概要
福島県相馬市出身。相馬高から1996年ドラフト4位でセ・リーグの読売ジャイアンツに指名され入団。主なポジションは外野手、二塁手。
プロ入り当時から二軍の首脳陣から高い評価を得ており、後に監督にも就任する原辰徳からもその素質を絶賛されていた。元からケガが多くなかなかチャンスをつかめないでいたが、それまでの内野手から外野手に転向して1年目となった2001年は初めてケガを負うことなく1年を過ごした。
翌2002年、原が監督に就任すると代走要員として一軍昇格、この年の日本一に貢献する。
2003年は仁志敏久の故障離脱から内野も兼任して104試合に出場。堀内恒夫政権下の2004年、2005年はチーム事情により出場機会が減少したが、2006年から再び原が監督に就任。高橋由伸の離脱後は脇谷亮太と1・2番コンビを形成した。この年のオフに背番号をこれまでの68から12に変える。2008年はシーズン中盤から1番に定着。巨人で緒方耕一以来となる30盗塁をマークし、「メークレジェンド」と呼ばれた快進撃を支える。また、この年初のタイトルとなるゴールデングラブ賞を受賞。
2009年以降は自身の打撃不振や松本哲也、長野久義らの加入で再び代走起用がメインになる。それでもチームに数少ないスーパーサブとして2011年、2012年と90試合以上に出場。その後の試合出場数は徐々に減らしていったものの、やはり代走起用としての活躍が目立った。2015年には初めてオールスターゲームに出場。
2016年のシーズンを最後に現役引退。通算盗塁成功率8割2分9厘0毛は通算200盗塁以上の選手の中でプロ最高であった。現役引退後一旦は球団を離れて野球解説者となっていたが、2019年シーズンより読売ジャイアンツの一軍外野守備走塁コーチを任されることになり、球団へ戻ってきた。
人物
- 鈴木の持ち味は並外れた俊足と盗塁技術。特に重量打線で走塁が不得意な選手が多かった2000年代の巨人において重宝された選手で、守備面でもその俊足を生かした守備範囲を披露する。半面ケガに弱く、一軍定着は2003年以降になるなど遅咲きの選手であった。
- 他球団から主力選手を多く獲得しており生え抜きのベテランが少ない巨人で20年の長きにわたって移籍もなく活躍した「フランチャイズプレーヤー」だった。
- 2010年からは福島県の観光交流大使に就任。