概要
1979年9月16日生まれ。
鶴牧サッカークラブ、東京小山FC、付知町立付知中学校、四日市中央工業高校から福岡大学を経て、2002年に浦和レッズに入団。同年のフェアプレー賞と新人賞を受賞。翌年にはベストイレブンに選出された。
2003年には日本代表にも招集。花王・「メンズビオレ」、カブドットコム証券などCMにも出演した。ナビスコカップ決勝で、前半終了間際にヘディングの競り合いでエメルソンと衝突し医務室に担ぎ込まれ、瞼の上を15針縫う大怪我を負うも強行出場し優勝に貢献した。
2004年7月9日に行われたキリンチャレンジカップスロバキア戦で、左ハムストリングの腱及び筋肉断裂の重症を負った。
2006 FIFAワールドカップ日本代表にも選ばれたが、予選グループ第1戦のオーストラリア戦で試合中に足がつり、途中退場した。W杯後のトリニダード・トバゴ戦でも足の同じ所をつり、途中退場した。
2007年以後代表戦での出場が少なくなり、2008年2月8日、所属チームに専念するためサッカー日本代表からの引退を宣言した。2008年はシーズン開幕後、失点に繋がるミスを連発するなど中々調子が上がらず、また負傷なども重なり堤俊輔にポジションを奪われた時期があったが、夏場以降調子を上げ本来のプレーを取り戻したため、再びレギュラーを奪取。2009年も4バックにシステム変更がされたが、センターバックのレギュラーを守り続けた。
2010年は序盤戦は山田暢久とセンターバックのコンビを組み、負傷で離脱していた新加入のスピラノビッチが復帰した後もレギュラーを確保していたが、J1第18節名古屋グランパス戦で失点に繋がるミスをし、その後しばらくはスピラノビッチと山田暢久のコンビにポジションを奪われた。しかし、スピラノビッチがJ1第24節アルビレックス新潟戦で再度負傷して離脱したため再びレギュラーとしてプレーすることとなった。
2011年、故障から復帰したスピラノビッチ、新潟から加入した永田充、そして山田暢久に続く4番手のセンターバックの座に甘んじ、シーズン開幕当初はベンチ入りすら出来ない状態に陥ってしまう。大原サッカー場で行われた練習試合ではサイドバックで出場していた。J1第16節清水エスパルス戦でようやくシーズン初出場を果たしたが、序盤に先制点を許したこともあり、前半途中で原一樹と交代した。その後もベンチ入りすら出来ない状態が続いていたが、監督が堀孝史に交代した後はレギュラーのセンターバックに復帰し、チームのJ1残留に貢献した。
2012年、ミハイロ・ペトロヴィッチが就任すると、ペトロビッチ独自のフォーメーションで3バックの右のストッパーを務め、代役がいない事情も重なり、前年の鬱憤を晴らすように充実のパフォーマンスを披露。2005年以来の33試合に出場し、チームのACL出場権獲得に貢献した。
2013年、宮崎キャンプ中の怪我で出遅れる。3月30日に行われたJ1第4節新潟戦で怪我から復帰しベンチメンバーに入ると、ACL全北現代モータース戦で怪我の永田充の代わりに先発起用された。しかし、怪我の影響か思ったプレーが出来ずに後半66分に興梠慎三と代わると、J1第5節ジュビロ磐田戦からは那須大亮がセンターバックで起用されたこともあり、公式戦12試合の出場に留まった。
2014年シーズンをもって契約満了となり浦和を退団、12月12日湘南ベルマーレに加入することが発表された。湘南での出場機会は3年間でリーグ戦28試合にとどまったものの、ピッチ内外の姿勢は、遠藤航や菊池大介、岡本拓也といった若手守備陣の“良き手本”となった。
2017年シーズンをもって契約満了となり、湘南を退団することが2017年11月22日に発表された。12月15日、レノファ山口に完全移籍することが発表された。前年のチームの守備の立て直しを期待され、1年目は23試合に出場し、チームも最高順位の8位になった。だが2年目は楠本卓海・菊池流帆・ドストンという若手選手にレギュラーの座を譲る試合も多く、2019年11月7日に同シーズン限りでの現役引退を発表した。
現役引退を機にサッカーの現場から距離を置くことを考えており、現在はサッカー解説の一方でタレントとしても活動している。現役時代にエージェント契約を結んでいた「SARCLE」がタレント活動の窓口となっている。
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オールドルーキー:第1話のサッカー監修を担当。