ブラウザゲーム、御城プロジェクトにおいて擬人化されたキャラクターに関しては佐賀城(御城プロジェクト)を参照されたし。
概要
この城は龍造寺家兼や龍造寺隆信などの龍造寺家が拠点として使用していた城郭である。そのため、別名佐賀龍造寺城とも呼ばれ、佐嘉城とも呼ばれる。
なお、その後佐賀城がその後権力を握った鍋島直茂により同地に建築されたため詳しい状況は不明となっている。
歴史
この城はおそらく平安時代に竜造寺家(肥前東部に平安時代地頭として着任したものが土着した一族、藤原氏の流れをくむとされる)が拠点としたとされ、その時点で城が建築されていると思われるものの、いつ陣屋から城になったかなどは歴史にこの城が登場しないため詳しいことはわからない(南北朝時代には城郭は存在した模様であるが、室町時代には存在する)。
この城が歴史上に登場するのは戦国時代、龍造寺隆信の時代、大友宗麟とのいざこざからこの居城を攻められ、籠城を行ったことによる(なおこの戦いは永禄12年および元亀元年の二回行われ、後者は今山の戦いとして知られ、籠城中に家臣であったのちの鍋島直茂の奇襲により敵方の対象であった大友宗麟の弟大友親貞を打ち取った)。
また、過去に存在した与賀城や水ヶ江城も近辺に存在し、後期にはこの城の一部として取り込まれた可能性も存在する。
その後龍造寺隆信は強引な戦略により人望を失った挙句敗死、部下であった鍋島直茂が実権を握る。そして彼が正式に支配者と認められたのち慶長7年にこの城を改築し始め、慶長13年には東に拡張整備する形で佐賀城を建築した。
調査等
この城は文献によると近世佐賀城の北西の隅に位置し、佐賀城の天守とは逆側に存在していたものと推測される。
pixivにおいては
pixivのタグとして擬人化されゲームに登場する姿のイラストしか存在しない。
関連項目
参照
大坪芳典 2011 「戦国大名龍造寺隆信の居城「佐賀龍造寺城」の解明に向けて」『肥前史談叢』 肥前史談叢の会(戦国大名龍造寺隆信の居城佐賀龍造寺城の解明に向けて)