概要
出自
壬生綱重の二男。壬生綱房とは兄弟である。「徳雪斎周長」の名でも知られる。
生年・出自に関しては他にも様々な説があり、壬生綱雄の弟である説。壬生綱長(こちらも謎が多い人物で壬生氏庶家の鹿沼壬生氏の人物の可能性を指摘されている)の嫡子説などがある。
生涯
宇都宮氏の軍師として活躍しており、大永元年(1521年)の川井合戦では那須氏・岩城氏に和睦を進言したという。兄の壬生綱房の勢力拡大に貢献した。
天文18年(1549年)に宇都宮尚綱が喜連川五月女坂の戦いで戦死すると徳雪斎は壬生綱房・壬生綱雄に従い宇都宮城へ侵攻し、城を乗っ取った。
壬生氏が宇都宮城を占拠している間も、徳雪斎は壬生氏当主の手足となり、芳賀方の祖母井城を壬生連合軍(塩谷義孝・上三川氏・西方氏、那須資胤など)とともに攻め落としている。
壬生綱雄が宇都宮城から退去させられ、芳賀高定の支援によって宇都宮広綱が宇都宮城に帰城し、その後綱雄が没する(芳賀高定・宇都宮広綱・壬生徳雪斎らによる暗殺の可能性がある)と徳雪斎は突如、宇都宮方に離反し、鹿沼城(壬生氏の本拠)の城主になり、鹿沼・日光山の支配者となる(鹿沼壬生氏)。
その後は宇都宮家の重臣として佐竹義重、蘆名盛氏、小山秀綱などと直接書状のやりとりを行い、宇都宮氏の外交を担っていた。親後北条氏方で壬生城を拠点とする壬生氏嫡流の壬生義雄とは対立していた。
天正4年(1576年)頃には宇都宮広綱が花押が自筆できないほど衰弱しており、その前後の間、家臣間で宇都宮氏の権力を巡っての争いが勃発していた。徳雪斎は旧壬生領の日里郷を巡って芳賀高継と対立し、天正2年(1574年)には武力衝突にまで発展している。
天正7年(1579年)に壬生義雄軍と交戦し、討死した。徳雪斎の死後、鹿沼・日光は壬生氏の手に渡り壬生氏の再統一が成った。