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上田トシコ

うえだとしこ

日本の女性漫画家。戦前の満州を舞台にした『フイチンさん』で知られる。
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概要編集

本名:上田俊子(1917年8月14日~2008年3月7日)


長谷川町子と共に日本の女性漫画家の先駆けとされる。

満州育ちなので、かなりテンションが高い。

手塚治虫の登場により漫画界の潮流が明らかに変わっていた時代にあって、少女漫画家として大きな人気を得た。

代表作はハルビンを舞台におてんばな中国娘が活躍する『フイチンさん』。

ペンネーム上田としこ上田とし子 → 上田トシコと変遷した。


来歴編集

1917年8月14日、東京市麻布区に誕生。生後40日で満州・ハルビンで南満州鉄道の職員をしていた父の元へ渡り、ロシア人街で育つ。中国人やロシア人に囲まれて育ち、日本語中国語をちゃんぽんで話していた。

1929年、小学校卒業と同時に父以外の家族と共に日本へ帰国。「少女の友」(実業之日本社)に掲載されていた少女漫画家の先駆け・松本かつぢの作品に影響を受け、漫画家を目指すようになる。

1935年、兄の友人のつてで松本に師事する。

1936年、「少女画報」(東京社)に『かむろさん』が掲載され、デビュー。長谷川町子の数ヶ月遅れで、上田は日本で2人目の女流漫画家になった。その後、「東京日日新聞(現在は毎日新聞)」に6コマ漫画『ブタとクーニャン』を連載。当時は少女誌でも男性作家ばかりで、女性漫画家などは考えられもしない時代だった。


1943年、近藤日出造から「君みたいな世間知らずは漫画家には向かない」と指摘されたためハルビンへ渡り、社会勉強のため南満州鉄道に就職する。

1945年、「満州日日新聞」ハルビン支局に転職して4ヶ月で終戦を迎えた。ソ連軍進駐したハルビンで中国人の知人に助けられながらビアホールの看板を描いたり、ハンカチに絵を入れて売ったりして過ごす。

1946年、日本へ引揚げる。ハルビン駅で列車を待っている時、父が八路軍に連行され戦犯として処刑された。


1949年、「少女ロマンス」(明々社)に挿絵を描く。

1951年、「少女ブック」(集英社)で『ボクちゃん』を連載。「少女の友」、「ひまわり」(ひまわり社)、「少女」(光文社)、「女学生の友」(小学館)などで作品を発表する。

1955年、「りぼん」(集英社)で『ぼんこちゃん』を連載し、ヒット作となる。

1957年、「少女クラブ」(大日本雄辯會講談社)で『フイチンさん』を連載し、ヒット作となる。

1958年、「平凡」(平凡出版)で『お初ちゃん』を連載。

1973年、「明日の友」(婦人之友社)で『あこバアチャン』を連載(上田の死の前月まで連載が続いた)。


2008年3月7日、心臓麻痺により東京都の自宅で死去。


2013年、彼女の生涯を描いた伝記漫画『フイチン再見!』(村上もとか)が「ビッグコミックオリジナル」(小学館)で連載された。


影響編集

1950年代の少女漫画においてかなりの人気作家だったが、作風を引き継ぐ後続の漫画家は少なく、1960年代以降の少女漫画は手塚の作風を発展させた水野英子らが牽引した。

満州出身のちばてつやや、妹弟子の田村セツコは上田の影響を公言しているものの、両人とも少女漫画の主流とは外れており(ちばは少年漫画や青年漫画、田村はファンシーイラストの分野に転身した)、戦後少女漫画への直接的な影響は限られたものだった。

本人も「長谷川町子さんや手塚さんにはかなわない」と言っていた。


1980年代になって、ニューウェーブ漫画家と言われた高野文子に大きな影響を与えた。高野は、夫である編集者・秋山協一郎から上田の本を紹介されて以降、上田によく似た絵柄が定着した(1990年代末から画風を大きく変える)。

また、みなもと太郎も「現在(1980年代)でも上田作品が通用しうる」旨を力説していた。


関連イラスト編集

フイチンさん



関連タグ編集

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