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業績録(オクタビヤヌス)の編集履歴

2016-12-11 17:14:53 バージョン

業績録(オクタビヤヌス)

あうぐすとぅすのぎょうせきろく

初代ローマ皇帝アウグストゥスが遺言にて作成を指示した自身の業績をまとめた文章。

内容

RES GESTAE DIVI AVCVSTI

「Res Gestae:なされたこと」「Divi:神(神格化されたことを表す)」「Augusti:アウグストゥス」

日本語では一般に『神君アウグストゥスの業績録』『神アウグストゥスの業績録』等と呼ばれる。

「初代ローマ皇帝アウグストゥス自身が編集し、自身の霊廟に書き記させた碑文。アウグストゥスの現存する唯一の肉声的文章である。


この文章はラテン語で青銅版2枚に刻印されている。生前からアウグストゥス(オクタウィアヌス)は自身の霊廟の前に設置することを希望していたという(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「アウグストゥス伝」101)。アウグストゥス没年のAD14年に次代のローマ皇帝ティベリウスにより製作されたとされている。


イタリアローマに現存する「アウグストゥス廟」の前からは青銅版のオリジナル(2枚)はすでに消失したがこれを写した青銅柱が古代より各地に作られ、このうちの「アンキュラ碑文」から16世紀以降テクストが転写され発表されていた。「アンキュラ碑文」のテクストも完全なものではなかったが、その後それを補う形で「アポロニア碑文」「アンティオキア碑文」が発見され、ほぼ全内容が復元された。


碑文は前文と本文35章と付記4章からなり、「元老院から自分(アウグストゥス)が受けた称号」「国家や市民に対してなされた自身からの支出」「全軍司令官としての征服活動」「共和国(ローマ帝国)における自身の地位についての記述」に四分することができる。


記述内容に関してはアウグストゥスが自身の事績について己が口で語っており貴重かつ重要な証言ではあるのだが、嘘は語っていないものの自身にとって不都合となるようなことは語られていない。例えば独裁官カエサル死後の内乱は複雑な展開をたどった末にアウグストゥスが最終的な勝者となるのだが、『業績録』の記述のみからその正確な推移を読み取ることは不可能である。


全文邦訳は

『西洋法制史料選I古代編』(創文社、1981年、pp103-128)

国原吉之助スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫、1986年)付録「神君アウグストゥスの業績録」(pp206-225)

部分邦訳は

『西洋古代資料集』(東京大学出版会、1987年、pp180-182)

外部リンク



原文の訳


【前文】世界共和国ローマ政府最高指導者(インペラートル・コマンド)デアラレタ・(神となった)デェヴィ・フィリウス・アウグスティ様ミズカラ・費用負担ヲモチイテ・ツクラレタ・「業績録(RES GSTAE)」デアル≪(題名)私(オクタヴィヤヌス)が全世界(ローマ共和国全土)に実施した、全世界(共和国全土規模)の公共の利益(公共の福祉)を造り上げるための数々の事業・政令。(これに参加した)ローマ市民・民衆たちの(費用のための服従(仕事))でなしとげた、偉大な功績・遺産≫ヲ(後世の人類)ローマ人ノ宛テ二2枚ケズッタモノデアル・コレヲ(世界共和国ローマ(レスリパブリック・ローマニア・地球連邦)ノ名二ヲイテ、)費用負担ヲモチイ世界全土計画的二コピーヲシタモノデアル。


※前文1前文作者Byティベリウス


【Ⅰ】私が第19歳の時、私は自身の発意と私自身の費用でイニシアチブ(主導)し、私は共和国(ローマ帝国)を自由にさせることに成功した。(私は)1党派閥の支配によるコントロール(統制)を保持するとともに、ローマ軍を引き上げさせました。(この功績により)元老院(セナートス)は私を大いに賞賛し栄誉与えました。また、「私(オクタビヤヌス)に在籍措置を与える」政令を出しました(元老議員登録)。 また、ガイウス・パンサとアウルス・ヒルティウス、彼らローマ統領(コンスル)は(私、オクタビヤヌス)に「ローカル(元老院(上院)や市民会議(下院))での意見の付与における指令権(インペリウム)」を与えました(閣僚登録)。私はプロプラエトル領事(副ローマ統領の1人)として、能力を提供すると同時に、統領(コンスル)としてレスパブリック(共和国・ローマ帝国)への被害を防止するために指令した。そして人々(コミティア・下院会議)は、コンスルであったパンサとヒルティウスが死んだために私を空席となっていたコンスルに指名しました。また、私を三頭官(※Triumviratus)の1人にしました。

