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概要編集

生没年 ?~嘉慶元年・元中4年(1387年)7月


南北朝時代に活躍した南朝方公卿・北畠親房の三男、顕家は長兄。一説には中院貞平の子で親房の養子になったともされている。


建武2年(1335年)、父・親房、次兄・顕信とともに伊勢に下向。

建武5年・延元3年(1338年)5月22日、鎮守府将軍として関東に拠点を置いていた長兄・顕家が河内国石津において北朝方・高師直に敗れ討死。

この年閏7月、長兄・顕家に代わって東国支配に乗り出した父・親房、次兄・顕信に代わって伊勢国司に任じられ、多気城を拠点とする。


観応3年・正平7年(1352年)、北朝方の内乱(観応の擾乱)に乗じて後村上天皇らとともに京の都に進軍、京を守護していた足利尊氏の嫡男・義詮佐々木道誉らを追い払うが、すぐに勢いを盛り返した義詮に京の都を奪い返されてしまう。

しかし、南朝方はこのとき、北朝方の光巌上皇光明上皇崇光上皇を連れ去り、吉野に幽閉、「三種の神器」まで持ち去ったことにより、北朝は朝廷の正当性を失ってしまう。あわてた尊氏・義詮父子は仏門に入ることになっていた光厳上皇の第二皇子・弥仁親王(いやひとしんのう)を皇位につけて北朝を再興、後光厳天皇とした。


以後、対北朝の強硬派として活躍、顕能が嘉慶元年・元中4年(1387年)に死去し、明徳3年(1392年)に南北朝合一がなった後も北畠家は室町幕府に滅ぼされることなく伊勢国司を世襲、具教織田信長に滅ぼされるまで伊勢を支配しつづけた。


関連タグ編集

南北朝時代(日本) 北畠親房 北畠顕家

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