概要
永禄8年(1565年)~慶長20年(1615年)頃。
一説には、生誕したのは天正4年(1576年)ともされている。
服部半蔵の初代である服部保長の孫で、2代目こと服部正成の長子。通称は「源左衛門(げんざえもん)」。
弟には、自身から後に「服部半蔵」の名を引き継いで4代目となる服部正重がいる。
正室は松平定勝の長女・松尾。彼女の父である定勝は家康の異父弟でもあり、これは実質的に服部家と徳川家が血縁関係になる事を意味している為、家康から相当の期待を抱かれていた事がうかがわれ、松尾自身も家康の母である於大の方の侍女として使えていた経歴がある。
また、家康の子達の中では次男に当たる結城秀康と関わりが深かったとされており、弟の正重が関ヶ原の戦い本戦でやらかしを行って家康からの不興を買ってしまった際は、彼の執り成しによって正重は許しを得るに至っている。
生誕が永禄8年(1565年)の場合、いつから戦場に出陣していたかは不明となっているが、15歳くらいの時には既に父・正成と共に戦場へ出陣し、家康に仕えていたとされており、小牧・長久手の戦いや小田原征伐でも、徳川軍として参加したとされている。
なお、生年が永禄8年(1565年)の場合だと、実は森蘭丸や伊達政宗、真田信之、真田幸村といった戦国時代でも有名な人物達と同年代となり、蘭丸に至っては同じ年で、同じ徳川家の家臣では本多正信の子・本多正純とも同じ年となる。一方、天正4年(1576年)の場合だと秀康と同年代となる。
「服部半蔵」の襲名
本格的に徳川家家臣として活躍していくのは、慶長元年(1596年)の12月末に、父・正成が没してからで、長男かつ嫡男であった正就が3代目服部半蔵を襲名。伊賀流の忍者で構成された伊賀同心達200人の支配役を任される事になる。
この時期、当時の天下人であった豊臣秀吉が病没したのを皮切りに、主君である家康は五奉行の石田三成と政争を繰り広げ、更には他の五奉行や前田利家を始めとした同じ家老達である五大老とも確執を深めていく等、抜き差しならぬ一方となっており、後に「天下分け目の戦い」とされる関ヶ原の戦いへ発展した事からも、必然的に徳川家の家臣となる正就もまた、同心支配役就任の早々より多忙を迫られる事になったと言える。
関ヶ原の戦いの前哨戦と言える会津征伐時も参戦し、本多忠勝、渡辺守綱、水野正重らと共に家康の護衛に当たっている。また、関ケ原の戦いへ発展した後は、本戦にこそ参戦していないものの、西軍側へ与していた上杉家の牽制役の一人として大田原城に派遣され、伊賀者や甲賀者の100人達と共に、白河城へ籠った上杉景勝の進軍に備えて防衛を担っている。
関ヶ原の戦いが終結してから1年後となる1601年の7月には大田原城から撤退し、その後は江戸において家康から征夷大将軍の座を引き継いだ徳川秀忠に仕える事になった。
なお、伊賀忍の抜け忍とされている石川五右衛門や、北条家に仕えた忍者で盗賊に成り下がった風魔小太郎の捕縛に、少なからず関わっていたとされているが、こちらに関しては創作の可能性も否定出来ない。
改易と顛末
慶長10年(1605年)、同心の支配役を任されたに過ぎない正就が、同心達を家来扱いしているとして、同心達の殆どが武装して四谷長善寺に立て篭る事件が発生。現代でいうストライキである。立て籠った同心達は、正就の支配役解任と自分達の与力への昇格を要求し、この騒動の結果、正就は本多正純によって役を解かれる事になった。
更にその後、自身を追い落とした同心達を逆恨みした正就は、騒動の首謀者である同心10人の死罪を要求し、その内の8人が処刑され、逃げた2人を追った末に別人を殺してしまった結果、完全に職を失い、浪人にまで落ちぶれてしまう事になった。
浪人になった後は、妻の父である伏見藩の松平定勝の下に召し預けられた。その後、定勝の伏見城代就任に伴い同行し、後に許されて定勝に仕える身となっている。
慶長20年(1615年)、汚名返上を狙い、家臣の長嶋五左衛門や従者達と共に松平忠輝の軍に属して大坂・夏の陣に参加する。
しかし、運の悪い事に自身が所属する軍の指揮官である忠輝が問題を起こした(将軍・秀忠の旗本を「無礼討ち」と称して斬り殺してしまった)挙句に軍を大幅に遅らせてしまった結果、戦場に辿り着いたのは中盤以降になってしまった挙句、最終決戦となる天王寺口の戦いにて消息不明となってしまう事になった。
一説では、汚名返上が出来なかった事を恥じて自刃したとも、主君や妻子の元に帰るに帰れず、農民として余生を過ごしたとも言われている。また、別説では伊賀の同心支配役を解任された後も同心達から邪魔者扱いされ続け、汚名返上されて支配役に戻ってしまう事を恐れた同心達に暗殺され、遺体も処分されたとされている。
これらからも、歴代の服部半蔵の中でも謎の多い末路を遂げてしまったと言える。
冤罪の可能性
同心達が正就に反抗して起こした騒動の一件に関しては、正就一人が一方的に立場の悪いものとなっている事から、正就を貶める為に同心側が仕組んだ陰謀説も囁かれている。
この騒動を起こした張本人である同心達は、実の所、「父・正成から支配役を引き継いだ正就個人に反感を抱く様になった」のではなく、「前任であった正就の父・正成の頃より、服部家が同心の支配役である事にずっと不満を抱いていた」というのが真相である。