※いわゆる第2回三頭政治のこと。カエサル、ポンペイウス、クラッススの私的な政治同盟であった第1回三頭政治と異なり、第2回は国家再建三人委員会という新設された公職に就任して行われた。


【Ⅱ】(我が軍・オクタビヤヌス軍)は我が父(ユリウス・カエサル)を虐殺したやつらと戦争征伐)を行った(1)、(また往生際悪く)合法を用い(征伐から)逃亡した奴等(ブルータス達)を(追撃するため)、戦線を拡大し、奴等を征伐し服従させた(征服)(2)、我は2つを戦った。そして、我(オクタビヤヌス)はこの事態(カエサル殺害・S・P・Q・R共和国の権力戦争)をもたらした奴等達(投降した兵士若者)・協力者)を全て処罰シタ。(反逆罪による拷問公開処刑


【Ⅲ】(市民会議(コミティア、下院50万人での彼の演説)「私(全軍指令・インペラートル)は『地球(TERRA・テラ)と海(OCEAN・オーシャン)(ローマ共和国全土)』のために、しばしば(計画的な)戦争を繰り広げました。そして、そのつど、ローマ市民ローマ軍と諸外国の市民(武装集団)の全てが戦争につぎ込まれてゆきました(総力戦)そして、われわれは全ての戦争に勝利しました。我々は、戦利品として賞金(金貨)30,000,000MONET(マネー、3000万)とガレー船(三段櫂船、古代軍艦)の小さいのをあわせて600隻を捕獲しました。私(全軍指令、インペラートル)は、これら(戦利品)を全てを、まず全てのローマ軍将兵の報酬として割り当てたい。(そのため、私(インペラートル)は)、金貨30,000,000MONET(マネー、3000万)を(兵士1人)300マネーとして100,000人(関係者合わせて10万人分)を用意しました。また全てに割り当てられたものに関して、(また残った賞金と征服領土など)は、私(インペラートル)がイニシアチブ主導)し、戦争による出費対費用として、全ての共和国コロニー(S・P・Q・R共和国構成都市国家)に還元させました。(私が望む事は)(敗北した)諸外国市民たち(「ゲルマン族国」「フランク族国」「サルマタイ族国」)は、降伏をし、私(インペラートル)に対して許しを求めてきました。私はこれに答えたい。((「ゲルマン族国」「フランク族国」「サルマタイ族国」)に対して「破壊占領政策(奴隷化」ではなく「安全な恩赦(国交正常化)」を望みます。」(演説)(ローマ市民50万(市民会議(下院)定員50万人)はこれ(私が望む事)について可決決裁をした。



※2オクタビヤヌスはヨーロッパ世界の奴隷化という状態をさけたかったようだ

※3下院議員(市民)50万人、まだ代議員が確立していない。共和制ローマにおいて議会が二院制的に最後に機能した最後の場面


【Ⅳ】※私がこれを書き記したとき、(私は)13回目のローマ統領(コンスル)に就いており、トリブリチア・ポテスタキース(護民官(元首))の37回目の任務についていました。※Ⅳ1 (戦争を終わらせるため私は)、首尾よく『地球(テラ・TERAA)と海OCEAN・オーシャン)(ローマ共和国全土)の私の後援者達(S・P・Q・R政府オクタビヤヌス政権のパトロン)の下、私(三大統領兼ローマ統領)の私のメンバー(同僚の政治家・閣僚・将軍達)が物事(仕事)のために(動きました。そして)元老院(セナートス上院)は政令布告を出し、「(勝利や平和のために)不滅の神々(ローマの神々)への捧げ物儀式を55回(1年間・1週間に1回)」と元老院はローマ人に命じました。そして(捧げ物儀式は)彼ら(市民の平和の願い)が成就するまで890回行われました。私はそれぞれの戦いで作られた誓願(勝利や平和など)が適った時、私はカピトの丘聖堂(カピトリヌスヘル、現訳:国会議事堂首都)に束桿から月桂樹(月桂冠)を置きました。私は勝利をしたことで2回凱旋式オベーション)を行い、3度「(インペラートル!(司令官)」と呼ばれ、(再度全軍指令に)選ばれました。私の勝利で(敗北した)と9人の王子子供)達は私の戦車チャリオット)に縛られて連行されていきました。この後、私は高位高官達と21回勝利を享受しました。また、元老院(セナートス上院)は私に対し「(彼に)全ての勝利を上回る栄誉を」を政令で命じました。


