概要
宣太后(恵文王の側室で昭襄王の生母)の弟で、楚の公族であった。
中国戦国時代の秦の政治家で、恵文王・武王・昭襄王に仕えた。内政・軍事に優れ長年権勢を誇ったが、范雎の讒言で秦を追放され、封地の陶で天寿を全うした。
来歴
魏冄は宣太后の一族の中で最も賢かったため、恵文君の時から国政に携わった。
紀元前324年、恵文君が王号をとなえ、恵文王となる。
紀元前311年、恵文王が薨去。
紀元前310年、太子蕩が即位し武王となる。
紀元前307年、力自慢の武王が鼎の挙げ比べを行い、脛骨を折って急死。弟たちの間で相続争いが起き、魏冄が燕にいた公子稷を擁立。
紀元前306年、公子稷が即位し昭襄王となる。昭襄王は年少のため、母の宣太后が摂政となる。魏冄は将軍となり咸陽の守備にあたる。
紀元前305年、公子壮が反乱を起こすが魏冄により鎮圧される。魏冄は宣太后、華陽君(羋戎)と共に秦の朝政を取り仕切った。
紀元前304年、昭襄王が冠礼(成人の礼)を行い親政を始める。
紀元前297年、趙の楼緩が秦の宰相となった。趙はこれを脅威に感じ、楼緩を罷免して魏冄を宰相とするよう請うた。
紀元前295年、魏冄が宰相となった。
紀元前293年、魏冄は向寿に代わって白起を将軍に登用した。白起は目覚しい戦果を挙げ続ける。
紀元前292年、魏冄は病のため宰相を辞め、客卿の燭寿がその後任となった。
紀元前291年、燭寿が罷免され魏冄が再び宰相となった。その際、穣(現在の南陽市)に封じられ、さらに陶(現在の菏沢市)も増封された。魏冄は穣侯・陶公と号した。
紀元前290年、自ら兵を率いて魏の河内を攻略し、60城を奪った。
紀元前287年、宰相に復帰。
紀元前283年、宰相を罷免された。
紀元前281年、宰相に復帰。
紀元前278年、白起に楚を討たせ、楚の首都郢を落として秦の版図とした。
紀元前276年、相国となる。魏冄、華陽君、涇陽君、高陵君は「四貴」と呼ばれ絶大な権勢を誇る。魏冄は自ら兵を率いて魏を討ち大梁を包囲するが、魏の須賈の説得で兵を引き揚げた。
紀元前275年、魏が斉と従親したので、再び魏を討つ。再び大梁に迫り、韓の援軍も破った。
紀元前274年、趙・韓・魏を攻め、魏・趙の地を取った。
紀元前271年、自身の封邑であった陶の領地を広めるため斉を討つ。
紀元前265年、范雎が宣太后の一族が専横を極めている事を奏上し、宣太后が廃位、魏冄ら四貴も罷免され、関中から追放され封地で余生を過ごすこととなる。魏冄が陶へ向かう際の財産を積んだ荷車は千乗余りもあったという。封地の陶で天寿を全うした。