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ヨーゼフ・ゲッベルス

よーぜふげっぺるす

ヨーゼフ・ゲッベルスとは、「プロパガンダの天才」と称されたナチス・ドイツの国民啓蒙・宣伝大臣。
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プロフィール編集

フルネームパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels)
生年月日1897年10月29日
没年月日1945年5月1日

ゲッペルス?編集

読みにくさ故か、日本語ではしばしばゲッ「」ルスと半濁音が書き間違えられる事がある。


概要編集

プロパガンダの天才」などの異名を持つ政治家。ヒトラー政権下では国民啓蒙・宣伝大臣としてドイツ国民にプロパガンダを植え付けた功労者で、同時にヒトラーの忠臣中の忠臣ともいうべき人物。


生涯編集

1897年にドイツの小都市ライトに生まれる。幼少期のゲッベルスは病弱で4歳の頃に小児麻痺を患い、生死の境をさ迷う。


幸いに命は取り留めたのだが、手術の後遺症で足がやや不自由になり、それが原因で学校でイジメられるなど、不遇の少年時代を送った。ゲッベルスの両親は敬虔なカトリックであり、息子に聖職者になってもらいたいと願っていたが、ゲッベルスはこの時に社会の不条理を痛感し、神を一切信じなくなったが、コンプレックスを克服するがごとく勉強に熱中し同級生から一目置かれるまでに見返す。

無論イジメられた経験を忘れてはおらず、ディベートや陰口、密告を駆使して蹴落としていたらしく、このため周囲からの人望は皆無だった。


大学進学後はコンプレックスから恋人作りと学業に励み、博士号を取得するが不景気下のドイツで就活は難航した。恋人のコネでドレスデン銀行ケルン支店に就職するが、職務怠慢でクビになり、博士号を持ちながら実家の穀潰しというニート同然の生活を送る。

ドイツでは博士号の社旗的地位は高いのだが、自身の努力と才能を否定されたかのような現実に耐えられなかったゲッベルスは、この頃より反ユダヤ思想に感化されており、1925年には非公式ながらナチスに入党する。


当初ゲッベルスは、ヒトラー派ではなくグレゴール・シュトラッサー率いる派閥に属していた。1920年代はナチス党内におけるヒトラー独裁体制は確立されておらず、南ドイツのヒトラー派、北ドイツのシュトラッサー派に分かれていた。ゲッベルスはヒトラー派の本拠であるバイエルンとは競合関係にあるプロイセン王国出身であり、またシュトラッサーもインテリであったため親和性は高く、この頃の日記にはヒトラーを批判する記述が多い。


だがバンベルク会議で独裁体制が成立すると、シュトラッサー派は急速に失速する。その中でゲッベルスはヒトラーに手厚くもてなされ、彼に心酔していくこととなる。


1933年にヒトラーの首相就任に伴い、宣伝大臣に就任し、様々なメディアを用いたプロパガンダ活動に邁進する。


1939年にはヒトラーの領土拡大政策に伴い第二次世界大戦が勃発した。長期戦になれば勝ち目がないと考えており、戦争が始まれば自分の省は軍部の拡声器に成り下がると考えていたゲッベルスは戦争反対の姿勢をとっていた。

しかし、予想とは裏腹に国民の支持をつなぎとめ、対外報道を統制する宣伝省の影響力は劇的に増大し、1945年時には数万人規模の大所帯となっていた。1943年の総力戦演説以降はヒトラー以上に精力的な演説を行い、1944年に起きたヒトラー暗殺未遂事件では決定的な活躍をしたことでベルリンの防衛総監を務めるなど、その影響力は軍事方面にも及ぶこととなっていった。


ナチス敗北が迫る1945年には、家族と共に総統地下壕に避難した。この頃には公人としての仕事は全くしておらず、自身の日記をマイクロフィルムで複写するための雑務に没頭していた。