※Ⅳ1元首政治体制37年目、アウグストゥス帝の治世は41年

※Ⅳ2(オクタビヤヌスが暗殺されたディクタトール・ガイウス・ユリウス・カエサル(独裁官ローマ総統)の後任でローマ統領兼三統領に就任してから(BC44)、ローマを終戦に導くための国家手動の供物の儀式を1年55回行う。(一週間に1回)それが約890回目、アクティウムの海戦で平定し、ローマに凱旋して。元首政治体制が始まる(BC27)までの18年間続いた、ちょうどオクタビヤヌスの行動時期と重なる。)ローマ数字「890」は何を表しているか、今現在のローマの専門学者の間でも不明である。


【Ⅴ】(前置)マーカス・マーセラスとルシウス・アルキオーらがローマ統領コンスル)の職を受け取らなかったことがありました。前置の事から「私に独裁政権(ディクタトラルム)が提供され続けている」と元老院(セナートス上院)の人々(元老議員・野党側)が言われました。いいえ、わたしは〈独裁〉していません (元老院(上院)、市民会議(下院・コミティア))では、その、余りにも毎年のように私をローマ統領(コンスル)に指名します。が、私は永久的(慣例のごとく)にローマ統領(コンスル)になることはしてはいません。私は、その『不足している人々全体への小麦穀物」から起こる(社会的)恐慌危険についての対処法』(ケア法)を数日中に提出した、(ケア法)には『私も含めた国民全体の最上層(上流層・セレブ)への犠牲(負担)」も※拒否しません※1でした


※Ⅴ1拒否を拒否権で可決。


【Ⅵ】元老院(セナートス・上院)において「地位は存在しないが、(ローマの)法律モラル倫理)に対して、最大の権力をもつ『最高のトリブルス護民官(元首)」)』を作成することに全会一致合意)した。」(私は)同僚達から自発的にそれ(最高の護民官・トリブキアエ・ポテスタキース)になるようにすすめてきました。(しかし私は4度断りました)、5度目の時に全閣僚(ローマ政府)と全上院議員(元老院セナートス)のから要求されたので、私はそれを(最高の護民官・ローマ帝ローマ皇帝)受け取り、完全にそれ(ローマ元首)に就きました。「※元老院とローマ市民(S・P・Q・R)※2」の政府閣僚(マギストテリアル)の、マーカス・ヴィシニウスとクィントゥス・クレティウス、プブリウス・レントゥルスとグエナウス・レントゥルス、パウロ・ファビウス・マクスムスとクイントゥス・チュベロウスらローマ統領コンスル)達らは先祖時代(共和制ローマ)の時の閣僚のルール慣例を逸脱していないことを私は確認しています。


※2(SENATV POPVLOQVE ROMANO(SPQR) ローマ帝国の正式名)


【Ⅶ】(私の肩書きサインタイトル称号)については、私がなる以前から使用されていた三大統領の1人については、『共和国に確立された三大統領』をサインしました。ある日から、初めて使用した(ローマ帝初日)に使ったサインは、『国家最高司祭(最高神祇官、ポンティクス・マクシムス、現訳教皇)、国家鳥占神官(オーガー、アウグル)、15の国事の主催者、7の神聖な祭儀の上演者、博愛主義者、ティターンズ※Ⅶ・ソリドゥス(ビッグ・ブラザー独裁者)のローマ版)、魔法使い(ハウル)』を用いました。


