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秀吉包囲網

ひでよしほういもう

戦国時代に羽柴(のちの豊臣)秀吉に対抗するために結成された包囲網。合計2回結成された。
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背景編集

戦国時代後半、織田信長日本の半分以上を制覇していた。しかし、重臣・明智光秀による謀反・本能寺の変にて横死。嫡男・信忠も討たれた。

しかし、織田家重臣・羽柴秀吉が光秀を討ったにより織田政権の混乱は一時的に沈められる。


その後、秀吉ら織田家重臣による清洲会議により、信忠の嫡男・三法師(のちの織田秀信)が織田家当主となるも、まだ幼い三法師の後見者について織田家中で意見が分かれた。秀吉は信長の次男・織田信雄を支持するも、もう1人の織田家重臣・柴田勝家は信長の三男・織田信孝を支持。信雄と信孝(実質的には秀吉と勝家)の対立は深まった。


第一次秀吉包囲網編集

期間編集

1582〜1583年。


概要編集

秀吉と柴田は、それぞれ味方作りに奔走する。

秀吉は織田信雄を担ぎ、織田家重臣・丹羽長秀や信長の乳兄弟・池田恒興を味方につける。さらに、美濃の有力武将・稲葉一鉄や柴田と敵対する上杉景勝を味方につける。

一方の柴田は織田信孝を担ぎ、織田家重臣・滝川一益や秀吉と敵対していた長宗我部元親雑賀衆土橋胤継も味方につける。


なお、かつて秀吉と争った毛利輝元足利義昭に柴田に味方するよう命令されるも、秀吉との和睦を理由にこれを拒否して中立。他には、織田と同盟を締結していた徳川家康は上杉景勝と対立していたため、織田家中の騒動を気にしている余裕はなかった。


そして秀吉と柴田軍は賤ヶ岳の戦いにて激突。柴田軍は中川清秀(秀吉側)を討ち取るも、前田利家佐久間盛政が戦線離脱したことにより敗北。勝家は北庄城の戦いにて自害した。その後、織田信孝も秀吉側に本拠地・岐阜城を包囲されて自害した。


参加勢力編集


第二次秀吉包囲網編集

期間編集

1584年。


概要編集

秀吉の支持により、織田信雄は織田家の実質的当主となった。しかし、両者の友好は短いもので終わった。その理由は、秀吉の狙いは織田政権の傀儡化にあったからだ。

信雄は、秀吉と通じていた家老三人を処刑する。これをきっかけとして信雄と秀吉は激突。信雄は徳川家康と共に秀吉と戦闘を繰り広げ、長久手合戦にて池田恒興森長可を討ち取り勝利。

その間、別の地域でもこの戦いと連動した合戦・対立が繰り広げられた。


信濃では、秀吉と組んだ上杉景勝が徳川家康を牽制。さらに越中において上杉軍は佐々成政(家康の同盟者)と戦闘を繰り広げた。関東地方では家康の同盟者・北条氏直佐竹義重(秀吉の同盟者)などと戦闘を繰り広げた。家康と組んだ四国の長宗我部元親や紀州の雑賀衆は畿内における秀吉領を牽制した。


前述した長久手合戦に敗北した秀吉は、とある策を思いつく。その内容とは、織田信雄の本拠地へと侵攻し、信雄に対して有利な形の講和をさせるというものだ。この策は実行され、信雄は秀吉と講和。これにより大義名分を失った家康も秀吉と和睦し、包囲網は実質的に瓦解した。


参加勢力編集


その後編集

羽柴改め豊臣秀吉は織田・徳川毛利上杉真田などを臣下にし、長宗我部と島津を降伏させる。さらに北条を滅ぼして天下統一を果たす。

しかし、秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が江戸幕府を開き、豊臣氏を滅ぼした


関連タグ編集

豊臣秀吉 上杉景勝 毛利輝元

織田信孝 柴田勝家

織田信雄 徳川家康 織田長益 長宗我部元親 北条氏政氏直

賤ヶ岳の戦い 小牧・長久手の戦い

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