ゲーリングヒムラーといった最高幹部がヒトラーを見限る中でゲッベルスは最後までヒトラーに従おうとしており、エヴァ・ブラウンとの結婚の際の立会人も勤めるも、4月30日にヒトラーとエヴァ・ブラウンは自殺。ヒトラーは遺言でゲッベルスを首相に任命した。


ゲッベルスは首相権限において条件付き降伏を連合国に提案したが一蹴されて絶望。無条件降伏したドイツでは自身は辱しめられた上で殺され、妻子は終生迫害を受けると考えたゲッベルスは5月1日、妻のマグダに子供たちへ毒を飲ませて殺し、2人もすぐに彼らを追うように銃でこの世を去った。


遺体はガソリンで焼却することで隠匿が図られるも、ソ連軍に見つかり検死解剖の後に火葬。遺骨はエルベ川に散骨された。



宣伝思想・方法編集

彼の宣伝概念は、ヒトラーの著書『我が闘争』を踏襲しており、あくまで宣伝を成功させることにこだわっていた。

いわゆる「大衆の多くは無知で愚かである」「大衆は忘れる事はきわめて多いが、理解することは極めて少ない」というもの。

実際、「大衆を獲得するために役立つならどんな手段を使ってもいい」と自ら語っている。


特に有名な方法は、「大衆の怒りや闘争心といった攻撃的な感情を煽る」と言うやり方で、かの『総力戦布告演説』もこの方法が使用されている。


しかし、彼の宣伝方法は「現実から乖離した宣伝は国民と兵士の軽蔑を買う」としてあくまでも現実に則したものであることを前提としていた。総力戦演説も、スターリングラードの戦いで破れ苦境にあることを認め、国民に危機感を持たせ更なる奮起を促したものである。


夫婦生活とプレイボーイ編集

女性関係でいろいろ問題を持ったといわれ、一度離婚している。だが2番目の妻・マグダの下で6人の子供(彼女の連れ子1人も迎えられている)を持った。子供達は全員マグダ似のゲルマン的風貌の持ち主であったこともあり、子沢山で仲の良い、模範的ドイツ人家庭として国家全体に宣伝した。

ただし、実際は夫妻は多忙であったため育児は小森と家庭教師に任せっきりだった。


ただし、彼の奔放な女性関係は再婚後も治らず、レニ・リーフェンシュタールと対立したり、女優のリダ・バーロヴァと関係を持った際には、「宣伝大臣を辞任して同盟国である駐日本大使となり、バーロヴァと共にドイツを去りたい」とヒトラーに申し出たほど入れこんだ。当然、これは許されるわけもなく、ヒトラーはゲッベルスにバーロヴァとの手切れを、妻には結婚生活の継続を命じるという前代未聞のスキャンダルへと発展した。


マグダの方もなかなか激しい男性遍歴の持ち主で、かつてはシオニストと交際し、パレスチナへの移住を夢見ていたり、富豪と結婚して多額の慰謝料をせしめ、それでも退屈していた時にナチスの仕事を手伝っていたことでゲッベルスと出会うことになった。

思想のベクトルにはあまり頓着がなく、ファナティックでマッチョなものにひかれやすかったようだ。ゲッベルスとの結婚を決断したのも、思想云々以前に共産主義になれば先述の慰謝料がパァになるのでナチスの方がましで、独身のヒトラーの寵臣と結婚すれば美しい自分はドイツのファーストレディとして振舞うことも不可能ではないという計算もあった。


ちなみに先述のマグダの連れ子のハラルトは空軍の軍人になり、早い段階でイギリスの捕虜となったため一族の中で唯一生き残っている。


関連イラスト編集

0501DER KLEINE DOKTOR

宣伝相夫妻


アドルフ・ヒトラーとその側近たち、ヨーゼフ・ゲッベルス編集

その1編集

その2編集

その3編集


関連タグ編集

ゲッベルス 第三帝国 ナチス ヒトラー

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