※Ⅶティターンズ姓名は名前では「ティトゥス」となります。


【Ⅷ】 (S・P・Q・R)『元老院とローマ市民』(政府)は「ローマ統領5ヵ年計画」により、ノビリス上流階級貴族セレブ)の数を倍増されました。私(オクタヴィヤヌス政権)は40年と1年(41年)経過しました。(私の政権下で、ケンソール(CENSVS・国勢調査統領)による)『センサス』(CENSVS・国勢調査)は『6回』行われました。そして、私も同僚(政府閣僚)として、通常のローマ統領コンスル)に(3回就任しました。3年・任期1年)し、ケンソール(国勢調査統領)としてセンサス(国勢調査))を3回行いました。1回目(BC28)(私ユリウス・カエサル・オクタヴィヤヌスローマ統領)と※マーカス※VIII1・アグリッパローマ統領年、私は(国勢調査統領となって国勢調査を)指令実行(インペリウム)させた。〈結果〉ローマ市・1,400,000人(140万人)、 (S・P・Q・R総人口)15,600,000人(1560万人)、(私とローマ政府は)3000人に「市民登録&ローマ神話洗礼」を行った。(入国許可)(2回目、BC8)ガイウス・センソリヌスとガイウス・アシヌスローマ統領年、再度私はユリウス・カエサル・オクタヴィヤヌスローマ統領とケンソール(国勢調査統領)となり1人でセンサス(国勢調査)を行った。〈結果〉ローマ市・2,200,000人(220万人)、 (S・P・Q・R総人口)11,400,000人(1140万人))、(私とローマ政府は)3000人に「市民登録&ローマ神話洗礼」を行った。3回目(AD14)セクティウス・ポンペイウスとセクティウス・アプリティウスローマ統領年、私はユリウス・カエサル・オクタヴィヤヌスローマ統領とケンソール(国勢調査統領)となり政府閣僚と共にセンサス(国勢調査)を行った。〈結果〉ローマ市・1,400,000人(140万人)、 (S・P・Q・R総人口)19,300,000人(1930万人)))、(私とローマ政府は)7000人に「市民登録&ローマ神話洗礼」を行った。私は、私たちの時代に会わなくなったロー(LAW・ローマ法)を廃止して、私の後援者(パトロンパトロヌス)、私も含めた多くの人々、そして先祖、たちがこれから先多くのことが示された、新しきロー(ロー(LAW・ローマ法)などによって。私のことを、模倣する後世のために数多くの先例を提供しておきます。


※VIII1 マーカス]」は「マルクス」の読みの1つ


【Ⅸ】5ヵ年ごとの元老院(セナートス上院)の政令布告式は行われます。その誓い(公約)(の式典は)、ローマ統領(コンスル)と旧ローマ神話司祭(サチェルドス)達が私の体調に合わせて行ってくれました。また、これらの誓いの履行(公約実現)において行われた、パーティゲームでは。旧神話司祭(サチェンドス)が(経営する)4つの著名なカレッジ(聖堂の会場、現訳大学の講堂・大会宮殿)に彼ら(元老議員)や、時には、ローマ統領(コンスル)が主催して行われました。また、両方の個人(男女のローマ市民)や全ての市民(下院会議・コミティア)は全会一致で「私の健康の継続」をパンテオン万神殿)で全員で祈ってくれました。


【Ⅹ】 元老院(セナートス・上院)は(私を神格化すべく)、カルメン・ザーリアの式典での賛美歌の中に、私の名前(カエサル・オクタビヤヌス)を含ませようとしました。(元老院は)私が生きている間は、私(という存在)が永遠に神聖であるとというかその可能性について示唆し、(私の神格化を決議しようとしていました。)しかし私はこれをVETO拒否権・拒否・ヴェトー)しました。なぜなら、トリブキア・ポテスタキース(最高の護民官(護民官(元首)というより護民官(10数人))は、すでに法律(ローマ法)によって「神聖な存在」と(規定)されているからです。私は私の父(ローマ総統カエサル)の保有していた『神に通じる魅力(サチェルドラルム※Ⅹ1)』を、私(オクタヴィヤヌス)が用い(ローマ市民に)提供(権力行使)する事態、(すなわち)『ローマ神の化身のように振舞う国家最高司祭(ポンティフェクス・マクシムス:教皇)』という役割について、(私がその地位についた場合)私は非常に消極的です。(昔話、私オクタヴィヤヌスが第18歳の時)、彼(ローマ総統(ディクタトール)・ユリウス・カエサル)は(神のような魅力(サチェルドラルム)を用いたローマ総統)としてローマの全て(宗教・政治・集団・個)のすべてを完全にコントロール(統制)においていました。その彼(ユリウス・カエサル)が(遺言・後継者候補)「年内に、『神のような権威』を私(オクタビヤヌス)に(持たせる)」という趣旨の(遺言)が(私に伝わりました。)しかし、私は(しくじって)、(私が神のような権威(サチェルドラルム)を公認する公選挙(1人)の会場(ローマ市))に到着するのが遅れてしまいました。でも、(私(カエサルの息子オクタヴィヤヌス)が到着すると分かると)、イタリア中から民衆(ローマ市民・ローマ人)が一緒に駆けつけて、私に群がり(黄色い声)を送っていただきました。(そして、私はサチェルドラルムの後任選挙に)立候補しました、(そして当時の)ローマ統領、プブリウス・スルキピウスとガイウス・ヴァルギリウスは私(オクタヴィヤヌス)が『神のような魅力を持つサチェルドラルム』をもつ存在であるという事を公認しました。



