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概要編集

西郡局は、徳川家康の側室であり、三河国宝飯郡の武家・鵜殿氏の出身。「お葉」とも呼ばれていた。


西郡局の実父は柏原城主鵜殿氏に従った加藤氏といわれる。加藤氏は信濃国の出身で、元は三好氏といって父の代に三河に移って加藤氏の名跡を称し、領内の定期市運営を担当していたことが知られる。柏原鵜殿氏は「上ノ郷城主鵜殿長持の弟長祐―長持の次子長忠」と続いた鵜殿氏の支流で、永禄5年(1562年)に上ノ郷鵜殿氏は徳川家康に攻め滅ぼされたが、他の鵜殿氏支流は徳川氏に服した。


西郡局は柏原鵜殿長忠の娘という身分で徳川家康の側室となり、永禄8年(1565年)家康の次女督姫北条氏直正室、のち池田輝政継室)を産んだ。天正18年(1590年)に家康が江戸城に移るとそれに従った。鵜殿氏の菩提寺だった長応寺は永禄5年の上ノ郷城落城の戦火で焼失していたが、西郡局は下ノ郷鵜殿氏出身の長応寺住持日翁に帰依して多大な寄進を行い、江戸に長応寺を復興させた。


慶長11年(1606年)伏見城にて急死した。法名は蓮葉院日浄。同日には幕府重鎮の榊原康政が死去しており、西郡局は池田輝政の岳母、康政は輝政の長男利隆(輝政の先妻である中川清秀の娘の子)の岳父と共に池田家縁者だったため、人々は不思議に思ったという。家康の命により輝政が葬式を執り行い、京都本禅寺に葬られた。翌年輝政は居城である播磨姫路城外に青蓮寺を建立して墓所を移したが、元和4年(1618年)輝政四男の山崎藩主池田輝澄(督姫の子)が現在の兵庫県宍粟市山崎町山田に100石を寄進して移転している。池田家は寛永17年(1640年)播磨国を離れたが、青蓮寺は幕府より特別の保護が与えられて存続した。


後世の作品における西郡局編集

NHK大河ドラマ編集


葵 徳川三代編集

演:岩本多代

概ね史実通り。


どうする家康編集

演:北香那

罠にかかったイノシシを鉈一本で〆る程の胆力を持っており、更に真面目で働き者であることから、側室を探していた瀬名と於大に見初められ、家康の側室となる。

後に家康との間に娘のおふう(督姫)を儲けるが、それから程なくして実は同性愛者であった※事を家康に打ち明けており、当初は他に想い人がいると聞いて激昂した家康も、流石にこの事実には当惑を禁じえず「自らの胸のうちにしまう」として不問に付している。

その後も家中を取り仕切る現代で言うメイド長のような役割を果たし、要所要所で気配りの良さを見せている。


世継ぎが重要視されていた武士の世において、女児一人しか産まなかった彼女が離縁されなかった理由について史実では未だに不明だったものの、それを百合を描写することで解決するという大河ドラマでは異例すぎる展開を行った。

※ただし、史実の彼女が同性愛者だったという資料は今のところない、あくまでこのドラマのオリジナル設定である。


関連タグ編集

徳川家康 側室

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