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松本かつぢ

まつもとかつぢ

昭和期に活躍した漫画家、少女画家、童画家。戦前における少女漫画・ストーリー漫画の先駆者であった。
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概要編集

本名:松本勝冶(1904年7月25日~1986年5月12日)


戦前戦後にまたがって活躍した画家絵本作家漫画家デザイナー。アニメ制作も手がけた。

戦前における少女漫画ストーリー漫画の先駆者であった。


経歴編集

1904年7月25日、神戸市兵庫県)に誕生。

1912年、東京市に転居。

1917年、立教中学に入学。アルバイトで博文館の雑誌のカットを描く。

1922年、立教中学を退学して川端画学校へ入学。

1923年、関東大震災で出版業界が打撃を受けたため、パリフランス)へ絵画の修行へ行くため上海へ渡る。しかし、徴兵検査のため帰国を余儀なくされた。徴兵検査は偏平足のため不合格であった。


1928年、挿絵画家としてデビューし、「少女世界」(博文館)、「少女画報」(東京社)などで挿絵を手掛ける。

1932年、二森あや子と結婚。

1938年、「少女の友」(実業之日本社)でライフワークとなる『くるくるクルミちゃん』を連載。キャラクター文具小物などのグッズを制作・販売し、キャラクター・ビジネスのパイオニアとなる。戦争の激化で連載終了となるが戦後復活し、掲載誌を変えながら断続的に35年にわたって連載が続けられた。

1940年、中原淳一が軍部の圧力で専属作家を降りた後の「少女の友」を支えた。

1941年、理研科学映画部長に就任し、映画のタイトルバックアニメーションを制作。


1946年、中央区銀座東京都)に「かつぢグッズショップ」をオープン。

1947年、中原淳一が創刊した「ひまわり」(ひまわり社)で漫画を発表。


1955年、少女雑誌から引退し、童画家として児童雑誌学年雑誌絵本等に活躍の場を移す。

1960年、長男と「克プロダクション」を設立して、ベビー・グッズやおもちゃなどのデザインを手がける。

1971年、伊豆町(現在の伊豆市)にアトリエ「稚筍房」を開設。

1975年、遺作となる『ハームとモニーの12ヶ月』を描き始める。

1986年5月13日、死去。富士山麓の富士霊園に葬られた。


関連人物編集

上田トシコ 田村セツコ 長谷川町子 中原淳一 手塚治虫


外部サイト編集

ニッポンの少女まんがの元祖だヨ!松本かつぢ展 レポート

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