※※1原語:神権。聖職。ですが、語訳としては「神に通じるような魅力」、「カリスマ」を持つ人物」として使用します。

※Ⅹ2『世は神である』など論外、巨大な銅像を立てる事も論外らしい。



【ⅩⅠ】クィントゥス・ルクレティウスとマルクス・ウィニキウスがコンスルの年、(私は全軍指令(インペラートル)として、ローマ軍を率いました。そして、私とローマ軍は)シリア州(ローマ領)から(離反していた)都市(ポリス)を奪還しました。(私は任務が終わって)帰国しました。(その後、)「名誉と得の神殿」の「フォルトナ女神を引く駄載ロバの祭壇会場」にて元老院(上院セナートス)の閉会式が行われました、(司会は)国家最高司祭(ポンティフィクス・マクムムス・教皇)(オクタヴィヤヌス)がウェスタベスタ)女神の処女(神官)(ヴァージン))に命じ行われました、(同時に)『1年間の捧げ物の記念日式典』も行われました。この日は私のあだ名「アウグストゥス」にちなんで「アウグスタリア」(AVGVSTALIA)と呼ばれるようになりました。


【ⅩⅦ】私は「上院財務長官」(閣僚。セナトス・クワァエストル)を4度就きました。私が給料を与える存在(スタッフ)は500~1000人とか沢山いました。その中で、マーカス・レピドゥスとルシウス・アルキオーはローマ統領(コンスル)を17回も就き、長い時間(17年)も私の業績を上げてくれました(支えてくれました)。私のアドバイス助言)によって設立されたローマ軍の金庫についてですが、20年以上(25年)務めた兵士に対してそこの(金庫)から支払われるべきであるという事です。



【ⅩⅢ】ヤヌス・クイリヌス神(の帝権によって)私たち『テラ(TERAA)とオーシャン(OCEAN)』のローマの人々及び、共和国全体の防御(現実世界では総力戦体制)を行い。(我々の)勝利は確定されました。平和(PAX、ピースピウスパックス)、私(オクタヴィヤヌス)が生まれる前については、ローマ建国(BC753年)から、2度総力戦防衛をしたことがあり、2回閉じられたことがあります。と、元老院(上院・セナートス)のメモリ記録)ではあったと報告がありました。私の公布で3回目です。(総力戦体制の終了・門を閉鎖する事※ⅩⅢ1)


ⅩⅢ1ヤヌス神殿の門を閉じるアウグストゥス帝という題材で有名。



【ⅩⅣ】私の可愛い息子達、幸運で名誉あるガーユスとルキウス・カエサルと同級生の少年たち(親衛隊少年団、ユーベント)、少年(ガイウス、ルキウス)は14歳の時に私に変わって、5年後閣僚(マジストテリアル)に明記(就任)する前に準備として「副ローマ統領(予定執政官)」に就任しました。彼らはフォーラム(公会広場、コミティア、市民会議(下院)会議場)に案内された日から、(下院会議)に参加する必要があります。(下院会議)で彼ら(ガーユスとルキウス)と同級生の若者(親衛隊少年団)らにローマ軍騎兵と同じ銀の盾と槍の作品(記念としてプレゼント)する事を決議しました。その事は※ローマ・ユニバーシニティ(ローマ公園公会堂。現訳:大学(ローマ大学))※3に記録してあります。



【ⅩⅧ】 グナエウス・レントゥルスとプブリウス・レントゥルスがコンスルの年に、税金「10万(貨幣)」か「由来穀物」(に対する政策のため)「私の穀倉地帯」(彼(アウグストゥス)が所管する共和国の領土・皇帝属州」を多くの男性(市民労働者)に使えるようにしました、これらを多くの人々(労働者や他の人々)もお金や穀物を(作れるように開放しました。)また、歴史的遺産(宮殿お城※2)などを一般開放しました。


※2 エジプト属州の事を言っているのかもしれない、かつてのファラオ王宮ピラミッドなどを一般開放(観光化)したようだ。


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