概要
本名は林美千代。
福岡女学院高校を2年で中退し宝塚音楽学校に入学するも、渡辺プロのオーディションに合格。これを機に宝塚音楽学校も中退し、上京。
1962年11月にファーストシングル「ボッサ・ノバでキッス」をリリース。
翌1963年には田辺靖雄とコンビを組んだ「ヘイ・ポーラ」や「けんかでデイト」で注目を集める。
そして「夢であいましょう」(NHK総合)1963年7月の歌として発表された「こんにちは赤ちゃん」が大きな反響を呼び、その年の11月にシングルレコードが発売されるとさらなる反響を呼び、その年の日本レコード大賞に輝いた。しかもこの曲、昭和天皇の御前でも披露したことがあるとか。
ただ、その後はなかなかヒット曲が出ず、「こんにちは赤ちゃん」に関しても、「私にはちょっと・・・・・」という心理的なプレッシャーもあり、テレビの音楽番組で頼まれれば披露する程度にとどまってしまう。
1971年3月に俳優の和田浩治と結婚したものの、わずか約1年半で離婚に追い込まれた。結婚から4ヶ月後の同年7月からトーク番組「新婚さんいらっしゃい!」(朝日放送・TBS系列局他→NET/テレビ朝日系列局他)のアシスタントを任されていただけに、洒落にならなかった。ちなみに「新婚さんいらっしゃい!」のアシスタントは、1978年2月に降板している
1974年3月にリリースされた「二人でお酒を」は、これまでのおとなしいイメージを覆す事に成功、酒好きであった本人にとってもお気に入りの一曲となった。
それ以後も歌手を中心に活動を続け、21世紀に入ってからはテレビの音楽番組以外でも「こんにちは赤ちゃん」を歌う様になった。
その他の代表曲としては「リリー・マルレーン」、「メランコリー」、「よろしかったら」、「小心者」などがある。
2020年1月末、東京都内の自宅の寝室のベッドで息を引き取ってしまった(1月29日にマネージャーによって発見される)。享年78(76歳)。
挿話
中尾ミエとはあまりそりが合わなかった。どちらも福岡県出身ながら、梓の出身地の福岡市と中尾の出身地の小倉市(現北九州市)とは何かと張り合うことが多かったこと、どちらも気が強くて言いたいことをずばっと言っちゃう性格だったがゆえに、些細なことで取っ組み合いの大げんかになることがしばしばあったという(その度に伊東ゆかりや園まりが止めに入っていた)。むろんそうなってしまうのは、それだけ実力の高さを認めていたことの裏返しでもあった。
デュエットソングを出したことがあった田辺靖雄と親交があったが、その田辺に孫が出来てからは、田辺の家に遊びに来た際には、田辺の孫の写真を1枚拝借して帰ってしまっていた。
和田浩治と離婚したあとは結婚もせず、家庭を持つことがなかった梓のことを考えると、田辺やその妻である九重佑三子はこのことに対しあまり文句を言えなかった。
「二人でお酒を」では、2コーラス目で胡座をかいて歌っていたが、これは梓自身のアイデアによるもの。コンサートで試したところ、賛否両論が出たことに「これはいける!」と感じ、以後これを押し通したのだが、晩年は膝の状態が思わしくなく、胡座をかくことが出来なくなったため、椅子に座って歌うことも少なからずあった。
「さんまのまんま」(関西テレビ他)に出演した際、明石家さんまの態度にブチ切れ、グラスに注いであったシャンパンをさんまに向けてぶちまけてしまったことがあった。さすがにまずいと思ったのか、後にさんまにわびを入れ、ブレスレットをプレゼントしている。