しかも、その動機は「服部家が支配役になったのは正就の祖父である保長が他の伊賀者よりも先駆けて徳川家に仕えたからに過ぎない。その服部家は支配下に置かれている自分達よりも家格が下なのに支配役なのはおかしい」というかなり傲慢な物となっており、この為、正成の子で父から世襲で同心達の支配役を任されていた正就もまた、同心達にとって嫉妬の対象となっていた可能性も十分にあったと言えるのである。
また、自分達伊賀側が同心であるのに対し、甲賀側は関ヶ原の戦いにて一部の同心達が裏切って西軍側につくという失態を犯したにも拘らず、幕府から格上の与力として扱われていたのも、不満の理由としては十分なものと思われ、その不満の矛先がと当時の支配役であった正就に向けられてしまっても、何らおかしくはないと言える。
そもそも、伊賀流の忍者達は金銭的利益の為ならばいかなる勢力にもつき、同胞同士での殺し合いも厭わないという無節操な部分があった。
服部家に不満を抱き騒動を起こした同心達の中にもまた、不義理で忠節に欠けていると言わざるを得ない者が多かった様で、『慶長見聞記』によると、家康が正成の協力を得て「伊賀越え」を行った後、鹿伏兎までの護衛を頼んだ家康の要求を正成を除く一部の忍者達は拒否。その後になって家康が天下を取った途端、鹿伏兎までの護衛を拒否した忍者達が家康に奉公を願い出ている等、図々しさを見せていたとされている。
この経緯から家康からも、「服部家を覗いて伊賀集達に忠節深い者がいるとは言い難い」と見なされ、最終的に最も徳川に尽くした服部家が同心達の支配役を任されるに至ったのである。
これらからも、「正就が騒動を起こした首謀者の死罪を要求した」という話も、増長し始めた伊賀同心達を危険視した本多正信・正純父子や天海といった徳川家の重臣等によって、同心達への牽制として家康に進言したという説もある(実際、宇喜多秀家の家臣達が同じく主君に反感を持って立て籠った「宇喜多事件」の場合は、裁定を下したのが家康で政治的対立が激しい状況だったとは言え、かなり穏便な形で処断が行われている)。
更に、「同心達が寺に籠った騒動」自体に関しても、後年の創作である可能性が出始めている。
『武徳編年集成』という資料には、この騒動に関する記録が記載されており、それによると「正就の性格が短気かつ粗暴で、支配下の同心達の妻に手を出していた為に、我慢のならなくなった同心達が立て籠もり騒動を起こした」となっている。
しかし、この資料は戦国時代の終結より実に100年以上も経った寛保元年(1741年)に成立した物で、つまり本人を含めた当事者達がとっくにこの世を去っている為、言ってしまえば「どうとでも都合の良い様に編纂も可能」だったのである。
実際、この武徳編年集成の内容は、それ以前の資料や正就の次男が幕府へ提出した訴状と内容が大きく異なる物となっており、正就は何も言えなくなった死後にて、その経歴を大きく辱められてしまった可能性も高いようである。
なお、正就が改易された実際の理由は、「騒動を起こした同心達の取り調べが行われ将軍・秀忠のお目見えを迎えようとしていた前日に、密かに病を患った身内を見舞いに行った事」や「その帰りに同行していた家来に因縁をつけて刀で切りかかって来た伊奈忠次の配下である足軽を防衛の為に切り殺してしまった事」にあったとされている。
ちなみに、正就の支配役解任を進言した本多正純とは、正就と不仲であったという説もある。
果たして正就の身に起きた改易騒動に関して、何処までが真実で嘘なのか、今後の研究が待たれる所である。
創作作品
長らく「伊賀流忍者の支配役であった服部家を凋落させた元凶」として語り継がれた事もあってか、創作作品における正成の扱いはすこぶる悪いと言わざるを得ない。
それでも、弟の正重に比べればまだ目立っている部分もあると言え、見方によれば身内に陥れられる形で破滅したキャラクターにもなる(事実、歴代の服部半蔵の中には、正就の境遇を菅原道真に例えていた者もいるとされている)。
また、父親の正成と同様に本来は武将であるのだが、登場する際は殆ど忍者として扱われる。
最後の伊賀者
司馬遼太郎作の小説。
通説通り、服部家の凋落を招いた変節漢扱いされているのだが、この作品における正就の扱いは特に酷いと言える。
作者の司馬氏本人によるオリジナルの登場人物(伊賀者)から悉く反抗的な態度を向けられ、大坂の陣にて暗殺された挙句、敢えてその遺体を隠す事で、「汚名返上の為に戦場に出陣していながら死を恐れて逃亡した」と見せかけるよう偽装される等、徹底的に辱められる事になっている。
仮面ライダー響鬼(小説版)
三代目服部半蔵として登場。
飄々として気さくさを見せる等、忍者らしくない人物と言えるが、化身忍者を相手にそれなりに戦える等、常人離れした身体能力の持ち主。
しかし…
BRAVE10
CV:櫻井孝宏
家康や秀忠との年齢差から、モデルとなったのは三代目の正就の可能性が高いとされている。
真田十勇士達にとって目下最大の宿敵で、伊賀異形五人衆を従えている。
戦国武将姫MURAMASA
戦国武将全員を美少女化させたソーシャルゲーム。
褐色の肌が特徴のくノ一として描かれるが、能天気でかなりのドジっ子。
なお、母親の正成が爆乳の持ち主であるのに対し、貧乳。