概要
講談社キャラクター文庫から発売された、特撮番組『仮面ライダー響鬼』のノベライズ。作者はきだつよし。
他のライダー小説が現代を舞台にしているのとは異なり、本作は江戸時代を舞台に初代響鬼の活躍を描いている。
また、本作では『響鬼』のイメージモチーフとなった変身忍者嵐ともコラボが行われており、響鬼ら「鬼」と嵐が手を取り合い巨悪に立ち向かっている。そのため、仮面ライダーの小説でありながらバイクはほとんどと言っていいほど登場しない。
なお、映画『7人の戦鬼』とは世界観が異なるが(向こうにも初代響鬼が登場している)本作がTV版の遠い過去を描いた物語かどうかは不明のままである。
舞台設定・用語解説
吉野
鬼たちの住む隠れ里。本来、鬼は安倍晴明ら陰陽師の系譜を引く戦士であり、朝廷の庇護下で平安京を襲う魔化魍を倒していた。しかし魔化魍があらかた駆除された後、武士が台頭したことにより鬼たちは奈良・吉野の山中に潜伏を命じられ、表舞台から姿を消すこととなる。
吉野の住民は鬼の血族(ただし能力は遺伝しないので自力で鍛えなければならない)か魔化魍に親を殺された孤児のどちらかである。
伊賀
徳川家康の配下として台頭した初代服部半蔵の孫、三代目服部半蔵が率いる忍者集団。江戸幕府を守護する。
血車党
『変身忍者嵐』序盤の悪の組織。
動植物の能力を手に入れた改造人間「化身忍者」の集団。化身忍者は物理攻撃しかできないため、魔化魍を倒すことはできない。
登場人物
響鬼サイド
ヒビキ / 響鬼(初代響鬼)
本作主人公。23歳。
太鼓の音撃の発案者だが、小さい頃に太鼓の音撃によってサキやイブキを危険な目に遭わせたことがトラウマになっており、魔化魍狩り以外に特に目標を見出だすことが出来ずにいた。
TV版におけるヒビキさんが落ち着いた大人の戦士であるのに対し、こちらは戦いに対して迷いが見られる一面があり、どちらかというと同じくきだ氏がメイン脚本を務めた仮面ライダーウィザードの操真晴人に近い性格。
サキ / 佐鬼
本作のメインヒロイン。19歳。
魔化魍に親を殺された少女で神楽鈴を使った音撃を使う女性戦鬼。男勝りなはつらつとした性格で敏捷性は吉野一とされる。
鬼の例に漏れず変身が解かれると全裸になり、しかも堂々と裸を見せる。
イブキ / 威吹鬼
先代が早逝したことにより、鬼の頭領の座を継いだ少年。16歳。
源義経にも例えられる美貌の持ち主でヒビキ、サキとは大の仲良し。この時代にはトランペットが無いため、横笛で魔化魍を清める。
まだ若いが、頭領の血筋ならではの鋭い洞察力の持ち主でもある。
キドウ / 鬼堂
イブキの側近を務める巨体の鬼。破戒僧のような外見。
ヒビキを時には厳しく、時には優しく本当の息子のように可愛がっていた。巨大な法螺貝を武器に魔化魍を清める。
キリュウ / 鬼龍
イブキの側近を務める美青年。傷病により鬼を引退している。ヒビキの兄貴分。
嵐サイド
ハヤテ / 変身忍者嵐
自ら志願して鷹の能力を持つ化身忍者になった男。
抜刀の際の澄み渡った金属音を使って変身する。父の汚名をそそぐために「変身忍者」を名乗って戦い、死闘の末に血車党を壊滅させた。
化身忍者には容赦しない冷徹な戦士だが、誤解で戦ったサキに何度も謝るなど礼儀正しい面も見られる。
谷の鬼十
ハヤテの父親で元は吉野の鬼。
傷病を患った者、体力に劣る者でも鬼の力を得ることができる「鬼の鎧」を開発したが、それを危険視した吉野上層部により追放された。
「化身忍者」も鬼の鎧と同じく弱者を守るために開発した技術だったが、それを悪用されてしまったことを悔やむ。
名張のタツマキ
かつてハヤテと共に血車党と戦った老忍者。しかし腕は衰えていない。
カスミ
タツマキの娘。かつてはくノ一としてハヤテに協力していた。現在はハヤテを人間に戻すため医学を学んでいる。
ツムジ
カスミの弟でタツマキの息子。
魔化魍
ヤマアラシ
牛に似た姿をしている、身長7尺ほどの巨大な魔化魍。全身から針を発射する能力を持ち、タツマキを食おうとしたが響鬼にあっという間にやられた。
ドロタボウ
集団戦を得意とする人間型魔化魍。サキの神楽鈴で清められた。本来は夏にしか現れないはずだが……
ツチグモ
6つの眼を持つ虎に似た巨大な蜘蛛の魔化魍。不死身であり嵐を苦戦させるも響鬼に倒される。
ヤマビコ
大猿のような姿の魔化魍。口から腐食性の衝撃波を放つ。複数個体が登場するがイブキとキドウによって倒された。
余談
『響鬼』で時代劇を描くのは『7人の戦鬼』という先例があるが、同作の企画段階では主演の細川茂樹氏は反対していた。
その理由は時代劇の大変さであり、特に史実上の人物が絡んでくるといった作品ならば猛反発していただろうと語っている。しかし、時代劇というよりも時代を巻き戻したファンタジーであったため細川氏も納得することができたという経緯を持つ。
史実上の人物が登場するこの小説版は細川氏の理念とは相反し、映像作品ではない(=細川氏が関わっていない)から描けた作品と言える。