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ヤルタ会談の編集履歴

2014-04-09 11:41:53 バージョン

ヤルタ会談

やるたかいだん

勝者達の会議

概要

1945年2月4日から11日までクリミア半島の保養地ヤルタで開かれた米英ソ巨頭会談。

アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトソ連首相スターリンイギリス首相ウィンストン・チャーチルほか、連合国三ヶ国の外相や軍首脳が参加した。連合国の協調が最高点に達したのはこの時だと言われる。

会談の目的は連合国の対立陣営である枢軸国への対策や戦後処理を取り決めた「ヤルタ協定」がされ、戦後の国際秩序形成の重要な起点となった。


国際機関

戦後世界機構に関しては、大国の拒否権、国際連合設立会議(サンフランシスコ会議)を4月25日から開催すること、その招請国の範囲、などで3国の一致がえられた。

ポーランド問題

ポーランドは独ソが分割侵攻した状態になっており、ポーランドの正式な政権がロンドンの亡命政府かルブリンの国民解放委員会かを巡って英ソが対立し、アメリカの仲介で戦後に国民選挙を実施し、ポーランド国土を西に移動することで合意した。

ドイツ問題

ナチスを倒した戦後ドイツの国土は大幅に割譲され、米英仏ソによる共同管理とすることが決まった。

極東問題

アジア太平洋方面の日本についての内容は極秘扱いされ、関連の取り決めはとくに米ソ間で密約となった。ルーズベルトはスターリンに日ソ中立条約を破棄して対日参戦を促し、代わりにサハリン千島列島をソ連に引き渡すことを提案。

台湾蒋介石率いる中華民国に返還し、朝鮮は連合国が信託統治することとなった。

またこの時、戦後日本を米英中ソの連合国によって列島各地を統治する「日本分割統治計画」案も上がっていた。


結果

4月にルーズベルトは死去して、ハリー・S・トルーマンが大統領に就任し、8月にはチャーチルが総選挙で政権を失い、ルーズベルトとスターリンとチャーチルの3人が集まったのはヤルタが最後であった。

5月にドイツは敗北し、ポツダム会談が開かれ、トルーマン・スターリン・チャーチル(途中でアトリーと交代)が話し合い、戦後のドイツと日本の対策が決められ、日本への降伏要求「ポツダム宣言」発表された。しかし、反共的なトルーマンはヤルタでの極東密約の内容に憤慨してソ連を嫌悪したが、時すでに遅く広島原爆投下後にソ連が満州に侵攻した。

9月に日本は降伏文書に調印。連合国を中心とした国際連合が発足し、日本とドイツは連合国の占領統治を受けた。日本は米軍を中心としたGHQが統治し、ドイツは東西に、朝鮮は南北に分割統治され、ポーランドや東欧各国は親ソ派政権となり、中国は毛沢東率いる中華人民共和国が建国されて中華民国は台湾へ敗走し、金日成率いる北朝鮮韓国に攻撃して朝鮮戦争が勃発。

すなわち冷戦の時代が幕開けした。ヤルタ会議は冷戦の序章となったと言われる。


ムダヅモ無き改革

第四帝国と決着のために修行として小泉ジュンイチロー恐山へ行きイタコの力で三巨頭を呼び出す。ヒトラーを倒した三巨頭の老練かつ、したたかな打ち筋に小泉は苦戦する。修行の結果、小泉は新たな技を手に入れた。

ムダヅモの世界のヤルタ会談は三巨頭による三麻で利益配分を決めた。結果はスターリンが大勝、ルーズベルトはトントン、チャーチルは大負けしたのであった。


関連タグ

第二次世界大戦 冷戦 世界史

フランクリン・デラノ・ルーズベルト スターリン ウィンストン・チャーチル ハリー・S・トルーマン

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