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中ソ対立の編集履歴2016/03/26 03:21:06 版
編集者:榊の龍
編集内容:内容大幅変更。

対立の始まり

アメリカ合衆国ソ連の対立は第二次世界大戦以降、冷戦となって発生し、中国とソ連は同じ共産主義陣営の共産主義国家としては協力し、1950年に中ソ友好同盟相互援助条約も結ばれていた。

しかし、1956年にソ連でヨシフ・スターリンの後継者となったニキータ・フルシチョフはスターリンの独裁政治や権威主義、個人崇拝を否定する「スターリン批判」を展開し、西側陣営との平和共存論も提唱した。これに対し、中国の毛沢東はそれまでスターリンと独裁者仲間で親しかったが、フルシチョフによるスターリンの独裁の否定から影響が及んで、自身の独裁政治にも国内から批判が起こると恐れ、フルシチョフの考えを「修正主義」と批判。

これ以後、国家規模で中ソの共産主義思想の方針不一致へと発展し、両国の交流や条約が絶たれる事態が続出。同じ陣営でありながら対立する関係となった。

継続する対立

中国はその後もキューバ危機プラハの春などでのソ連の存在を批判。1969年には国境沿いの川の島を巡って中ソ国境紛争が発生。同じ陣営同士での核戦争の恐れも起こった。

ベトナム戦争でアメリカが南ベトナム支援に参戦すると、中ソも北ベトナムを支援したが、協力はせず、支援合戦の状態になった。

そんな中で、中国はソ連を牽制すべく1970年代に西側陣営の盟主たるアメリカに接近し、1971年には国際連合中華民国に変わって常任理事国に収まり、1979年に米中は国交を正常化した。しかし、米中接近によって北ベトナムは友邦が敵国と関係改善したことで、北ベトナムの外交は親ソ派になり、1975年に北ベトナム勝利で統一を果たした。

カンボジア恐怖政治をするポル・ポト政権をベトナムが攻撃し、独裁政権を終わらせたが、親中派のポル・ポトと親ソ派のベトナムが戦う東側陣営同士の代理戦争の様相を呈した。この事態に、中国はベトナムを支援の恩を裏切ったと見なしてベトナムに侵攻する中越戦争が発生。これをベトナムは返り討ちにした。

対立の鎮静化

そして1980年代に中国で経済立て直しのために鄧小平が改革開放路線を進め、ソ連のゴルバチョフもペレストロイカを始めた。この両者の時代になって関係改善の努力がとられ、1989年5月にゴルバチョフの訪中により30年ぶりに中ソは国交正常化させた。

丁度、中国では天安門事件が起きている最中だった事やソ連は崩壊寸前である事が出ていた。

対立の影響

共産主義陣営ではほとんどの国が親ソ派だったが、アルバニアは数少ない親中派で、国連で中華民国を追い出した国でもある。しかし、毛沢東死後はアルバニアと中国の関係は敵対し、アルバニアは孤立してしまう。

朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)は中ソの関係や両国の内情を見て、双方ともに等距離の友好関係を築き、また思想方針も金日成が提唱した独自路線「主体思想」を中心とした。ルーマニアも中ソ双方と友好関係を築きながら、西側に接近して支援金を引き出した。

日本日本共産党日本赤軍は概ね親ソ派としていた。

その後の中露

ソ連は1991年にクーデター失敗からソ連崩壊となり、ロシア連邦に変わった。エリツィン政権時の不況となり反米感情も強まり、プーチン政権時代に資源確保や軍拡など超大国への返り咲きを進めた。ブッシュ政権時のアフガニスタン紛争イラク戦争で対立。ウクライナへの圧力を強めた。

中国は市場経済を導入しながら中国共産党の一党独裁を続ける国となり、江沢民政権時の香港返還を前後して経済発展が進み、国内に格差社会が広がるが、軍拡で極東東南アジアへの覇権拡大を進めた。

この中露の動きにオバマ政権のアメリカは欧州方面・アジア方面と両面で権勢するが、2010年代から起こった世界経済不況や中東の動乱「アラブの春」、ISの活動に乗じ、胡錦濤習近平の中国はさらに覇権を拡大させ、ロシアはシリア内戦に打倒ISとしてアサド政権側になって参戦。また中東で台頭するイランと中露は関係を強化してアメリカを権勢。

中露はかつての中ソ対立から一転して対米国家として関係を強化・協力し、BRICSを構成する国の一つとなっている。

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