18世紀半ば~19世紀初めの欧米に栄えた芸術潮流。
古典主義とはいわゆるルネッサンス、古代ギリシャ・古代ローマの芸術を模範として復興する運動である。だがあえて「新」古典主義と名乗った理由は、当時の貴族たちによるバロック・さらにはロココといった芸術文化が洗練されているが退廃的で軽薄であり、新たにルネッサンスで着目した古典主義芸術を復興すべきであるという批判的な精神に根差している。
18世紀半ばにはポンペイ等の発掘が行われ、古代文化の史料が急増した時期でもあった。ドイツの美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが1755年に『ギリシア美術模倣論』を公刊、これをきっかけに静謐で知的な古典芸術の復興が叫ばれるようになる。この主張は先述の反貴族主義とともに、フランス革命の理論的支柱にもなっていった。
イタリアの画家ピラネージが発掘された遺跡の風景を細密な版画に再現すると、多くの建築家が関心を寄せて新古典主義建築が成立した。代表作例はパリのパンテオン、エトワール凱旋門、マドレーヌ寺院などが挙げられる。
フランス革命の絵画としての新古典主義の流れの中心に立つのはフランス革命を芸術界の中心で支えたジャック=ルイ・ダヴィッドである。代表作は『マラーの死』『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』(メイン画像参照)など。その弟子であったドミニク・アングルもまた、線を重視した均質美によって新古典主義をリードした。作例は『グランド・オダリスク』、『ルイ13世の誓願』など。また、同じくダヴィッドの弟子ジャン・グロは主にナポレオン・ボナパルトの戦いを描く画家として活躍する。
だが、フランス革命が知性の復興どころか反対者の虐殺や諸民族の弾圧へと進展していくに伴い、個人的なあるいは多様な民族的な感情の発露を主軸とする芸術が生まれてくる。これがロマン主義である。
その後は写実主義や印象派といった完全に古典を離れて目の前の現実をそのまま描写する潮流が勢力を増して新古典主義に固執する官展(サロン)は古臭くなっていく。しかしイギリスにロセッティ・ミレイらラファエル前派というラファエルより前の初期ルネッサンス・中世美術に見られた古典としての誠実な精神と宗教性を取り戻そうという立場が生まれる。運動としては短期で瓦解するが、後に古典を内的観念の発露に用いる象徴主義の成立をもたらしていき、新古典主義の精神は違った形で再生していくこととなった。