概要
1980年から1988年まで続いたイランとイラクの戦争。アラブ諸国では「第一次湾岸戦争」とも呼ばれ、日本では「イライラ戦争」とも呼ばれている。
背景
予てから両国国境の川は石油輸出の要所で、その使用権を巡って紛争が起こってきた。
1979年にシーア派イスラム教によるイスラム革命がイランで起こり、親米派のパフラヴィー王朝が倒され、ルーホッラー・ホメイニー師指導の下「イスラム共和制」を布いていた。
周辺のアラブ諸国やアメリカ、ソ連は革命が別の国に輸出されることを恐れていた。とくに、イランの隣国のイラクはサダム・フセインが独裁政治を布いていたが、国内で弾圧してきたシーア派やクルド人が革命の影響を受け蜂起するのを恐れていた。そこでアメリカはイラクと協力関係を結び、軍事援助をしていた。
経過
1980年9月にイラク軍がイランに侵攻を開始。アメリカだけでなくソ連やフランス、アラブ諸国、中国からも援助を受けたイラク軍は、革命の影響で指揮系統が混乱するイラン軍を圧倒。
この事態にイラン民衆から義勇兵が参戦し、イランの抵抗によって戦争は膠着。さらにイランを支持したシリアやイスラエル、リビアが援助や軍事介入し、イラクは背後を突かれた。
冷戦でありながら米ソが同じイラクを支援し、アラブ諸国・イスラム教の最大の敵であったイスラエルがイランを支援するという特殊な構図となっていた。
そんな中、イスラエルのレバノン侵攻、アメリカのグレナダ侵攻、ソ連のアフガニスタン紛争、イギリスのフォークランド紛争が重なり、イラン・イラク双方の援助国が手を引いたため、戦況は沈静化。一時は停戦合意もされた。
しかし、1985年にイラクは合意を破棄して攻撃を再開し、戦争は再燃。両国は互いの都市にミサイルを攻撃し合い、5月にはテヘランを空爆。さらにイラクはイラン領空の航空機を官民軍問わず攻撃すると宣言し、民間人も多く巻き込まれた。
1987年にイラン軍がイラクに侵攻し、クルド人を支援したが、イラク軍はクルド人に化学兵器を使用し大量虐殺を起こした。
1988年に両国の相互都市攻撃を再開したが、アメリカはペルシャ湾に米軍を派遣しイランを攻撃。サウジアラビアもイランとの断交を宣言。ここにきてイランは国連が提示した停戦に合意し、イラク優勢の状態で戦争は終結した。
影響
1990年にイランとイラクは国交を回復したが、独裁者フセインはクウェートに侵攻し、アメリカを中心とする多国籍軍が介入し、湾岸戦争が発生。アメリカが支援した国がアメリカと戦うこととなった。両国とも損害は大きく、とくにイランの復興は長い時間を要した。
日本とトルコ
1985年3月、フセインの無差別攻撃宣言を受け、イラン国内の外国人が脱出を図ったが、日本人は危険な状態にあった。日航は危険として救助を拒み、自衛隊も国会承認に時間がかかって間に合わず、イラン在留日本人は絶望的状態にあった。そんな時、イランの日本大使館からの要請にトルコ大使館を通じてイラン政府が応じ、チャーター機を増やし、日本人はそれに乗ってイランを脱出し、トルコを経由して日本に帰還を果たした。また乗れなかったトルコ人には陸路で脱出させた。
なぜ、トルコは日本を助けたのか?それは95年前の1890年にエルトゥールル号遭難事件が起きた時に和歌山県串本の漁村が救助した恩からその報いたと言われている。その両国の助け合いは映画『海南1890』で描かれた。