解説
「特攻で死んだ者と生き残った者には雲泥の差があるのだ。」
主人公の宮部久蔵の同僚だった大日本帝国海軍の戦闘機パイロットである。階級は中尉。
飛行学生としてかり出され、教育を受けて特攻要員となった時に宮部と出会い、彼から教官として指導を受けて訓練を行っていた。
腕は良く、宮部からも賞賛されていたが、彼を含む特攻要員たちを特攻に行かせたくなかった宮部は『不可』を出し続けたため、最後まで特攻に行くことはなかった。
宮部のことは素晴らしい教官であったと慕っていて、急降下訓練の際に親友が操縦失敗によって事故死したとき、精神がたるんでいると親友を罵倒する上官に抗議して彼の親友の名誉を守ろうとした宮部を敬愛していた。
戦後は一流企業の社長まで勤め上げており、宮部の孫である佐伯健太郎と姉の慶子が祖父の話を聞くために訪ねた際は、宮部との話と特攻に関する様々な逸話を二人に話し、最後には司法試験に三浪しているという健太郎を「君は宮部教官の血が流れている」と激励した。
その中で、「戦争を引き起こしたのはマスコミ関係者(主に新聞社)である」と主張しており、一緒に訪ねてきた特攻隊を【テロリスト】呼ばわりする高山記者には激怒して真っ向から抗議し、当時の新聞社・新聞記者が国民に対して過剰な戦意高揚の記事を書いていたことや、それが原因となって五・一五事件を始めとしたクーデターを招き、軍部の暴走を引き起こしたと語った。
更に、戦後に掌を返したようにGHQに言われるまま民主主義万歳を唱え、戦前・戦中の日本を貶め、祖国を愛することを罪であるかのような記事を書くようになったことを痛烈に非難し、黙らせた後に追い立てるような形で帰らせている。
このシーンは読者にかなりの衝撃を与えていたようで、映画版では完全にカットされていたことに不満を漏らす声も多かったが、その後に放送されたドラマ版ではほぼ原作に忠実に描かれており、絶賛された。
衝撃のシーン(小説版『第九章』より)
武田 「新聞記者だと_。貴様は正義の味方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている。日露戦争が終わって、ポーツマス講和条約が開かれたが、講和条約をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面に向かって議論を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった。日比谷公会堂が焼き討ちされ、講和条約を結んだ小村寿太郎の自宅も焼き討ちされた。反戦を主張したのは徳富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」
武田 「私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺だと思っている。この事件以降、国民の多くは戦争賛美へと進んでいった。そして起こったのが五・一五事件だ。侵略路線を収縮し、軍縮に向かいつつある時の政府首脳を、軍部の青年将校たちが殺したのだ。話せばわかる、という首相を問答無用と撃ち殺したのだ。これが軍事クーデターでなくて何だ。ところが多くの新聞社は彼らを英雄と称え、彼らの減刑を主張した。新聞社に煽られて、減刑嘆願運動は国民運動となり、裁判所に百万を超える嘆願書が寄せられた。その世論に引きずられるように、首謀者たちには非常に軽い刑が下された。この異常な減刑が後の二・二六事件を引き起こしたと言われている。現代においてもまだ二・二六事件の首謀者たちは『心情において美しく、国を思う心に篤い憂国の士』と捉えられている向きがある。いかに当時の世論の影響が強かったかだ。これ以後、軍部の突出に刃向かえる者はいなくなった。政治家もジャーナリストもすべてがだ。しかし軍部をこのような化け物にしたのは、新聞社であり、それに煽られた国民だったのだ」
高山 「たしかに戦前においてはジャーナリストの失敗もあります。しかし戦後はそうではありません。狂った愛国心は是正されました」
武田 「戦後多くの新聞が、国民に愛国心を捨てさせるような論陣を張った。まるで国を愛することは罪であるかのように。一見、戦前と逆のことを行っているように見えるが、自らを正義と信じ、愚かな国民に教えてやろうという姿勢は、まったく同じだ。その結果はどうだ。今日、この国ほど、自らの国を軽蔑し、近隣諸国におもねる売国奴的な政治家や文化人を生み出した国はない」
武田 「君の政治思想は問わない。しかし、下らぬイデオロギーの視点から特攻隊を論じることはやめてもらおう。死を決意し、我が身なき後の家族と国を思い、残る者の心を思いやって書いた特攻隊員たちの遺書の行間も読みとれない男をジャーナリストとは呼べない」
高山 「いかに表面を糊塗しようと、特攻隊員たちの多くはテロリストです」
武田 「貴様のような男たちを口舌の徒というのだ。帰ってくれたまえ」
高山 「わかりました。失礼します」