回では信長打倒を覚悟した家康のために、本能寺の見取り図や武器などを支援してくれた。

史実では1596年(慶長元年。劇中における時間軸では第39回辺り)に逝去。


ネットでは中の人が2019年の『いだてん』で金栗四三を演じたこともある何かといだてんネタとクロスオーバーされていたが、第28回では本能寺の変を家康一行に知らせるため京都から堺まで約60kmもの長距離を走破するという健脚を見せた


演者の勘九郎氏は石田三成を演じている七之助氏の兄。



諱は清忠。初代四郎次郎こと清延の長男。

第41回で勘九郎氏が親子二役を兼任する形で再登場。ポルトガル語を話せるという理由で、家康の元に連れて来られたウィリアム・アダムスの通訳を担当した。

史実では1603年(劇中における時間軸では第44回辺り)に早世している。



奥三河の作手地方(愛知県新城市)に拠る国衆。父・定能が於大の従兄弟であるため、貞昌は家康の再従兄弟になる。

作手奥平家は桶狭間の戦い後は今川→徳川→武田と主家を変え、信玄の没後に再び徳川に寝返った。長篠城主として武田との戦いの最前線に立たされる一方、武田への再離反を防がんとする信長の意向により、家康の娘である亀姫を妻として娶ることとなる。

第21回では岡崎から帰還し、援軍が来る事を伝えに来た鳥居強右衛門の最期を見届け、慟哭する。そして第22回では忠次の救援に歓喜した。

史実では再婚であり、前妻は武田の人質で夫の離反の報復として貞昌の実弟と共に処刑され梟首されたという。

第22回以降は登場しなかったが、小田原攻めの後に上野国宮崎(小幡)に封じられている。

関ヶ原の戦いの後は1601年まで京都所司代を務め、美濃加納(岐阜)10万石を与えられた。その後、1615年3月(慶長20年。劇中における時間軸では最終回辺り)に60歳で死去。



奥平家に仕える地侍の一人。ふくよかな体型で、ふだんはやる気も勇気もないことから「ろくでなし強右衛門」と呼ばれているが、長篠城包囲戦に際して主君・貞昌の命で岡崎城の家康の元へ救援を求める使命を任される。体型に似合わず健脚の持主で長篠から岡崎までの往復130kmを走破している。

第21回ではその顛末が描かれ、一度は武田軍に屈しそうになるも、長篠城に援軍が来る事を伝える。

その後、勝頼の命によって磔にされるが「援軍は必ずくるのでそれまで持ちこたえる」事と、主である貞昌に「亀姫はとても良い姫君である」事を伝え、処刑された。

登場しなかったが子の信商は関ヶ原の戦いで安国寺恵瓊を捕らえる手柄を立てている。



臨済宗の高僧で江戸幕府の政治顧問。外交や寺社行政を担当。

第45回では、「方広寺鐘銘事件」で家康の諮問を受ける。諮問では羅山と反対の見解を述べながらも「…と、豊臣は申すでしょう」と纏める独特な言い回しで秀忠から「お前はどっちの味方なんじゃ!」とツッコまれている。



儒学者藤原惺窩の門人で朱子学者。若干23歳という若さで家康の助言役となる。

第45回では、「方広寺鐘銘事件」に際し崇伝と同様に家康の諮問を受ける。



日本名である「三浦按針」の名でも知られる英国出身の航海士。

第41回で初登場。関ヶ原の戦いが勃発する半年前(1600年1月ごろ)に日本・豊後臼杵に漂着。自らを含め僅か24人しか生き残ることができず、積載していた武器やカトリックイエズス会宣教師から「プロテスタントは海賊である」と主張したことから海賊と誤認され、大坂城へ移送された。処分は家康に任せられたため、家康と謁見。その際に自分達の目的や国際情勢、キリスト教の新旧宗派対立を臆せず説明したことで家康は興味を示し、彼らを庇護するようになった。

その後は朝鮮出兵後の対外関係に頭を痛める家康の相談役となり、やがては江戸に招かれ、外交顧問として重用される。


第45回では三浦按針と名を改め、家康にからくり時計を献上。そしてイギリス製の大砲買い付けの依頼を受けるが、その威力の恐ろしさを知っているからか一度は躊躇うも、家康は「あくまで抑止力とする」と話したため、それを承諾した。



卓越した知識と教養を持ち、家康に取り立てられ暗躍、遺言を託された天台宗の高僧。

前歴は不明で「山崎の戦いを生き延びた明智光秀が名を変えた」という説も後世で出てくる程謎多き人物としても知られる。

家康の死後、「東照大権現」として神格化を図り、久能山東照宮から日光東照宮に改葬したといわれ、今作でも大権現として尊敬を集めるように家康の生涯を(彼に関する逸話を「ろくなのがねえ」と毒づきながら)編纂している。

ちなみに、演者の小栗氏は前作『鎌倉殿の13人』で主役の北条義時を演じ、それに合わせてか義時が仕えた源頼朝を「実のところどんなやつかわかりゃしねえ」と評すセリフもある。本作への出演は『鎌倉殿』最終話にゲスト出演してくれた松本氏への恩返しとも言える。


なお、天海には上述の通り明智光秀の後身説という俗説があるためか天海は『麒麟がくる』で主役の光秀を演じた長谷川博己氏、小栗氏は北条義時が何らかの形で物語にからむ役か、伊達政宗役での登場を望む声も少なくなかった。



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